2010年12月28日火曜日

御立尚資 戦略「脳」を鍛える

BCG流 戦略発想の技術

2003 東洋経済新報社

企業にとって、戦略とは競争相手に対する優位性をつくりあげることである。
ここで、誰かが成功パターンを見つけると、他の多くの企業がまねをするので、そのやり方では差別化できなくなる。すると別の誰かがユニークな戦い方を考案し、勝ちを収める。
このように、経営戦略は発見・模倣・陳腐化・イノベーションを繰り返すのが特徴であり、「定石を超えた戦い方のイノベーション」が、戦略の本質である。
経営のプロ同士が競争する自由市場においては、戦略論の定石を知ってたうえで、新たな戦い方をつくることのできる「プラスアルファの能力」を身につけた者が優位に立つことができる。
この「プラスアルファの能力」を、著者が所属するボストン・コンサルティング・グループでは、「インサイト(Insight)」と呼んでいる。インサイトは、日本語にすると「直観」とか「洞察力」という意味になるが、やや異なったニュアンスて使われている。
「インサイト」を理解し、体験することによって、戦略構築能力を鍛えていくことが「戦略脳を鍛える」ことである。
「インサイト」の構成要素は、パターン認識、グラフ発想、シャドウボクシングという「スピードの三要素」、拡散、フォーカス、ひねりという「レンズの三要素」、以上の六つである。
戦略をたてるには、これらの要素を個々に使うのではなく、いくつかの要素を組み合わせたり同時に使ったりする。
本書によると、「インサイト」は学ぶだけでなく、自分で使う体験を積み重ねていくことが決め手となる。
自分自身で戦略について悩み抜き、そのなかで自然に使う感覚を感じる体験を蓄積することが重要である。
自動車の運転にしてもゴルフにしても、本を読むだけでは身に付かず、実際にやってみなければならない。
経営戦略の能力を高めるのも同じことで、実際の体験を積み重ねることがきわめて重要なのだという。
わかりにくい「インサイト」であるが、経営者の戦略構築力の巧拙が経営成績の差につながるのは理解できる。

2010年12月27日月曜日

2010年12月26日日曜日

吉村昭 史実を歩く

平成10年 株式会社文芸春秋

昭和2年生まれ

生麦事件の調査

1862年、島津久光の行列が東海道生麦村にさしかかったとき、イギリス人4人が馬に乗って行列のまえに立ちはだかったため、従士が怒り、殺傷したのが生麦事件である。著者は、歴史小説を書くため取材をして、いくつかの事実を知ることができた。
イギリス人は、横浜村在住の商人マーシャル、クラーク、リチャードソンと女性のマーガレットで、川崎大師を見物しようとしていた。
4人は、日本の風俗習慣に通じておらず、大名行列に敬意を払わねばならないことを知らなかった。日本人の外国人にたいする敵意についても十分に理解していなかった。
行列は、4百人あまりの従士によって組まれ、先導組、久光の乗り物を警護する本隊、後続組が一定の間隔を置いて進んでいた。
一行が出会った生麦村は、江戸湾の魚介類が豊富に揚げられる土地で、商店や茶屋、質屋、医者の家などが街道の両側に建ち並んでいた。
マーシャルたちは、先導組の険しい視線をやりすごすことはできたが、つづいてやって来た本隊は、左右に大きくひろがった規模の大きな集団であった。
マーシャルたちは道の左側に馬を寄せて通り過ぎようとしたが、興奮した馬が行列の中に踏み込んでしまった。
激昂した藩士たちは抜刀し、警護を指揮していた奈良原喜左衛門が、リチャードソンに走りより、左脇腹を斬り上げ、さらに左肩から切り下げた。マーシャル、クラークも他の藩士たちに斬られ、二人は無傷のマーガレットとともに馬で逃げた。
4人が斬られたのは、地元の郷土史家の資料によると、質屋兼豆腐商を営んでいた勘左衛門の家の前であった。
著者は、さらに事件後に生じたすさまじい余波について書きすすめたとき、殺傷についてのある疑念が浮かんできた。
奈良原は、リチャードソンの左脇腹を深く斬り上げ、返す刀で肩から斬り下げているという。
当時のイギリス人記者が書いた記事によると、リチャードソンの乗っていた馬は、アラブ系の馬である。
大型の馬に乗ってたリチャードソンの体は、奈良原よりかなり高い位置にあり、はたして肩から斬り下げることができたのであろうか。
そこで、薩摩の剣術について取材したところ、奈良原の剣は、野太刀自顕流という流派で、長大な大太刀を使うものであった。
著者は、鹿児島に行き、実物の太刀と「抜」という自顕流の技を目にして、はじめて実感することができた。
この事件ののち、イギリスと薩摩の間で、薩英戦争がくりひろげられ、両者が互いの実力を認めあって親交をむすぶようになった。
イギリスから最新の兵器を手に入れた薩摩は、戊辰戦争で旧式の武器しか持たない旧幕府側の大兵力を蹴ちらした。
もし、この事件がなければ、日本の近代史も、また違ったものになっていたことであろう。

2010年12月20日月曜日

副島隆彦・佐藤優 暴走する国家 恐慌化する世界

平成20年 株式会社日本文芸社

副島隆彦 1953年生まれ

佐藤優  1960年生まれ

言論界で注目されている二人による対談である。
佐藤優は独特の個性があるが、一方の副島隆彦も自らを預言者あるいは霊能者と称している。
佐藤優によると、ロシア語で「イエズス会士」というと、「偽善者、策略家」という意味がある。それは、イエズス会という組織は現地の習慣にできるだけ順応し、相手の社会に入り込もうとするからである。
16世紀ごろ、イエズス会は、見た目にはロシア正教とまったく同じ形のカトリック教会を作ってロシアに入っていった。カトリックとロシア正教とが、どう違うのか知らないが、ロシア正教徒からはイエズス会は嫌われているのであろう。
日本でも、織田信長に近づいたのは、イエズス会の修道士であった。

陰謀とか秘密結社といった話題になると、アメリカ大統領が、裏で誰かに操られているとか、世界を動かしているのがユダヤ人であるとかいうが、まともに信じる人はいないだろう。
そう言えば、ベストセラーにもなった「ダヴィンチ・コード」もその類の本であった。
ニュートンも、「フリーメイソン」であったかどうかはともかく、何十年も錬金術の研究を続けていた。
探しものは見つからなくても、そのかわり、他の価値あるものが見つかるということはある。

副島隆彦の預言によると、国家は今、めちゃめちゃなことをやりだして暴走を始めている。
日本も「新統制経済国家」への道を歩んでいるということである。

2010年12月19日日曜日

2010年12月16日木曜日

山内昌之・中村彰彦 名将と参謀

時代を作った男たち

2010 中央公論新社

山内昌之 1947年生まれ

中村彰彦 1949年生まれ

歴史ブームのおり、碩学二人の対談集である。
本書を読んでいると、あたかも居酒屋でのサラリーマンの会話のようである。
居酒屋でのサラリーマン同士の話題といえば、その場にいない会社の人間の悪口や噂話である。他人の悪口は、酒の最高の肴だという。
歴史家が、歴史上の人物について語るとき、どんな大人物であっても、こき下ろしたり、笑いの対象になる。相手は、死んでしまった人たちだから、何を言おうとかまわないわけである。
一人で書くときは、おのずから節度がでるが、二人で対談すると、知識をひけらかすこともあって、過去の人物の悪口に近いことが、言いたい放題になるのかもしれない。
たしかに、歴史上の人物が悪いことをしてきたことを書いたらきりがない。
織田信長の残忍さをみると、つくづくあんな時代に生きていなくてよかったと思う。
徳川家康が、豊臣家を滅ぼしたときのきたないやり方は、後々まで記憶されることだろう。
幕末には、陰謀や謀略が渦巻いていたが、坂本龍馬が誰によって暗殺されたかは、いまだに謎である。龍馬の大政奉還論は、徳川を残すものであったのに対して、西郷隆盛などは、あくまで武力による倒幕にこだわっていた。そこで、龍馬が邪魔になってきたのが、龍馬が殺された理由であるという説がある。
その説によると、龍馬暗殺の黒幕は、西郷隆盛であったことになる。
このころの薩摩武士のエネルギーは、すさまじく、平気で人を殺している。
薩摩の黒豚や黒牛は、島津家が琉球から移入したものだという。当時から肉食をしていたのである。
生麦事件で斬られたイギリス人も、島津久光の行列に出会ったのは不運であった。
ともあれ、昔も今も、世の中、きれいごとばかりではない。

2010年12月13日月曜日

関志雄 チャイナ・アズ・ナンバーワン

2009 東洋経済新報社

1957年香港生まれ

1978年、鄧小平によって、それまでの毛沢東路線は否定され、「改革開放」を軸とする政策が始まった。
このとき、中国のGDP規模は日本の2割程度であった。だが、30年間にわったって年率10%近い成長を続けてきた結果、2010年には日中逆転が起こりそうである。それでも、一人当たりのGDPではまだ途上国の域を出ていない。
したがって、今後も高い成長を維持していくことが見込まれている。
2030年までには、中国のGDPがアメリカを抜いて世界のナンバーワンになることも十分ありうることである。

中国は経済大国として台頭してきたが、乗り越えなければならない課題も多い。
人口の高齢化、格差の拡大、環境の悪化、通商摩擦の激化、政治改革の遅れなどである。

著者によると、1990年以降、中国経済が躍進を遂げたのに対し、日本経済が低迷しているのは、日本では「改革開放」が進展していないためである。日本では、政府が既得権益を尊重するあまり、景気対策という名の下に、次から次へと公的資金を衰退産業につぎ込んできた。このため、国全体の投資効率は悪化し、産業の高度化も進展していない。中国から学ぶべきことは、新しい成長分野の育成を推進しなければならないということである。

日本は中国の経験から学ぶとともに、中国経済の活力を活かすべきである。
中国の台頭は脅威となるばかりでなく、日本経済活性化の契機となりうる。中国は生産基地としてだけではなく、製品の市場としても注目されている。日本が優れている分野においては、日本にとっても多くのビジネスチャンスがあり、日中が補完関係に立つことが望ましい。

日中両国の歴史認識の問題や、両国民の相互不信は、経済協力の妨げになっている。
しかし、ヨーロッパでは、二度に渡って世界大戦を戦ったフランスとドイツが経済統合をはたしている。
日中間の過去の歴史も乗り越えられないということはない。

2010年12月12日日曜日

2010年12月11日土曜日

原田武夫 計画破産国家アメリカの罠

―そして世界の救世主となる日本

2009 株式会社講談社

1971年生まれ

著者は、2005年外務省を退職した。「なぜそこまで?」と思わざるを得ないほどバッシングされる官僚制、ますます劇場化し、茶番と化していく政治とマスメディアにたいする違和感もその原因である。
アメリカ発の金融危機が発生すると、世間ではアメリカ流の金融資本主義が終焉したとか、アメリカの覇権が崩壊したとか言われていたが、著者は、そうは思ってはいなかった。
著者によれば、アメリカは「計画破産」を謀っている。
膨大な債務を抱えているアメリカは、そのうち、カナダやメキシコと経済統合して、北米共通通貨「アメロ」を創設するであろう。
そのとき、新通貨の価値は、今のドルに比べて大幅に低下している。
いっぽう、ヨーロッパ諸国も危機的な財政破綻に瀕している。
そのため、世界の投資資金は、最後に選ばれた国・日本に殺到し、一時的に、日本に金融バブルが訪れるはずである。
今のところ、著者の言うようにはなっていない。
しかし、日本は、アメリカの強い影響を受けてきたにもかかわらず、一般の人は、アメリカの政治や経済のことを、ほとんど知らない。
外貨建ての金融商品が溢れていて、それらに投資しないと乗り遅れるのではないかという不安をかき立てられている。
投資によって大きな損をこうむっても、「自己責任」と言われてしまう。
自分ではわからないから、専門家が運用しているという投資信託を薦められる。
それでも、全員が損をすれば、ほとんど逃れることはできない。
先行きどうなるのかわからないという時代であるから、著者のような外務省出身の国際戦略情報の専門家が活躍する余地もあるのだろう。

2010年12月9日木曜日

小島祥一 なぜ日本の政治経済は混迷するのか

2007 株式会社岩波書店

1944年生まれ

日本の政治経済では、政治家、政府、日銀、財界という指導者が自分たちの利益を中心に考え、国全体の利益を考えることができない。

「日本で一番大事なのは自分の属している『集団』を守ることであり、その外側の『国』というものがどうなるかは、つきつめて考える習慣がないと言ってよい。」

「日本は民主主義が身につかず、集団主義で行動しており、積極的自由よりも消極的自由を求めており、『公益』を無視して集団の『私益』を追求している。」

「日本は個人が自立し、自由、平等、民主主義を実行する国として、まだ未成熟だと言わざるをえないのである。」

戦後の日本は、集団主義によってひたすら経済成長を追求し、1980年代の初めには、先進国の経済規模にまで到達した。日本は、それでも飽きたらず、集団主義を強化して、ひた走るだけだった。
その結果は、貿易黒字拡大、日米経済摩擦、プラザ合意、円高、内需拡大、バブルの拡大と崩壊、その後の長期低迷であった。

日本では、「上からの指示」にしても「赤信号、みんなで渡ればこわくない」にしても、他人の行動を基準にして自分も行動するのが無難であるという考え方が強い。
その結果、失敗しても、「みんなで決めたのだ」と言って、誰も責任をとらない。
本書で言う「集団主義」とは、そのような意味も含まれるのであろう。

「日本が政治経済の混迷から脱出するには、個人が自立して、自由、平等、民主主義の国として成熟した国になり、『公益』をもっと強く意識して主張し、場合によっては『私益』を犠牲にする決意が必要である。」

著者は、混迷から脱出するには、他に依存するのではなく、個人の自立が大前提であると言う。

2010年12月7日火曜日

半籐一利 昭和史 戦後編 1945-1989

2006 株式会社平凡社

1930年生まれ

1945年8月15日の天皇による放送によって、国民は日本が降伏したことを知らされた。
鈴木内閣は総辞職し、東久邇宮内閣があとを受けた。マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは、8月28日である。
その日、東久邇宮は記者会見して、有名な「一億総懺悔」という言葉を使った。
敗戦の原因は、政府だけでなく、国民の道義がすたれたのも原因のひとつであると言い、国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならないと言った。
そして、この言葉に皆がなんとなしに「そういうもんか」と、納得し責任を追求しなくなったようだという。
戦争中は、新聞やラジオはもちろん、町会、隣組といった身近な組織が、お互いに監視しあい、「国賊」だとか「非国民」だとか言いあって、自分たちの立場の強化につとめていたことも事実である。
戦争責任を追求する「東京裁判」は、アメリカをはじめとする連合国によって行われ、日本人自身による戦争責任の追及はなされなかった。
戦後の改革は、ほどんどすべて占領軍が日本政府に指令を出し、日本がこれらを唯々諾々と受け入れることによって行われた。
つまり、戦後日本の骨組みをつくったのは、マッカーサーと吉田茂であった。
このように、戦後の主な改革は、アメリカによって行われ、日本は、それに従っていただけで、政府の中身は変わらなかった。
鳩山一郎とか岸信介などの戦前からの政治家が活躍し、それだけみると、あたかも戦争などなかったかのようである。
重要な決定は外国頼みで、責任を取る人がいないというスタイルは、その後も続いているようである。

2010年12月6日月曜日

2010年12月3日金曜日

中村隆英 昭和史 Ⅱ (その2)

「昭和の時代は、巨大なドラマのように、波瀾と起伏に満ちていた」、そのなかで、変わらないものがあった。変わらなかったものといえば、官僚機構がある。
むしろ、敗戦によって軍部がなくなった分だけ、官僚機構は強化された。
大学も、戦後、新制大学が多数できたが、東京大学などは、戦前のままであった。

1960年代の終わりになって、大学紛争がおこり、新左翼の活動が活発化した。
新左翼は、それ以前の学生運動とは異なり、多数の学生を引きつけて、一種のブームになった。
彼らの考え方の裏には、日本の社会は安定しており、東大卒の官僚によって支配されているという前提があった。彼らは、それを「国家権力」とか「体制」と呼んだ。
「国家権力」や「体制」にたいする反抗が、大学紛争の根にはあった。
とは言っても、その反抗は、むしろ「体制」に属するはずのエリート学生によるものであった。彼らの多くは、「体制」に組み込まれ、管理されることへの不満から、大学紛争を起こしたが、しょせん、つかのまの学生時代だけ、暴れて反抗してみせたにすぎなかった。
言いかえれば、「体制」や「国家権力」のなかに入って順応すれば、窮屈ではあるが、あとは安泰だと虫のいい考え方をしていたのである。
学生は、就職の心配などしなくてよい時代であった。

新左翼による運動は、最後は、連合赤軍による浅間山荘事件や、反動としての三島由紀夫の割腹自殺などで終わりをとげた。

あとから見れば、これらの事件は「革命」などと言うにはほど遠く、経済成長下の安定した社会での「あだ花」にすぎなかったのであろう。

2010年12月1日水曜日

中村隆英 昭和史Ⅱ 1945ー89

1993 東洋経済新報社

1925~

1945年8月15日の敗戦は、国民にとって、晴天のへきれきであった。
それでも天皇によるラジオ放送の効果は絶大で、軍隊は平穏に武装解除し、アメリカ軍による占領はスムーズに行われた。
国民は、虚脱感におそわれたが、ほどなく解放感にひたった。
アメリカ軍による統治は、直接にではなく、まだ残っていた日本の官僚機構を通じた間接統治であった。
占領軍の政策は、日本の民主化と軍事的無力化であり、誰もが昨日までの態度を一変させて「民主主義」を叫んだ。
政治では、鳩山一郎がGHQによって公職追放され、追放を解除されたら政権をかえすという条件で、吉田茂が首相になった。
吉田内閣のもとで、アメリカの原案をほぼ受け入れ、象徴天皇制と戦争放棄、国民主権を特色とする新憲法が施行された。

やがて、アメリカとソ連の冷戦が深刻化すると、アメリカの日本に対する態度も、日本を弱体化しようとするものから、対共産主義の同盟国としてのものに変わっていった。このようななかで、吉田茂は、アメリカとの間で、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結した。
日本の独立を回復し、同時に日本の防衛をアメリカに肩代わりさせることによって、できるかぎり軍事費を削減して、経済的復興に注力しようとした。

経済復興が一段落してからは、いわゆる55年体制のもとで、議会の三分の二を占める自民党の安定した政権によって、政治は経済の成長と発展を支援した。
自民党支配が安定した結果、党内の派閥抗争が激しくなったが、基本的政策を変えるものではなかった。
しっかりとした官僚制度にも支えられて、1970年代になると、日本は世界第二位の経済大国にまで成長した。

昭和の時代は、ソ連の誕生とその崩壊とに時間的に、ほぼ一致する。
戦前、日本は、国内においては共産主義に神経をとがらせ、満州でソ連と長大な国境を接することになり、ソ連軍は日本軍の最大の敵であった。それに備えて、日独伊防共協定や三国同盟がむすばれた。
戦後も、マルクス主義やマルクス経済学は、学問の世界で主流になったことがある。
ソ連の崩壊後、マルクス主義は相手にされなくなり、社会党も衰退していった。
東西の冷戦構造が解消し、世界が新しい段階に進んで行くことにより、冷戦構造によって政治的、経済的に恩恵を受けていた日本の立場も変化することになった。

昭和の時代は、まさに激動の時代であったが、そのなかでも、変わったものと、変わらないものとがあった。
とくに都市の外観や人々の暮らしは大きく変化した。
いっぽう、人々の考え方や行動は、あまり変わらなかったようである。

2010年11月29日月曜日

2010年11月26日金曜日

半藤一利 昭和史 1926-1945

2004 株式会社平凡社

1930年生まれ

「昭和史の根底には”赤い夕陽の満州”があった」、つまり、日本は日露戦争以来、ロシアからの報復を恐れ、日本を守るためには、当時は「満州」と言われていた中国東北部を確保することが絶対に必要だと見なされた。
満州に派兵されていた日本軍は、関東軍と呼ばれていたが、関東軍は日本の満州での地位を確固としたものにするため、満州国という傀儡政権を作るべく、満州事変を起こした。満州事変は、一部の軍人が勝手に起こしたもので、本来、厳罰に処せられるべきであったにもかかわらず、何のとがめもなかった。国際世論は、満州国を認めず、日本は国際連盟を脱退した。
その後、二・二六事件は、天皇の命令によって鎮圧されたが、これ以降、軍人によって政治が操られるようになった。中国にいた日本軍は、自分たちの手柄をたてようとして、ますます軍事作戦を拡大させていった。たとえば、憂国の青年将校の議論は、ソ連をたたくか、それとも中国が先かといったことで、とにかく、戦争がしたくてしかたがなかったのである。これに、マスコミも便乗して、ますます国中が、戦争一色になっていった。
アメリカと戦って勝つと思う人は、さすがにいなかったにもかかわらず、いずれはアメリカと戦わざるを得ないという空気が支配的となっていった。アメリカとの交渉が行きづまって、ついに戦争せざるを得なくなったが、アメリカも、また、日本を挑発したのかもしれない。
昭和天皇は、戦争をしたくなかったにもかかわらず、軍人の暴走を止めることはできなかった。しかし、最後に日本が降伏することになったのは、天皇の決断によるものであった。
この戦争では、三百万人以上の犠牲者を出した。それにしても、何とアホな戦争をしたものだと、著者は嘆いている。
昭和のはじめの20年間の教訓は、第一に国民的熱狂を作って、それに流されてはいけないということである。そうなると理性的な考え方が押しやられてしまい、アメリカと戦うなどという、してはならないことをしてしまう。
マスコミに煽られると同時に、自らも望んで、「ニッポン、ニッポン」と熱狂してしまうところが日本人の国民性にはあるらしい。

2010年11月20日土曜日

渋谷


金王八幡宮(渋谷館のあったところ)
 
鎌倉道

並木橋


2010年11月18日木曜日

瀬島龍三 日本の証言

2003 株式会社扶桑社

1911~2007

2002年に放送された「新・平成日本のよふけ」の内容を中心に構成したもの。
瀬島氏は、陸軍士官学校、陸軍大学を主席で卒業し、大本営参謀部員となり、その後関東軍参謀となる。敗戦後、ソ連の捕虜となり、シベリアに11年間抑留される。
帰国後、伊藤忠商事に入社、手腕を発揮して、伊藤忠を繊維商社から総合商社へと脱皮させた。
81年には、臨時行政調査会委員に就任した。

氏は、90歳でも、頭脳は明晰で、記憶もはっきりしている。
日米戦争のとき、参謀本部にいた氏の立場は一貫して明確で、あの戦争は、日本が特定の目的を持って米英に戦争をしかけたのではなく、在外資産凍結を受けたための「自存自衛の受動戦争」であったという。
日本は、経済封鎖を受けて石油が輸入できなくなった。
それによって陸海軍の戦闘力は失われ、工業生産も衰退して、日本の国力はどんどん落ちていき、一年後には戦争することなど不可能になっていただろう。
「窮鼠猫を噛む」という戦争だったから、はじめから勝てる見込みなどあるわけではなかった。
そのほかにも、氏は自身の戦争責任のようなことについては認めていない。
参謀だから、計画は作ったが、決めたのは上部だというわけである。

終戦のとき、全関東軍は、天皇の命令によって、一糸乱れず停戦した。
停戦交渉でのソ連との約束は守られず、スターリンの命令によって、60万人の兵士がシベリアに連れていかれた。
このとき、関東軍の了解があったのではないかと疑われたが、そうではなかったことは、後にソ連のペレストロイカによって証明された。
氏は、浄土真宗の信心の厚い家庭に育ったので、抑留中に自分の精神が不安定になって混乱しそうになると、念仏を三回唱えると、精神が安定したという。

昭和31年に、帰国して、翌年、伊藤忠に入社した。
昭和34年に正社員になってから、昭和38年には、常務になった。
昭和53年に会長になってから、その年には、日本商工会議所の特別顧問になった。
昭和55年、請われて、臨時行政調査会の委員になった。

氏は語らないが、商社や臨時行政調査会での活躍の裏には、陸軍士官学校や参謀本部での人とのつながりがあったのではないだろうか。

2010年11月17日水曜日

野中広務 老兵は死なず

2005 株式会社文芸春秋

1925年生まれ

小渕政権の官房長官、森政権の自民党幹事長を務めた。2003年、議員を引退するが、その後も政界に強い影響力を持っている。
「戦後保守政治の良識」を代表する著者は、小泉政権を阻止するため奮闘したが、敗れて、政界から身を引いた。

「小泉政権以降の経済政策をひとことで言うと、緊縮財政による焦土作戦ということになるだろう。
小泉さんの、『自民党をぶっこわす』は、まったくそのとおりのことをやっており、それは、とりもなおさず、中小企業、農家、商店といった自民党の旧来の支持基盤を、文字どおりぶっこわしながら、アメリカの巨大資本、日本のいくつかの有力資本、オリックスなどの新興金融コングロマリットを中心として経済の再編をすすめるということになる。
その際には、古いシステムはハードランディングで破壊するということになる。
その経済政策のイデオローグ的象徴となったのが、竹中平蔵氏である。」(p252)

「小泉さんの地元の横須賀には米軍基地があり、基地交付金や基地周辺事業でお金が落ちてくるので、財政面での不安がなく、陳情の必要もない。
小泉さんはいわば地方財政の苦しみ、痛みを知らない政治家で、だからこそ公共事業の縮小と言われても、何も感じずに自分の意見のように口にできるのだろう。
責任をとる立場にない民間有識者を集めて首相直属の審議会で政策を作らせ、選挙で信任を得ていない民間人を大臣に起用してそれを実施させるというのが、小泉さんのやり方だった。
しかし、この行き着くところはとても危ういと私は見ていた。」(p255)

著者は、このほかにも、小泉批判をいくらでも繰り広げている。
著者から見ると、郵政も道路も民間にまかせてしまえばいいという姿勢は、政治の放棄としか思えない。
今から見ると、「郵政民営化」が、そんなに重要なことだったのだろうかという気がするが、小泉首相は、「刺客候補者」をつぎつぎに擁立して、長年自民党に貢献した政治家を追いつめ、政治生命を奪っていった。
小泉首相は、「改革」を強調したが、おもいつきの発想を瞬発的に行っているだけで、その先にどのような日本があるのか示すことはできず、日本の屋台骨をつぶしてしまったという。
小泉首相は、「自民党をぶっこわす」と気勢をあげ、そのとおりになって、民主党の政権が誕生した。
まだ小泉政権の評価は定まっていないにしても、戦後政治の大きな節目であった。

2010年11月8日月曜日

加藤典洋 聖戦日記 抄

1999 日本の名随筆 昭和Ⅱ 株式会社作品社

1948年生まれ

「・・・先生は、黙ってうなずいていた。しばらくして、こう言われた。
たしかにドイツや日本は周辺国を併合したり、カイライ政権を樹立したりしようとした。しかしそれだって今回のクウェート進攻とは違う。クウェートの大半の住民がイラク軍を歓迎した。貧しければ貧しいほど、クウェート解放を喜んだ。ここには正義がある。ヒットラーにもヒロヒトにも、正義はない、と。
アッラーは民族を超えている。イスラムはゲルマン民族神話とも極東の異端の民族宗教とも全く違う。原爆が落ち、イラクが滅んでも、アッラーには何の関わりもない、と。
・・・サダム・フセイン大統領は日本人に言ったそうだ。
『アラブは一つの国ではない。一つが滅びれば別の国が立ち上がり、アラブの十九の国が反乱を起こす。世界十億のイスラムの人々が聖戦的殉教者としてイラクとともに戦うだろう』。
ぼくはブッシュもサダムも、好きではない。でも、戦う。誰だって、自分の住んでいるところに敵が攻めてきたら、そして友達や家族が死んだら、戦う。」
(p236)

イラクには、このような考えをもった若者がいるのかもしれない。
「自爆テロ」とか「テロとの戦い」というような単純な言葉だけでは相手を理解することはできない。
このような人たちと、どう接したらよいのか、極めて難しい問題である。

2010年11月6日土曜日

折口信夫 神道の新しい方向

1999 加藤典洋編 日本の名随筆 昭和Ⅱ 株式会社作品社

1887~1953 国文学者・歌人

「昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄ってゐようとは考へもつきませんでしたが、その或日、ふっと或啓示が胸に浮かんで来るような気持ちがして、愕然と致しました。それは、あめりかの青年たちがひょっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つて来ました。」(p11)(1946年の話)

そして、著者は、日本の国に、果たしてそれだけの宗教的情熱を持った若者がいるだろうかと考え、不安でならなかった。
日本の敗色が、日に日に濃くなっていくなかで、著者は、アメリカ人の宗教的情熱のほうが、日本人のそれより強いのではないかと思い到って愕然としたのであろう。
私は神道の教義については浅薄な知識しか持っていないが、日本だけが「神」によって守られているわけはなく、ましてや、「神風」が吹くはずもない。
他方では、イスラム教徒やキリスト教徒は、民俗も国も超えて、しつこく終わりのない戦いをしつづけてきた。
日本人は、宗教心が足りないと言う人もいるが、宗教が争いの原因にならないのであれば、むしろ好ましいことである。

2010年10月31日日曜日

2010年10月30日土曜日

米長邦雄 宮本武蔵の次の一手

2002 株式会社説話社

1943年生まれ

宮本武蔵は江戸初期の剣客である。
昔は、彼を知らない日本人はいなかったが今はどうであろうか。
著者は、将棋の永世棋聖という肩書きをもっている。
剣と将棋には、共通するものがあるのかどうかわからないが、どちらも一対一で戦うとういう点では同じである。
宮本武蔵の名前は有名だが、吉川英治の小説「宮本武蔵」は、あくまでフィクションである。間違いなく武蔵のものであるという遺品は、きわめて少ない。
「五輪書」は、武蔵が晩年に書いたものであるが、翻訳されて海外でも読まれている。
武蔵は、剣の道に志し、数々の試合に一度も負けたことがないと言われている。
武蔵の戦いは、厳流島での佐々木小次郎との決闘をもって終わった。その厳流島も、今では埋め立てられて跡形もない。

武蔵は、剣を握る時にはかたく握ってはいけないと言っている。
自然体に構えて、心にゆとりを持ち、手にもゆとりをもって、力をいれるなと言っている。そうすることで、相手の動きに、いかようにも対応できる。
武蔵は、やわらかく握った剣を、相手が打ちかかってきた瞬間にギュッと強く握り、相手を倒すのである。ゆとりがあれば、真剣になったときには、実力以上の力を出せる。
だから、ゆとりは非常に大事なのである。絵に描かれた武蔵は、二本の太刀を持った両手がだらんと垂れ下がっていて、いかにも頼りなさそうに見えるが、それこそが、ゆとりの姿なのである。

著者によれば、人生腹八分目が大切である。
著者は、人生のピークを70歳に置いていて、70歳までは全力投球しないことにしている。
著者は、いまだかって一度も全力疾走したことがない。
いいかげんな人生を送ってきたのではなく、余力を持って次の行動を起こすためである。

2010年10月20日水曜日

長谷川耕造 タフ&クール

Tokyo midnightレストランを創った男

2010 株式会社小学館

1950年生まれ

横浜の漁師町に生まれ、浅野中学から湘南高校に進む。猛勉強して、東京大学も受験するが、早稲田大学商学部に入学する。
ここまでは、普通とあまり変わらないように見えるが、それからが違う。
大学を2年で中退、ヨーロッパに渡り、皿洗いをして金を稼ぎながら、各国を放浪する。
1972年帰国、翌年に23歳で「長谷川実業」を設立、高田馬場に喫茶店「北欧館」をオープンし、大繁盛させる。
1980年以降、三宿や代官山、西麻布などにカジュアルレストランを次々とオープンする。
1997年、「グローバルダイニング」に社名を変更。1999年、東証2部上場。
西麻布の「権八」は、ブッシュ大統領と小泉首相が一緒に来店したことで知られる。
ほかに、イタリアンレストラン、「ラ・ボエム」、米国南部料理、「ゼスト」、アジア料理、「モンスーンカフェ」など、東京都内を中心に約60店のレストランを展開している。

大成功した著者であるが、2008年の「リーマン・ショック」以降の景気低迷で消費者の節約志向が高まり、外食産業の経営には逆風が吹いている。
こうしたなかで、これからどのように経営の舵をとっていくのか、著者の腕の見せどころである。
著者は、経営者としても個人としても、人生を思いきり楽しんで死んでいきたいと思っている。
そのためには、「タフでしかもクールでいこうじゃないか。」と言う。
起業家とか経営者には、つねに明るく前向きな姿勢を保っていくメンタリティーの人が多いようだ。

2010年10月15日金曜日

東急代官山

目切坂

2010年10月13日水曜日

中島義道 人生、しょっせん気晴らし

2009 株式会社文芸春秋

1946年生まれ

著者は、哲学者である。
カントとかショーペンハウアーだとか、今さら読む気もしないし、読んでもわからないだろう。
どうせ、われわれはもうすぐ死んでいくのだから、人生、なにをやっても気晴らしにすぎないらしい。
哲学者というと、一般の人と違うようであるが、酒が好で、「久保田」とか「八海山」とか酒の話題が出てくると、この点では、ふつうの人と変わりはない。

だいたい、若いころは、いっしょうけんめい考えれば、すばらしいアイデアが出てくるのではないかと思うものであるが、いくら考えても、なにも出てこないで、そのうち死んでしまうのがふつうの人ではなかろうか。

著者は、哲学者であるから、人生の知恵を身につけていると思う人がいるせいか、人生相談をしている。
「定年後、何をしたらよいのか分かりません。私はまず、何を考え、何をすべきなのでしょう。」という質問に、著者は、「滑稽です。もっともっと徹底的に悩みなさい。」と答えている。
私も、これでは、質問する人は、悩みを相談しているのか、それともこれまで無難にやってきたことを自慢しているのか理解に苦しむ。
自分の人生を、自分より不幸な他人に相談するとしたら、その他人にとっては自慢話を聞かされていると思うだろう。
占い師というのは、それほど幸福な人には見えないが、そういう人に、相談するというのは、自慢話を聞かせているようなものである。
話を聞かされる代償に占い師は金を得ているのではないだろうか。

2010年10月12日火曜日

小室直樹 日本の敗因

歴史は勝つために学ぶ

2000 株式会社講談社

1932~2010

最近、新聞で著者の訃報をみかけた。

著者は「大東亜戦争」をすべきでなかったと言うが、その理由は、日本が負けたからである。戦争は勝たねばならない、だから、敗れた戦争を肯定するということはありえない。こう聞くと、著者が軍国少年のようであるが、そういうわけではないらしい。
著者によれば、自由もデモクラシーも自らの手で獲得するものである。他人から与えられるものではない。これは、歴史が示すところである。日本がアメリカに占領されて、自由やデモクラシーがもたらされたと言う人は、わかっていない。マッカーサーによって与えられた「戦後デモクラシー」は、弱かった。「大正デモクラシー」が軍部につぶされたように、「戦後デモクラシー」は、ほどなく官僚によってつぶされ、日本は役人独裁の国家となった。だから日本人が本当のデモクラシーを手にするためには、まず「大東亜戦争」に勝っていなければならかったという回りくどい理屈になっている。

官僚組織というのは、しばしば、国家のためという大きな目的を忘れ、自分たちの組織を維持することにしか頭が回らなくなる。これは、戦前の軍事官僚も、戦後の官僚も同じことである。その結果、肝心なときに間違った判断をしてしまう。

「大東亜戦争」は、日本に石油を売らないという「石油禁輸」が開戦の原因になった。アメリカ、イギリス、中国、オランダが「ABCD包囲陣」をつくって日本を包囲した。日本は追い込まれて、開戦した。ここで、著者は、日本はオランダとだけ戦争をするべきであったと言う。オランダ領インドネシアを植民地から解放し、石油を獲得すればよかったのである。このとき、アメリカの世論は、圧倒的に戦争反対であったから、ルーズベルト大統領は戦争することはできなかったであろう。その当時、アメリカ国内の世論や、大統領の戦争をしないという選挙公約に気がつく指導者は、日本にはいなかった。それを、アメリカに攻撃をしかけたものだから「真珠湾を忘れるな」と言われて、アメリカを戦争に巻き込んでしまった。
著者の主張の当否はともかく、アメリカとの戦争を回避できる指導者がいなかったのは残念なことである。

日本の敗因になった「腐朽した官僚システム」は、戦後も脈々と受け継がれている。これを変えるには、著者によれば、教育制度を変えて、日本の将来を支える人を育てることである。しかし、考えてみれば、有能な人を育てる教育制度といっても、これもまた、「官僚システム」である。大学の受験制度は、典型的な「官僚システム」の産物であり、受験生は役所が作った仕組みのために苦しんでいる。
けっきょく、「官僚システム」を改革し、うまく使うしかなさそうである。

2010年10月9日土曜日

早坂茂三 怨念の系譜

2001 東洋経済新報社

1930年生まれ

越後地方は、「裏日本」と言われ、一年の半分を雪で閉ざされて、昔から中央から辺境と位置づけられてきた。
この越後地方から、三人の人物が出ている。幕末の長岡藩の家老、河井継之助、海軍の名将、山本五十六、そして田中角栄である。著者は、長く田中角栄の秘書を勤めていた。
いずれも志半ばで死んだ三人の見果てぬ夢を「怨念の系譜」としてとらえ、名誉を回復し、正当な評価を与えようとするのが本書の目的である。

そのうち、田中角栄は、政権の支持率が圧倒的に高かったころ、庶民宰相、今太閤、コンピューター付きブルドーザーとマスコミにもてはやされた。
そのマスコミは、田中角栄がロッキード事件で逮捕されると、いっせいに手の裏をかえして、金権腐敗政治の元凶ときめつけ、有罪の先入観にたった報道を全国に流し続けた。
東京地方裁判所の一審で実刑判決が言い渡されたとき、逮捕されてから7年近く経過していた。さらに10年後、田中角栄が亡くなって、最高裁判所は、被疑者死亡による公訴棄却を決定した。
有罪無罪をうやむやにされたまま事件は終結した。
いまでは、ロッキード事件のことを知る人も少なくなってしまったが、この事件は不可解な点が多く、「怨念が残った」と言われてもしかたがない。

田中角栄の政策としては、日中国交正常化を実現したことと、「日本列島改造論」が有名である。
「日本列島改造論」は狂乱物価を招いたと批判されたが、「表日本」と「裏日本」の格差をなくそうとした積極的な政策という評価もできる。
田中角栄の政治手腕は卓越しており、官僚を使うのがうまかったと言われている。
大金を動かしたのは事実であるが、金だけが目当てであったわけではなく、今でも国民的人気の高い政治家の一人である。

2010年10月7日木曜日

根岸森林公園



旧根岸競馬場観覧席


2010年10月6日水曜日

半藤一利 山県有朋

1990 PHP研究所

1930年生まれ

山県有朋は、萩の貧しい下級武士の家に生まれた。松下村塾に学び、奇兵隊で活躍した。戊辰戦争や西南戦争を戦った。その後、政府内実力者の相次ぐ死や失脚も手伝って、伊藤博文とともに最高権力者にまで上り詰めた。
日露戦争後は、軍、官界に巨大な派閥を作り、元老として政界を操った。

「大日本帝国」は、山県が伊藤とともにつくったものである。
山県が理想としたのは、天皇の権威を極限にまで高めて、神格化し、天皇が親政する天皇主義国家であった。「軍人勅諭」と「教育勅語」は、その象徴であり、山県はみごとにそれを完成させた。

山県が残したものは、その後も進化発展して近代日本を動かした。
明治から昭和にかけて、これほど影響力の大きな人物は、他にはいない。
しかし、いっぽうでは、権力欲が強く、冷酷であると言われ、国民的な人気があったわけではない。

山県は、民・軍にわたる官僚制度、統帥権の独立、治安維持法、現人神思想などの仕組みをつくった。また、昭和の日本を敗戦に導いた指導者の多くは山県の影響をうけたものたちである。

山県の明治国家の発展興隆への貢献は、非常に大きなものがあった。ただ、幕末の「尊皇攘夷」思想からは、誰が指導者になろうと、このような展開になることは予想されることである。
最後まで生き残った山県有朋も、大正十一年、八十五歳で世を去った。

2010年10月1日金曜日

半藤一利 それからの海舟

2003 筑摩書房

1930年生まれ

勝海舟は、徳川慶喜が「鳥羽伏見の戦い」から逃げ帰ってから、西郷隆盛と交渉して、江戸城の無血開城と慶喜の助命という大仕事を成し遂げた。
その後、慶喜は水戸に移され、さらに静岡に移された。慶喜の静岡移住についても、海舟が尽力し、海舟も静岡に移った。ところが、自尊心の高い慶喜は、困ったときには海舟を頼りにしたのに、逆に危機が去るとともに、弱みを握られている海舟を遠ざけ疎んじるようになった。それでも、海舟の仕事は、移ってきたおおぜいの徳川家の家臣たちにどう職をみつけるか算段することであった。このとき新たに開墾した原野に茶を栽培したのが成功して静岡茶は全国的なブランドになったらしい。
いっぽう、新政府の方でも、しきりに、海舟を政府の要人として迎えいれようとした。
海舟は、受け入れはしたものの、それほど熱心に仕事をしたわけではないらしい。
明治時代の海舟の主な仕事は、旧幕臣の生活の世話と、慶喜の名誉回復に尽力することであった。

西郷隆盛にたいする海舟の友情は、生涯変わることがなく、西南戦争直後の明治12年、ひそかに西郷隆盛を追悼する石碑を建てた。
この石碑は、海舟の死後、荒川放水路の掘削工事のさい、洗足池のほとりの海舟の墓の隣に移された。

2010年9月22日水曜日

洗足池

勝海舟夫妻の墓


西郷隆盛留魂祠


2010年9月21日火曜日

芳即正・毛利俊彦 西郷隆盛と大久保利道

1990 河出書房新社

島津氏は、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗北したが、領地を九州南部に留めた。薩摩藩は、北は九州山地で隔たれ、南と西は広い外洋に囲まれて外部と隔絶し、閉鎖的な独立国を形成していた。
薩摩藩では、藩士を鹿児島に集住させず、各郷村に分散居住させる外城(郷士)制度をとっていた。外敵に備えるためか、徳川に復讐するためか、青年に対する教育と武術訓練が重視されていた。こうした風土のなかで、いわゆる薩摩隼人と呼ばれるような薩摩武士が純粋培養された。

西郷隆盛と大久保利道は、同じ町内で生まれ育ち、歳も同じくらいで、藩士最下層の身分であった。
幕末、薩摩藩は島津斉彬のもとで、西洋式の技術を取り入れ、積極的に洋式兵術を採用した。
斉彬に認められたのが、西郷であり、大久保は斉彬亡き後、実権を握った久光に近づいて、その信任を取り付けた。

西郷と大久保は、薩摩藩を討幕の大事業へと導き、ついに目的を達成し、新政府の参与に就任した。
しかし、その後、軍事指導者として大活躍した西郷は、帰郷して引退してしまう。
いっぽう、大久保は、岩倉具視と協力して、誕生したばかりの新政府を作り上げるのに奔走した。大久保自身、この新政府は、いつまでもつのか不安にさいなまれながら、必死に維持していたが、潜在的に新政府をおびやかす可能性のある諸藩も、衰亡の坂を転落していた。以前から慢性的に窮乏していた諸藩の財政は、戦乱の過程で、ますます窮迫し、破綻に瀕していた。
このような背景があって、明治二年、「藩籍奉還」は、比較的スムーズに行われた。
続いて、政府は、帰郷していた西郷に上京を要請し、西郷の率いる兵力をバックにして、明治四年、「廃藩置県」を断行した。

いわゆる「明治六年政変」では、俗説では「征韓論」に敗れた西郷が下野したことになっているが、本書によれば、西郷は「征韓論」を唱えていない。
明治七年、西郷は、辞職して鹿児島に帰り、その後を追って鹿児島に帰る軍人や役人が多く、これらの人々を指導・教育するために「私学校」が設立された。
おりしも、政府は、士族の「秩禄処分」を進めていたが、鹿児島県では、思うように進まなかった。
明治九年、「廃刀令」は士族に精神的な打撃を与えたが、秩禄の公債化決定は、経済面で打撃を与えるものであった。熊本、秋月、萩などで士族の反乱が起こり、鹿児島士族も動揺した。

明治十年一月、政府は、鹿児島にあった陸海軍の弾薬兵器を他に移そうとした。
これが私学校徒を刺激し、西郷が鹿児島を離れているときに、弾薬庫を襲って決起した。もはや、西郷もこれを抑えることはできず、西郷軍は北上した。不平士族の不満が爆発したのが原因で、はっきりした挙兵目的があったわけではない。
西郷が率いる軍隊が敗れるわけがないという思い込みもあったのであろう。

その後、熊本城の攻撃、田原坂の激闘などを経て、明治十年九月、西郷は城山で最期をとげた。
この「西南戦争」では、薩軍の総兵力は、約三万三千、政府軍は約六万であった。また、戦死者は、ともに約七千という。
島津氏が、豊臣秀吉の刀狩令にも徹底的に従わず、人口の三分の一にも及ぶ武士勢力を温存してきたつけが最後に回ってきたのである。
翌年五月、大久保利道も西郷を慕う士族によって暗殺された。

2010年9月19日日曜日

加来耕三 徳川慶喜とその時代

1997 株式会社立風書房

1958年生まれ

幕末の歴史年表を見ると不思議に思うことがある。
1867年、幕府は「大政奉還」しているのに、なぜか、翌年、鳥羽伏見の戦いで「賊軍」とされている。
そこで、この間の事情を見ると、1867年、密かに成立した薩長連合は、討幕の計画を立てていた。
これに気付いた慶喜は、先手を打って、この年の10月、「大政奉還」して政権を朝廷に返上した。慶喜の本音は、何の実力もない朝廷は、どうせ幕府にいままでどおりまかせるよりないというものであった。そうなれば、朝廷の威光も借りて落ち目になった幕政を立て直すことができる。
その時、京都にいた慶喜は、幕府軍を率いて、大阪城に退き、京都を牽制することにした。
いっぽう、あくまで武力による討幕を目指していた薩長連合は、事態の推移に焦り、西郷隆盛の企みによって、江戸の薩摩浪士に乱暴を働かせて、幕府を背後から挑発した。
翌年の正月早々、幕府軍は、薩摩を討伐するため、京都に向かって兵を進めた。
鳥羽・伏見の戦いでは、戦いの準備をしていた薩摩の軍勢に準備不足の幕府軍は敗退した。
この戦いは、官軍側が、軍事的に圧倒的優位であったというわけではなく、あらかじめ戦うつもりであったのと、密かに作成しておいた「錦の御旗」を振りかざしたことが、勝利につながった。
それでも、なお、慶喜が大阪城に踏みとどまって抗戦すれば、官軍が必ず勝つとはかぎらなかった。
事実は、慶喜は、大阪城を脱出して、軍艦で江戸に逃げ帰り、幕府軍は崩壊した。
このときの慶喜の本心は、どうだったのだろうか。
実戦に怖じ気づいてしまったのか、それとも幼少から身についた水戸学(注)が影響して、徳川家を「朝敵」にすることに耐えられなくなったのだろうか。
こうして、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利道らによる討幕計画は成功して、新政府が成立し、大部分の藩はこれに従った。
慶喜は、これ以降、明治の世の中で表舞台に出ることはなかった。
討幕に成功した側も、日本をどのような国にしようという明確なビジョンがあったわけではなく、しばらく混乱の時代が続くことになる。

(注)水戸学:藩主徳川光圀の「大日本史」編纂に由来する。尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

2010年9月12日日曜日

半藤一利 幕末史

2008 株式会社新潮社

1930年生まれ

1853年、アメリカからペリーの艦隊が来航し、日本は開国した。
それにもかかわらず、「尊皇攘夷」の世論は、ますます強くなっていた。開国を強行した井伊大老は、水戸の浪士によって暗殺された。攘夷派が圧倒的多数を占めるなかで、もう時代は開国だと思っている人も、攘夷派のふりをした。そうしないと、暗殺されかねないからである。攘夷派と開国派にはっきりと分かれていたのではなく、入り乱れて、わかりにくくなっていた。
水戸の攘夷派が立ち上げた「天狗党」は、慶喜を応援しようと決起し京都をめざしたが、見殺しにされ、行き場を失って、3百人以上が敦賀で斬られた。

1866年、和宮の夫である将軍家茂が死去し、慶喜が将軍になった。続いて、和宮の兄である孝明天皇が突然死去した。孝明天皇の死は、暗殺されたのではないかという疑惑がつきまとっている。孝明天皇は、外国人が大嫌いで、かつ幕府を倒そうなどという考えは少しも持っていなかった。

1867年、岩倉具視らの公家と薩摩・長州連合の陰謀によって「討幕の密勅」が発せられた。おなじ頃、慶喜は、山内容堂の勧めにより、大政奉還の建白書を朝廷に提出した。

1868年、官軍(薩摩・長州)と旧幕府軍とが、鳥羽伏見で衝突した。
この戦いで、大阪城にいた徳川慶喜は、薩長軍が「錦の御旗」を掲げ、旧幕府軍が「賊軍」とされたのを知ると、戦う意欲を失い、江戸に逃げ帰ってしまった。
慶喜は、勝海舟に後のことはまかせ、上野寛永寺の大慈院に蟄居して恭順の意を表した。
いっぽう、官軍は、江戸に向かって進軍していた。
その間、西郷隆盛と勝海舟の会談によって、江戸城は無血開城された。
戊辰戦争を戦った会津藩、長岡藩などは、「賊軍」にされるとも思わず、徳川に対する忠誠心から薩長と戦っていると思っていた。

以上のように、幕末と明治初期は、大混乱の時代で、殺し合いが普通の時代であった。いわゆる「勤皇の志士」も、志は高かったにしても、報われた者は、ほどんどいない。
「明治の元勲」と呼ばれる人たちも、暗殺されたり、戦死したりして、最後に残ったのは伊藤博文と山県有朋だけである。

東京の旧市民は、薩長嫌いで、東京生まれの夏目漱石や永井荷風は、その作品のなかで、「維新」という言葉は使わず、徳川家の「瓦解」と表現している。
著者も、そういう心情に共感する一人である。

2010年9月4日土曜日

副島隆彦 時代を見通す力

歴史に学ぶ知恵

2008 PHP研究所

1953年生まれ

歴史的に見ると、日本は中国文化圈の国である。
それは、日本で使われている文字が漢字であることからも明らかである。
昔の日本の知識人にとっては、ひたすら漢文を読むことが学問であった。
ここで、日本人にとっては、漢文を学べば学ぶほど、ストレスがたまることがある。
それは、漢文で書かれた書籍の根底に流れている中華思想である。漢民族こそが、世界の中心であり、周辺の民族は文化的に遅れた野蛮人であり、日本は東夷と呼ばれていた。
このような中国思想を学んできた日本人は、常に屈折した感情を抱かざるを得なかった。そのため、しばしば、中国に対する反感から、中国なんか世界の中心ではない、日本こそが世界の中心だと言う人が出てきた。中華思想の枠組みは、そのままにして、中国を日本に置き換えたようなものである。

江戸時代に、幕府は、仏教を保護し、朱子学を公式の学問とした。
それらに対する反発から、国学がさかんになり、幕末には平田篤胤や頼山陽の本がベストセラーになった。
尊皇攘夷が、そのころの一般的な思想になって、民族的愛国心が高揚した。
そのようななか、アメリカのペリーが、7隻の軍艦を率いて、1853年、品川沖にまで接近した。幕府は、これを追い返す力はなく、開国せざるをえなかった。
その後、攘夷つまり外国排斥は、当時の一般的な世論であったにもかかわらず、薩摩や長州も、イギリス艦隊の砲撃を受け、力の差は、あまりにも大きく、開国せざるを得ないことを思い知らされた。
明治維新は、イギリスの援助を得た薩摩や長州が、幕府を軍事的に圧倒したために起こったものである。このころ、アメリカは南北戦争のただ中にあり、日本をかまっている余裕はなかった。

尊皇攘夷的な考え方それ自身は、明治以降もますます強くなり、ついには日中戦争の泥沼にまで導いた。
日本は、中国との戦争で、目いっぱいで、もはや戦争を拡大することは難しいにもかかわらず、なぜ、アメリカとまで戦争したのだろうか。
アメリカとの戦争は、石油を供給しないというアメリカの挑発に乗って、海軍主導で始められた。陸軍と海軍はバラバラで、陸軍が中国で戦っているのに海軍はなにをしているのかという雰囲気があったのだろうか。というより、アメリカと戦争すれば負けるのがわかっているのに、陸軍も海軍も、それを自分から言い出すことができなかったため、戦争せざるをえなくなってしまったらしい。

アメリカと戦争して、予想されたように、徹底的に打ち負かされ、敗戦後、日本は、すべてにわたってアメリカの「属国」になった。

以上、本書から得た印象をまとめたものである。

戦後の日本がアメリカの「属国」であるという説はよく聞く。
日本は、軍事的にはアメリカに依存して、そのために経済的には繁栄した。
依存ばかりしていると、反抗もしたくなり、こんどは、中国と仲良くしようとする動きもある。
しかし、日本と中国とは、昔から仲がいいというわけではなく、ついこの間まで、日本が中国を侵略していたのである。

2010年9月1日水曜日

遊佐道子著 蓑輪顕量訳  日本の宗教

2007 株式会社春秋社

今日、日本人の3人に2人は、個人的な宗教的信仰は持っていないと答えるであろう。その理由として、本書では次の二つをあげている。
一つは、宗教的営みと文化的な営みが一体になっており、日本人の生活の中に深く染み込んでいるので、生活文化の宗教的起源が、はっきりと認識されることがなくなっている。たとえば、年中行事となっている正月休み、お盆休みなども、もとは宗教的意味を持つものであった。江戸時代には、大山詣で、富士講、お伊勢参りなど、宗教的活動は、同時に庶民の行楽でもあった。
二つ目には、幕府は、キリスト教を禁じるため、すべての日本人に仏教寺院に所属するよう義務づけた。この「檀家制度」は、すべての日本人を仏教寺院が管理するシステムであった。そのため、多くの日本人にとって、仏教徒としての自覚は薄れている。仏教は、宗教的な癒しや救いを求めるというよりは、葬式や墓参りのときにだけ意識されている。

仏教と神道とは、その初期のころから相性が良く、両者は、あざなえる縄のごとく日本の歴史・文化をかたちづくってきた。
江戸時代には、仏教に対する勢力として儒学が盛んになり、将軍家の庇護を得て、その地位を確実にした。いっぽう、儒教や仏教にたいする反感も強くなり、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などによって確立された国学は、日本を天皇を中心とする「神国」であると主張した。この「復古神道」は、のちに尊皇攘夷運動を先導する思想となり、ゆくゆくは徳川幕府を倒すことになった。それは、明治時代およびそれ以降には、神道を国家的な信仰にする基盤をつくり、ついには、戦前の軍国主義を主導する思想となった。
戦後は、国家神道は排除され、信教の自由が保証された。新興宗教が勃興し、新しい都市の住民を中心に、非常に多くの信者を獲得した。宗教と政治とは切り離されたが、靖国神社問題、創価学会と公明党など、なお宗教と政治との関わりを見ることができる。今も人々の記憶に鮮明に残っているオウム真理教による衝撃的な事件は、明治維新から敗戦を通じて、日本の文化的・宗教的な伝統が破壊されたことに、その遠因を求める人もいる。

日常、人々は、宗教のことをあまり意識することはない。それでも、宗教的な考え方や感覚は、何百年から千年という時間の流れの中で、あらゆる人間の営みに影響を与えてきたし、これからも多様な変化をとげながら、はてしなく続いていく。

2010年8月29日日曜日

2010年8月21日土曜日

鈴木一郎 ことばの栞

1978 東京大学出版会

1920年生まれ

日本熱 Japanolatry

安土桃山時代から江戸初期にかけて、佐渡の金山や生野の銀山が開発され、さかんに金銀が掘り出された。当時、日本は、世界でも有数の金や銀の産出国で、大判小判が大量に作られ、南蛮貿易で使われていた。
これが、西洋人の目を引かないわけはなく、日本は、西洋人のあこがれの的であった。

当時の日本は、はじめ、スペインやポルトガルと交易していたが、後から来たオランダ人やイギリス人に、スペインやポルトガルの真の目的は、キリスト教の布教とそれに次ぐ日本の植民地化であることを告げられた。
キリスト教の影響を恐れた幕府は、オランダがキリスト教の布教をしないという条件で、長崎の出島でオランダおよび中国とのみ交易をすることにした。これが、「鎖国」である。
この貿易は、理事の半数をユダヤ系が占める東印度商会を通しておこなわれた。
鎖国をしている国の側に十分な輸出品があるわけではなく、この貿易は、一方的なものであった。
今から見れば価値のないガラス製品とか、中国産の安物の陶器とかと交換に、貴重な金銀が使われたのであろう。

江戸幕府は、「鎖国」によって、キリスト教は阻止できたが、そのかわり多量の金銀を失った。
その当時の日本は、浄土真宗や日連宗の勢力が非常に強く、たとえキリスト教の布教を許していたとしても、日本全体がキリスト教の国になっていたとは思えない。
当時、スペイン・ポルトガルの国力は衰えつつあり、日本が武力によって占領されるということもなかったであろう。
そうだとすれば、わざわざ「鎖国」をする必要はなかったのかもしれない。
それはともかく、さらに200年以上を経て、その頃の新興国であるアメリカからペリ-がやって来たときには、これを追い返す力は、日本には無かった。

2010年8月16日月曜日

茂木健一郎 脳を活かす仕事術

「わかる」を「できる」に変える

2008年 PHP研究所

1962年生まれ 脳科学者

「わかっているのに、できない」ということが、よくある。その原因は、本書によれば、脳の「感覚系学習の回路」と「運動系学習の回路」が異なることによる。
「感覚系学習の回路」は、見る・聞く・感じるなどを通した情報の入力を司る領域である。
「運動系学習の回路」は、実際に手足を動かして情報を出力することを司る領域である。
この二つは、脳のなかで、直接、連絡をとっていない。そのため、感覚系と運動系の両者を連絡させるには、一度、頭のなかの情報を出力しなければならない。
考えることは、脳の最も主要な役割のひとつであるが、行動するために身体を動かすことも、脳が主導して行っている。
たとえば、一般に、日本人は、長い間、英語を学んできたにもかかわらず、なかなか会話ができるようにならない。会話ができるようになるには、実際に口を動かして外国人と会話するというトレーニングが欠かせない。
脳の出力と入力の連携をたかめることによって、脳が活性化し、自律性と自発性が生まれてくる。

脳は、変わりうる器官である。言い換えると、脳には「可塑性」がある。
人間の脳は、常に変わることができ、これは誰もが持っている能力である。
人間の脳が変わることができるということは、人間そのものが変わることである。
それまでの人生で、どんな仕事や行動をしてきたか、どれに成功して、何に失敗したかは、関係がない。
脳、したがって、自分は、つねに変わることができる。
脳梗塞などの病気のため、脳の機能の一部を失っても、リハビリによって回復することはよくある。
脳に可塑性があり、常に変わることができるのは、脳のすぐれた機能である。
しかし、その一方では、使わないでいると、今までできていたことが、できなくなってしまう。
そのため、スポーツ選手は、つねに練習していなければならない。
また、高齢になって能力を維持していくのは、かなり大変になってくる。

2010年8月15日日曜日

島田裕巳 金融恐慌とユダヤ・キリスト教

2009 文春新書

1953年生まれ

1980年代の終わりに東西の冷戦構造が崩れてから、グローバル化が進展し、従来の国民国家の枠組が、ゆるくなっている。
そのため、政治問題より経済問題のほうが、注目されるようになった。
いっぽうでは、政治から宗教へのシフトが起こっている。世界各地で、宗教的原理主義運動が台頭し、過激派によるテロも続発した。
政治に代わって、経済や宗教が重要性を増して、注目を集めるようになってきた。

著者は、宗教学者であるが、本書では、宗教と経済との隠れた関係を明らかにしている。
西欧の経済のあり方や、それを分析する経済学には、ユダヤ・キリスト教が大きな影響を与えている。
かって、マックス・ウェーバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著わし、宗教が資本主義の発展に深く関わっていることを論じた。
アダム・スミスの「国富論」で有名な「神の見えざる手」という言葉にも、キリスト教の深い影響を見ることができる。

アメリカ合衆国では、国民の8割が、キリスト教徒である。したがって、国民の考え方にも、キリスト教の影響が大きい。
「旧約聖書」は、ユダヤ教とキリスト教の共通の聖典であるが、その世界では、神の人間にたいする怒りによって、この世の終わりが訪れるという終末論が展開されている。ほとんどの人間は死んでしまうが、選ばれた特別な人間だけが生き残るというのも、その特徴である。2001年に同時多発テロが起こったときにも、今回の100年に一度と言われる金融危機においても、多くのアメリカ国民が、旧約聖書に書かれているような終末論を思い浮かべた。

ユダヤ教徒は、人口では、ごく少数だが、国民の上層部ではかなり影響力がある。
ゴールドマン・サックスの創始者もユダヤ人であり、金融資本への影響力が大きいと言われている。
また、ハリウッドで映画を作り始めたのもロシアから亡命してきたユダヤ人が中心になった。娯楽映画の底に流れている考え方にも、旧約聖書の影響が見られるという。
そういえば、他の人間は皆、滅んでしまうが、自分だけは助かるという「ノアの箱舟」のような話は、日本ではあまり聞かない。

宗教学は、人間の目に見えない宗教活動を研究しているが、宗教と経済活動とは、深くつながっているらしい。

2010年8月12日木曜日

三輪修三 多摩川―境界の風景

昭和63 株式会社有隣堂

1939年生まれ

川には、様々なイメージがある。
仏教では、此の世とあの世の境にあるのが三途の川で、人が死んで7日目に渡るという。
「対岸の火事」と言えば、自分には関係がなく、まったく痛痒を感じないことである。
西洋でも、「ルビコン川を渡る」と言えば、もはや後戻りできなくなるような重大な決断をすることである。
多摩川の下流は、東京都と神奈川県の境であり、今でも川を渡ると、ある種の感慨がある。
もっとも、江戸時代より以前は、川の両側ともに、武蔵の国であった。川の流れも、その当時は、今よりひんばんに変わることがあり、村の間で、境界争いが絶えることがなかった。
江戸時代の始めには、東海道には六郷大橋が架けられていた。それが流されてから、再建されることはなく、かえって、江戸の防衛が意識されて、わざと架けられなかった。明治元年、明治天皇の東京行幸の時は、多数の船を並べて橋にした。

多摩川は、江戸や東京の飲料水を供給したばかりでなく、徹底的に利用されてきた。
多摩川上流の奥多摩は、江戸時代には、林業が盛んで、水運を利用して、江戸の町に木材が運ばれた。
昭和40年に砂利の採掘が全面的に禁止されるまで、多摩川の砂利は採掘され尽くされた。府中の多摩川競艇場や川崎の等々力緑地の池は、砂利穴を利用したものである。鉄道では、南武線や京王線なども、当初は、砂利を運ぶために建設されたものである。
多摩川上流域の水は、ダムに貯えられ、放水量は調整されている。さらに、羽村の取水堰で導水されているので、それより下流は支流である秋川の水であるとさえ言われている。
本書が出た当時は、生活排水や工場廃水が川に流れ込んで、水質はきわめて劣悪であった。
いまでは、かっての石がごろごろしていた河原の風景とは、かなり違うにしても、水質も改善され、だいぶ自然が戻ってきたようである。

2010年8月9日月曜日

2010年8月2日月曜日

立花京子 信長と十字架

天下布武の真実を追う

2004 株式会社集英社

1932年生まれ

「『天下布武』の理念を掲げて、ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力のために立ちあがった信長は、彼らによって抹殺された―。信長研究に新風を吹き込んできた注目の研究者が、この驚愕の結論を本書で導きだした。」(扉より)

「1492年のコロンブスの『新大陸発見』以後、十六世紀に入ってからのイベリア両国が中南米、インド、フィリピンにおいて展開した大植民地化政策は、カトリック布教を先兵として展開されていた。・・・
彼らによって突き動かされた、グローバリゼーションの大きなうねりが、安土にまで押し寄せていたのは明らかであった。」(p190)

信長といえば、比叡山焼き討ちなど、仏教の僧侶を虐殺したことでも知られている。
これも、信長の残忍さだけはで説明がつきにくいが、キリスト教の宣教師からの何らかの教唆があったとすれば、説得力が増す。
秀吉の無謀な朝鮮出兵も、宣教師による海外情報から決意されたのかもしれない。
また、堺では、千利休のまわりにキリシタンが何人もおり、洗礼の儀式の一部が茶の湯の作法に取り入れられているという話もある。

戦国時代、および安土・桃山時代は、日本人が最も活動的であった時代だが、キリスト教文明の影響は非常に大きく、後の江戸幕府は鎖国政策を取らざるをえなくなったのであろう。

イエズス会は、20世紀に入ってから、再来日し、上智大学などの学校を各地に開設している。また、ザビエルの遺骨の一部も、聖遺物として日本の教会に戻ってきたとのことである。

2010年7月29日木曜日

米倉誠一郎 組織も戦略も自分に従う!

ビジョン・キャリア・チャレンジ

2004 中央公論新社

1953年生まれ

今の日本は、多くの人々が、「一体、この先どうなるのか」という不安と閉塞感に悩まされている。
それでは、景気が回復して経済が成長すればいいかというとそういうわけでもない。
今の世界経済は、中国をはじめとする新興国の経済に引っ張られている。
こうした経済成長は、大量生産・大量消費型の生活と、自然との調和を無視した利便性追求によって達成された。
産業革命以来のエネルギー多消費型の成長がこのまま続けば、地球がもたなくなるのはわかっている。
今、求められているのは持続的成長(サスティナブル・グロース)である。
持続型成長とは、連続的に成長するという意味ではなく、資源枯渇や環境破壊を伴わないで「長続きする」という意味である。
著者によれば、いま、こうした方向へ向かって国民を動かしていく「ビジョン」が求められている。
かって、池田首相が示した「所得倍増計画」は、日本人全体の行動パターンを規定した「ビジョン」であった。このように、「ビジョン」とは、具体的に見えるものでなければならない。
そこで、著者は、次の三つの「ビジョン」を提言している。

①2010年までに、すべての公用車・準公用車を燃料電池車にする。
②2010年までに、すべての小中学校を太陽光発電利用とする。
③2010年までに、日本に道州制とサマータイムを導入する。

本書には、キャリア、チャレンジ、イノベーションという言葉が多く使われている。
これらはすべて個人の働きである。
個人が、しっかりとした意識と自分戦略を持っていなければ、経営戦略も組織も生まれない。
今の日本で、いちばん必要なのは強い個人である。
著者の提言する「ビジョン」も、画期的な太陽光発電や燃料電池が発明されれば、すばらしいものになるだろう。
そうした発明や発見も、すべて個人の働きにかかっているのかもしれない。

2010年7月26日月曜日

多摩川源流

7月25日、高校時代の友人と多摩川源流(水干)を訪れました














 
















水干からの眺め

2010年7月20日火曜日

2010年7月13日火曜日

前田英樹 独学の精神

1951年生まれ

2009 株式会社筑摩書房

「漢字が読めない、歴史を知らない、計算ができない・・・大学生の『基礎学力』のなさが言われて久しい。だが、『教育』に過剰なこの国の若者が『学力』を欠いているとは驚くべきことではないか。」(扉より)

今の若者に基礎学力が足りないというのは、本当だろうか。それでは、学校教育に問題があるのだろうか。
著者は、学ぶとは、この自分が学ぶのであり、生まれてから死ぬまで、身ひとつで生きる自分が学ぶのだという自覚がなければならないと言う。
この意味では、今はどうかわからないが、かってどこの小学校にでもあった二宮金次郎のセメント像は、象徴的である。今では、二宮金次郎のことを知る人も少なくなってしまったが、二宮金次郎は、学校とは無縁の人である。16歳の時に両親をなくし、伯父の家に引き取られたが、この伯父は金次郎に本を読むことなど許さなかった。それで、金次郎は、仕事の途中に歩きながら「大学」という本を読んでいた。

金次郎は、学校などには行かず、わずかな時間を惜しんで本を読んだ。
著者は、二宮金次郎のような生き方こそ、本当の学問に対する態度であると考える。
いまでは、大学の世界ランキングが発表され、論文の掲載件数などを競いあっている。子供の学力も、世界標準で第何位だとかいっている。著者は、こういうことは、人生のなかで、ほんとうに考え、学ぶこととは違うのではないかと言う。

考えてみれば、学校へ行けなかった二宮金次郎の像が、学校にあるというのも、おもしろい。

2010年7月4日日曜日

五木寛之・森一弘 神の発見

2005 株式会社平凡社

五木寛之 1932年生まれ

森一弘 カトリック司教 1938年生まれ

今から1400年ほど前、日本に伝えられた仏教は、日本文化の重要な一部になった。それにたいして、450年ほど前にフランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教は、その後、徹底的な弾圧を受けた。
明治になって、日本は、「和魂洋才」という合言葉のもとに、西洋の文明を受け入れた。しかし、「和魂洋才」には、大きなごまかしがあるのではないか、洋才には、本当は深いところで洋魂とでも呼ぶべき精神のありようがあって、洋才を支えているはずである。その根にあたる洋魂こそがキリスト教文化であると五木は考えている。
日本人のキリスト教にたいする感情には、幕府による弾圧とキリスト教徒の殉教の歴史があり、拒絶反応と、ある種の負い目とが混じり合ったものになっている。
いっぽう、日本に最初にキリスト教が入ってきたのと同じ頃、アメリカ大陸では、宣教師が兵士といっしょになって、原住民の文化や生活にたいする残虐な破壊活動を行っていた。今日のアメリカ大陸の国家や文化の姿は、その結果である。
故ヨハネパウロ二世は、そうした行為はカトリック教会の犯した大きな過ちであったと謝罪した。そのほか比較的最近になって教皇が謝罪したのは、十字軍、異端審問、自然科学への弾圧、ナチのユダヤ人弾圧に対する教会の態度などである。
五木は、過去の歴史の汚点をあきらかにして謝罪した教皇の態度を勇気のあることであるとたたえている。これを言い換えれば、いかにカトリック教会が世界の歴史に与えた影響が大きかったかということでもある。
五木によれば、明治以来の日本の近代化とは、天皇制と国家主義という和魂と洋才を無理やり重ねたものである。それが、敗戦によって否定されると、こんどは「無魂洋才」という抜け道を走り続けてきた。いま、さまざまなかたちで発生する事件は、無魂洋才という抜け道が行き止まりに直面したことを物語っているという。
もしそうだとすれば、和魂も捨ててしまった日本人は、これから先、どうしたらよいのか、大変な問題である。

ところで、明治時代に、日本が西洋文明を受け入れたとき、キリスト教もふたたびやって来た。当時の日本人は、西洋文明もキリスト教も同時に受け入れるのは、国も文化も失うことであるという危機感に襲われた。しかし、今では、西洋文明とキリスト教とは、かならずしも同一でないことが、明らかになりつつある。
森司教も、百年、二百年という目で見れば、日本という文化のなかで、独自のキリスト教会が育つものと確信している。

2010年6月23日水曜日

高山博 歴史学 未来へのまなざし

中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ

2002 株式会社山川出版社

1956年生まれ

著者は、中世シチリア王国を研究している。
そこでは、ノルマン人でキリスト教徒の王と、その周りを囲むイスラム教徒やギリシア人の学者の絵にあらわされるように、異なる文化が共存し繁栄していた。
歴史の研究をしていると、国家というのは、けっして安定したものではないことに気づく。
人類の歴史のなかでは、古代から、さまざまな国が興亡を繰り返してきた。つい最近でも、ソビエト連邦は崩壊し、10以上の共和国に分かれた。ユーゴスラビアやチェコも分裂した。いっぽうでは、複数の国が集まってヨーロッパ連合をつくる動きも見られる。

日本についても、グローバル化した世界の一部として認識し、位置づける必要がある。著者によれば、かっての閉じた日本社会はもはや存在しないことを認識しなければならない。今では、情報、人、モノ、金、そして仕事が自由に動き回り、私たちは、日本という枠のなかではなく、競争原理が支配するグローバル市場の動きに翻弄されている。
このような基本的な状況を認識せずに、閉じた国を前提とした従来型の政策を実行しようとすれば、思いどおりの効果をあげることができないばかりか、状況をますます悪化させ社会の不安を増大させるおそれがある。
著者は、「ゆとり教育」や「ワークシェアリング」を、そうした閉じた社会を前提とした政策や考え方であると言う。「ゆとり教育」は見直されたが、中国やシンガポールの若者との学力差は、将来の競争力の差につながるのではと懸念される。

自動車会社での「派遣切り」が、大きな社会的問題になっていた。
日本に最後まで留まっていた自動車産業にも海外に生産拠点を移そうという動きがみられる。このほうが、雇用に与える影響は、はるかに大きいにもかかわらず、あまり議論されていないようだ。

2010年6月21日月曜日

2010年6月18日金曜日

北倉庄一 中世を歩く

東京とその近郊に古道「鎌倉街道」を探る

1998 株式会社テレコム・トリビューン社

1927年生まれ

鎌倉街道という名前は、鎌倉時代に使われていたわけではなく、後世になってから名付けられたものである。
鎌倉時代に使われていたのは、「上の道」とか「中の道」という名称らしい。
そのうち、本書による「中の道」Aルートは、次のようになる。

鎌倉→小袋谷→小菅ヶ谷→舞岡→柏尾→名瀬→鶴ヶ峰→白根→中山→川和→荏田→溝の口→二子の渡し→上野毛→猿楽塚→金王神社(渋谷)→勢揃い坂(青山)→千駄ヶ谷八幡→西向天神→宿坂(目白不動)→雑司ヶ谷(鬼子母神)→松橋(滝野川)→静勝寺(稲付城跡)→赤羽→岩淵、この先埼玉県。

いうまでもなく、鎌倉街道の古道がそのまま残っているわけではない。
それでも、著者も含めて多くの人がその跡をつなぎあわせる努力をしてきた。
横浜市戸塚区の小道が、東京の渋谷や雑司ヶ谷の小道と、かってはひとつの道としてつながっており、何百年か前に人が歩いていたのかと思うと興味深い。

そのうちいくつかの跡を訪ねてみたいものである。

2010年6月10日木曜日

勝間和代 効率が10倍アップする新・知的生産術

自分をグーグル化する方法

2007 ダイヤモンド社

グーグルは情報を独り占めしないで、惜しみなく提供する。それによって、逆に情報がどんどん集まってくる。著者が言うグーグルなみの知的生産力と効率化とは、このようなことだろうか。

「知的生産の技術」の梅棹忠夫をはじめとして、野口悠紀雄、立花隆などの名著はたくさんある。
著者は、中学1年のときにパソコンを親に買ってもらって以来、ほぼ毎日パソコンを使ってきた。幼少時からIT機器を使ってきた著者としては、これらの本に新しい方法を加えることができると思っている。

著者のやり方は、徹底的に合理的である。
たとえば、普通の人は電車で通勤し、体重の管理のため、スポーツジムに通って自転車漕ぎのような運動をする。著者の場合は、スポーツ自転車で通勤しているので、通勤時間がそのまま運動になっている。
仕事にしても、頼まれたものを何でもするということではなく、自分の価値が出せないような仕事については断っている。

知的生産といっても、けっきょくは体力である。そのため、著者は身体に悪いことはしないよう心がけている。酒、タバコ、ファーストフードなどの飲食は避け、睡眠時間も十分取るようにしている。

著者は、マッキンゼーという情報処理のプロ集団に居たときに、情報には「空、雨、傘の3段階がある」ことを学んだ。空を見上げると雲が出ているという事実があり、雲があると雨が降りそうだという解釈ができ、雨が降りそうだから傘を持っていこうという行動になるという。いろいろな出来事を後から振り返って見ると、何かが起こる前には、蒸気のようなもやもやしたものがあらわれ、しだいに形があらわれてくる。したがって、蒸気のうちに、ある程度の予測が立てられて対処できれば将来を変えることも不可能ではないことになる。大部分の人は、雨が降ってきてからあわてるのである。

著者は、19歳で公認会計士2次試験に合格、21歳で長女を出産、3人の子供の母である。この本には書いていないが、2回結婚して、2回離婚し、現在は独身であるらしい。誰にでもできることではないようだ。

2010年5月30日日曜日

東京スカイツリー

現在の高さ
389メートル

2010年5月27日木曜日

ゆうきとも 人はなぜ簡単に騙されるのか

2006 株式会社新潮社

1969年生まれ

プロマジシャン

奇術とか手品というと、なにかしらマイナスのイメージがある。
いっぽう、人にはなぜか騙されたいという気持ちもあり、推理小説が読まれるのも、プロマジシャンが人気者になるのもそのためである。
「振り込め詐欺」や超能力、霊能力など、数多くの詐欺事件がマスコミをにぎわせ続けている。そういう事件を客観的に眺めると、どれも、単純で幼稚な手法が多い。
じっさいのところ、詐欺事件が後をたたないところをみると、人は簡単に騙されてしまうものらしい。
普通の人は、騙したり、騙されたりといったことには慣れていない。人が言葉や文字で表すことと、その人の内面の意思とは同じであるはずというのが社会のルールである。幼い頃から、騙すことは悪いことだと教えられてきた。いちいち人を疑っていたら、日常の生活にも支障をきたしてしまう。
そこで、詐欺師は、そのような人の心につけ込んで、あんがい簡単に人を騙すことができるのである。

世の中にはあらゆる「騙し」のテクニックが横行している。
よく使われるのが、「あなたは信じますか?それとも信じませんか?」といった言葉である。こういうことを、ある状況で言われると、どぎまぎして焦ってしまうものである。ちょっと考えてみれば、この質問の本当の答えに近いのは「わからない」である。しかし、こういう質問が時間的余裕を与えられないで発せられると、「信じる」と言ってしまう人もかなりいるらしい。「信じる」はプラスイメージの言葉として、「信じない」はマイナスイメージの言葉として刷り込まれているので、自分が悪い人間だと思われたくないという心理が無意識に働いて、「信じる」と言ってしまうのかもしれない。
反対に、騙されまいとして「信じない」と、かたくなに言う人は、「自分の目で見ないと信じない」と言うことが多い。これは、「自分の目で見たら信じる」ということであり、このような人も、ありえないことを見せつけられると、あとは簡単に信じ込んでしまうことがある。

マジシャンにしても詐欺師にしても、基本的なテクニックは、冷静に考えさせる余裕を与えないことである。騙されないためには、相手を全面的に信じ込んでしまうのではなく、冷静に時間をかけて考えることである。

2010年5月24日月曜日

DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部 戦略思考力を鍛える

2006 ダイヤモンド社

企業が戦略を策定するとき、理路整然とした構想にもとづいて決定するかというと、そうでもない。
実際には、経営者の直感にもとづいて決定されることが多い。
スピード経営に直感は欠かせない。経営者は直感の精度を高めなければならない。その際、経営者の意思決定を歪める心理的な落とし穴にはたとえば次のようなものがある。

アンカリング
アンカーとは錨のことである。なにか決定しようとするとき、人はいちばん最初に得た情報にどうしてもこだわってしまう。これに引きずられて次に続く思考や判断が鈍ってしまう。家族や友人の何気ない一言、新聞の記事、テレビのコメンテイターの発言などに引きずられてしまう。これを避けるためには、できるだけ情報源を広げ、つねに様々な観点から問題を眺めなければならない。
他人のアイデアがアンカーになるのを防ぐためにも、だれかに相談する前に、まずは独力で問題を考えてみる必要がある。

現状主義
人はダメージから自分を守りたいという願望がある。
現状を打破するということは、行動を起こすことであるが、行動を起こすと失敗することもある。現状を維持することは、たいていの場合、より無難な策を取ったことを意味する。
人は、無意識のうちに、なにもしなくてもよい理由を探している。

埋没原価
「埋没原価」とは「回収不可能な過去の投資」である。
過去にいくら時間と金をかけて投資したものであっても将来利益を生まなくては何にもならない。同様に、過去に自分が下し、今となっては何の意味もなくなってしまったような意思決定を何とか正当化しようとして、本来選ぶべきでない選択肢を選ぶことがある。過去にした意思決定でも、途中でやめることが必要なこともある。
ウォーレン・バフェットはつぎのように言う。「もし穴のなかにいる自分を発見したら掘るのをやめるのがあなたにできる最善のことです。」

本書は経営書であるが、個人にもあてはまりそうである。

2010年5月23日日曜日

大森から大井町を歩く

古東海道、鎌倉道のあたりには古いものが残っています






鹿島神社

来迎院あたり

西光寺にて

大井三ツ又地蔵

大井庚申堂 

2010年5月22日土曜日

野口悠紀雄・遠藤論 ジェネラルパーパス・テクノロジー

日本の停滞を打破する究極手段

2008 株式会社アスキー・メディアワークス

ITは、インターネットが利用されるようになってから可能になった情報・通信技術である。
新しい情報通信技術であるITは、ジェネラルパーパステクノロジー(一般目的技術、汎用技術)であるため、組織や社会の構造と密接な関係にある。
「IT革命」は、経済活動にきわめて大きな変化をもたらした。
本書によれば、IT革命の利益を享受できないことが日本経済停滞の本質的な原因である。
ITにたいする基本的な転換がないと、日本経済の活性化は期待できないという。
アメリカでは、1990年代に企業の大幅な交代が進み、主要企業の構成が大きく変化した。それに対して、日本では、ほどんど変化が見られず、1990年代の中心的な企業がいまだに中心的な企業である。
さらに、エレクトロニクスなどの、ついこの間まで日本を支えていた事業が、もはや利益を生むものにはならなくなっている。
製造業中心の「ものづくり」にこだわるのではなく、ITを利用した価値の高い新しい産業構造に転換することが、これからの日本経済にとっての課題であるという。
1980年代は日本が世界を制覇したかのように見えた。
そのころ完成したのが、官庁や銀行の大型コンピューターを中心としたシステムである。
IBMなどの大型コンピューターを中心にしたシステムをメインフレームと呼んでいる。今では、このようなメインフレームを旧式なレガシー・システムとして問題視する声も多い。
日本の主な官庁や企業は、未だにメインフレームを使っているため、古いシステムのメンテナンスに膨大なコストをかけている。
IT革命といわれたのも過去のことであるが、それよりさらに昔のシステムが日本の企業の重要な資産であることが問題であるともいう。
昔懐かしい富士通とかIBMのコンピューターが今でも大企業の中枢では使われているのだろうか?

2010年5月19日水曜日

脇田成 日本経済のパースペクティブ

構造と変動のメカニズム

2008 株式会社有斐閣

1961年生まれ

「失われた10年」とはどんな時期だったのかを抜きに、日本経済を語ることはできない。そこで、この時期から振り返ってみたい。

90年代初頭
銀行の不動産向け融資の急増により地価の暴騰を招いた「バブル」が崩壊した。
当時、銀行はきわめて多額の含み資産を持ち、地価神話も崩壊していなかったので、今から見ると深刻には受け止められることがなかった。

90年代中頃の「追い貸し」と「先送り」
いずれ地価が上昇すれば、損失は回収できるという楽観的な期待のもとで、銀行による「追い貸し」とともに、超低金利政策と大判振る舞いの財政政策が始まった。

97年金融危機
北海道拓殖銀行、山一証券などが破綻し、銀行部門の不良債権問題の深刻さが、誰の目にも明らかになった。

小泉構造改革
竹中金融行政は、大銀行へ経営統合を迫るなどの強硬策をとり、不良債権の処理にめどをつけた。

2003年以降
好調な輸出に支えられて、日本経済は、ゆっくりと浮上し始めた。

2008年以降
アメリカから始まった金融危機による世界同時不況によって、輸出に依存していた日本経済は再び落ちこんでいる。

経済の担い手を、家計・企業・政府に分けることができる。
この間ずっと、家計部門は負担を強いられてきた。
そのルートは、①家計の所有する土地や株などの資産価値が下落した、②銀行・企業の不良債権処理の過程で給与所得にしわよせが及んだ、③超低金利政策が長く続いたため、利子所得が失われた、④輸出が伸びることで企業は不振を脱したが、給与所得にまでは恩恵が回らなかった。
このため、消費は伸びず、内需が不振なため、ますます外需頼みの経済になっている。

今後の日本経済を考えるうえで差し迫った問題は、財政悪化、社会保障維持、少子高齢化である。このうち、少子化があるために残りの二つの問題はさらに困難になっている。
そこで、著者は、思い切って子供への現金給付をすべきであると提案している。
じっさい、民主党政権のもとで、子供手当が導入された。
たしかに、経済学者の見方では、「子供手当」は少子化対策としては理にかなっている。
はたして、これが国民に受け入れられて定着し子供が増えるのかどうかはまだ分からない。

2010年5月16日日曜日

中井浩之 グローバル化経済の転換点

「アリとキリギリス」で読み解く世界・アジア・日本

2009 中央公論新社

1967年生まれ

「アリとキリギリス」は、イソップ寓話である。
グローバル経済は、経済成長を輸出で維持してきたアリ諸国と、内需主導で維持してきたキリギリス諸国との相互依存によって拡大してきた。アリ諸国の代表である日本は、優秀さと勤勉さを自賛してきたにもかかわらず、いっこうに豊かになれない。いっぽう、アメリカ人は、豪華な家に住み高価な車を乗り回してきた。

寓話では、冬になると、キリギリスは困って、アリは暖かく暮らすのであるが、グローバル経済のように両者に交易があると、アリも困ることになる。夏の間に、いっしょうけんめい働いてアリがキリギリスから得たものは、ドルという紙切れにすぎなかったので、アリに豊かな蓄えは残らなかったのである。

このようなたとえが適切かどうかは別としても、一国だけで経済を語ることはできず、グローバルな視点で考えなければならない。

日本経済の現状と今後についてどう考えたらよいのだろうか。
1990年代から2000年代の日本経済を形容して、「失われた15年」という表現が使われている。著者は、その間、日本経済が失ったものは三つあると考えている。
すなわち、①経済成長、②モノ作りの拠点としての優位性、そして③主体的に経済構造の改革に取り組む意思、である。

それでは、今後の日本経済は、どうあるべきか。
著者は、①主体的に経済の構造改革に取り組む意思と姿勢の重要性、②対外的には、「慈善的・大国主義的アプローチ」から脱却する必要性を示唆している。

「失われた15年」の停滞を経て、日本はもはや東アジアで唯一の経済大国ではなくなった。この事実を冷静に認識したうえで、主体的に構造改革に取り組みながら、東アジアの中での共生を図るしか日本経済の進む道はないという。

「日本経済」の衰退は、以前から指摘されてきたが、いよいよ確かになったきた。
政治家は経済に無関心、日銀は、これ以上やれることはないというのが現実である。
さらに、日本人は自分たちをアリだと思ってきたのだが、アジアの他の国々から見れば実はキリギリスであったのかもしれない。

2010年5月15日土曜日

鎌倉道を歩く

保土ヶ谷から菊名までの鎌倉道らしき道を歩きました。

保土ヶ谷区神戸町の古東海道の道標

    神奈川区神大寺の丘に残る農地

岸根公園

 篠原池

2010年5月12日水曜日

2010年5月11日火曜日

今井照 図解よくわかる地方自治のしくみ

2007 学陽書房

1953年生まれ

法律では、「地方公共団体」ということばが使われているが、一般には「地方自治体」が使われている。自治体は、普通地方公共団体と特別地方公共団体に分けられる。

普通地方公共団体は、都道府県と市町村である。特別地方公共団体には、東京都の特別区、地方公共団体の組合などがある。市町村は、さらに人口50万人以上の指定都市、人口30万人以上の中核市、人口20万人以上の特例市、人口5万人以上のその他の市という区別がある。指定都市には、その区域を分ける「区」が置かれている。

東京都では、戦時中の1943年に東京市が廃止され、東京都に吸収された。
現在では、東京都の区は特別地方公共団体として独立の扱いがされているが、横浜市のような区は、たんなる行政上の区域にすぎない。東京都の区は、市のようなもので、区には区会議員がおり、区長は選挙によって選ばれている。

もっとも、最高裁の判決では、東京都の特別区は「地方公共団体」とは言えないとして、区長の公選制を廃止しても違憲ではないとした。(昭和38年)

その後、特別区長の公選制は復活し、地方自治法でも東京都の区は特別地方公共団体となった。
最高裁の判例はあっても、地方自治法が変わったので、東京都の区は、憲法上も、地方公共団体である。

地方自治のしくみは、「2000年分権改革」によって、国の自治体への「関与」が大幅に制限されるなど、それまでとは、大きく変わっている。

2010年5月10日月曜日

半藤一利ほか 零戦と戦艦大和

2008 株式会社文芸春秋

「文芸春秋」の座談会を収録したもの。
戦艦大和は、日本が誇る巨大戦艦である。
しかし、建造当時から、すでに大艦巨砲よりも航空の時代だといわれており、山本五十六は、大和の建造に反対したという。
それでも大艦巨砲にこだわったのには、政治と利権がからんでおり、艦船建造予算に付随する人やポストが多く、簡単に舵をきれなかったこともある。
海軍を退役したあと、造船会社に天下る軍人も多かった。
ちなみに、半藤一利によれば、大正11年にワシントン海軍軍縮条約が結ばれて、新しい艦船の建造が制限されたので、造船会社の仕事がなくなったため、永代橋、勝どき橋など隅田川にかかる多くの橋を造船会社に造らせたのだという。

戦艦大和は、沈んでしまったが、戦後、呉海軍工廠は、アメリカの海運会社が、設備を借り受け、船舶の建造を始めた。
大和を建造した技術や設備は、戦後も健在で、昭和31年には、日本は造船量で世界一になった。

呉の造船所の運営を任されていたのが、後にNTTの社長になり、リクルートの未公開株事件で失脚した真藤恒である。
真藤恒は、石川島播磨重工の社長から、民営化される電電公社へ送り込まれた。
彼を推したのは、同じく石川島から東芝の社長になった土光敏夫である。

こうして見ると、世の中で何かが決定がされるのは、合理的な理屈ばかりではなく、むしろ偶然や、金とか人間関係によるところが大きいのではないかと思う。

2010年5月7日金曜日

東急沼部

六郷用水跡

桜坂(中原街道旧道)