2011年2月25日金曜日

小松和彦 神になった人びと

2001 株式会社淡交社

1947年生まれ

この世に生を受けた者を死後に「神」として祀り上げることは、古くからおこなわれている。
古い時代には「神」として祀られるのは特別の人生を送った人だけであった。
その条件とは、死後に「祟る」かどうかによって決定されていた。
柳田国男によれば、「遺念余執といふものが、死後に於いてもなほ想像せされ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることになるのであった」。

ところが、時代が後になると、立派な業績を残し天寿を全うして死んだような人でも、「神」として祀り上げることがおこなわれるようになった。
前者を「祟り神」系の「人神」、後者を「顕彰神」系の「人神」と呼ぶことができる。
この二つの「人神」は対極にあるようにみえるが、「祟り神」系の神も、時がたてば「顕彰神」系の神に変化するのが普通である。
祟りが終息したとみなされるようになると、祭神は信者たちの守護神へと変化し、それに伴って祟り神も英雄・偉人となるのである。

日本人の「たましい」の観念からいえば、個人の「たましい」は、何十年か経つと、「先祖」という「集合的なたましい」のなかに組み込まれてしまう。
これを乗り越えて個人の「たましい」を永続させようとすれば、神となって「社」に祀られ、末ながく、祀り続けよう、記憶し続けようと思う人たちを必要とする。
このように、「社」には、記念・記憶・支配という機能がある。そのため、自分から進んで、死後、「神」として祀られたいと思う権力者がでてきた。
豊臣秀吉を祀った豊国神社、徳川家康を祀った東照宮などである。
「顕彰神」系の神社は、とりわけ明治期には、政府が人心を支配するために、さかんに創建された。そのさきがけが、楠木正成を祀った湊川神社である。
これに対して、政争に敗れた側、あるいは民衆の側からも「顕彰神」型の神社が積極的に創りだされた。西郷隆盛を祀った南洲神社などがある。

以上のように、人が「神」になるかどうかは、その人自身ではなく、後世の人びとが祀ろうとするかどうかにかかっている。
「人を神に祀る」ことは、現在でも、まったくなくなってしまったわけではない。
ちなみに、東急東横線大倉山駅からほど近い丘の上に、「東横神社」という神社がある。東急電鉄の創始者である五島慶太が同社の発展に貢献した功労者の霊を慰めるために造営し、伊勢神宮より本体を遷座したものだという。
毎年慰霊祭が行われており、昭和34年からは五島慶太も祀られている。
神社は現在でも東急の所有であり、関係者以外の参拝はできない。

2011年2月23日水曜日

子安宣邦 本居宣長とは誰か

2005 株式会社平凡社

1933年生まれ

本居宣長は、江戸中期の国学者で、三十年以上かけて大著「古事記伝」を完成させた。
戦前の小学校では、国語読本に宣長とその師賀茂真淵の出会いの物語「松坂の一夜」という文章がのせられていた。
このこともあって、戦前・戦中の日本人には、「敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」という歌とともに、本居宣長は、広く知られ記憶されていった。

賀茂真淵は、万葉集を研究していたが、漢字を仮名として表記している言葉こそが、日本の古語やまとことばであり、漢字はあくまで借り字であると主張した。
真淵は、「古事記」などを正しく解釈するためには、古の心を理解しなければならない、そのためには漢ごころを除き去らねばならないとした。
宣長の古事記からの「やまとことば」の訓み出しも同じ考え方ですすめられた。
宣長にとって、「古事記」の漢文をよむとは、その漢文を通して、古代に話されていた古言やまと言葉を訓みだすことであった。
漢字とは、日本がやむなく受容した外国の文字であり、漢字には漢の国の異質な他者性が刻印されている、そのため漢字で書かれている「古事記」は、「古語のまま」に訓まれ、解されなければならないとした。
本居宣長のような国学者は、漢字で書かれた儒教や仏教のような外国の文化が日本にもたらされる前に、「ほんとうの日本」の文化があったはずだという考え方を持っていた。

宣長の神についての考え方は、多神教的でもあるが、天照大御神の生まれた皇国日本の絶対化という点では、一神教的でもある。いずれにしても、宣長は、「かみ」は人間の理解を超えているとしている。

宣長は、仏教を排したので、死後の世界に極楽とか地獄とかの区別があるとは考えなかった。死ねば、善人だろうが悪人だろうが、皆よみの国へ行くだけであるという。

宣長には有名な「遺言書」というものがあり、その中で、葬儀や墓について詳細に指示している。山室山に墓地を定め、別にある本居家の菩提寺には空の棺を送るように指示している。
実際には、いったん菩提寺で仏教による葬式が行われた後に、山室山に葬られている。遺言通りにはいかなかったのは、奉行所の指示によるものと思われる。
山室山の墓所は、まるい土の塚に山桜が植えられたものである。
墓所を定めたときに、宣長はつぎの歌を詠んだ。
「山室に千年の春のやどしめて風にしられぬ花をこそ見め」
「今よりははかなき身とはなげかじよ千代のすみかをもとめえつれば」

2011年2月22日火曜日

鎌田東二 神と仏の出逢う国

2009 株式会社角川学芸出版

1951年生まれ

著者は、40年以上にわたって、国内外の聖地を参拝して回っている。
著者は、日本文化の主流は「神仏習合」だが、それが成立する基盤として、さらに「神神習合」があったと言う。
「神道」という語は、「日本書紀」において初めてあらわれ、「仏法」に対置するものとして使われている。したがって、この時代には、すでに共同体ないし国家の伝統的基幹宗教文化として生活習慣化していたと考えられている。
神道は、「カミ」と呼ばれてきた聖なる存在に対する畏怖・畏敬の念に基づく祈りと祭りの信仰体系であり、生活体系である。
神道は、日本の風土のなかで自然発生的に生まれ、外来思想や外来文化の影響を受けながら形成され、洗練されてきた。

6世紀には、仏教が伝来し、蘇我氏と物部氏が争ったが、仏教は受け入れられ定着していく。
聖徳太子は、日本を仏教精神に基づく中央集権的な統一平和国家にしようとした。
この路線は、その後も長く続き、仏教と儒教と神道の三つは、相互に影響しあいながら共存し、今日にいたっている。

明治の初めには、神仏分離令によって神社は神祇官に所属することになるが、ほどなく神祇官は廃止された。
新政府の宗教政策は、新たな国家再編を試行錯誤しながら進められたため、一貫したポリシーはなく、目まぐるしく変わっていった。
平田派の国学者や神主は、日本は神道の国になると夢見ていたが、文明開化のなかで、かえって信教の自由が進み、時代遅れになった平田派は、どんどん政府から出されていった。
明治政府は、西欧列強に対抗するため、富国強兵政策を強力に進めるとともに、天皇を神格化し、明治憲法では、天皇は神聖にして侵すべからずと定められた。
古代においても、天皇をこれほどまでに神格化したことはなかった。
明治の指導者は、日本という国家を精神的に統合し強力に支えていくためには、八百万の神を祀る神社神道を中核にするのではだめで、天皇を中心にしなければならないと考えたのである。
「国家神道」については、神道が国教化されたというイメージをもつ人が多いが、正確には、国家が管理しやすく、統制しやすいように骨抜きにされた神社体制であった。

著者によれば、昭和20年の敗戦後、神仏分離の方向性は一度終わり、将来は新神仏習合ないし「神仏共働」の時代へと進んでいくという。
以上のように、本書では、宗教的な立場から神仏習合を論じている。
いっぽう、俗っぽく見れば、多くの日本人は昔から功利的かつ享楽的で、御利益がありさえすれば、神でも仏でも、かまわず信心してきたという面もあるのではないだろうか。

2011年2月7日月曜日

2011年2月6日日曜日

武光誠 知識ゼロからの神道入門

2006 株式会社幻冬社

1950年生まれ

日本人にとって神道はなじみ深いのだが、神道とは何かを語ることは難しい。
古代人の懐いていた死者や自然にたいする畏れの感情が、そもそもの起源だと思われる。
日本には、「八百万の神」と呼ばれるほど多くの神様があり、その起源もさまざまである。祖先を祀る神社には、伊勢神宮、出雲大社、春日大社などがある。自然や山にたいする崇拝に由来するのが、熊野神社や山岳信仰である。強い恨みをもって死んだ人は怨霊となり、神となる。この代表格が、菅原道真を祀った天満宮である。
日本のいたるところにある八幡神社は、もともと海の神を祀った宇佐八幡宮に由来する。稲荷信仰は、京都の伏見稲荷大社に起源がある。

6世紀に仏教が伝来すると、人々は、仏と神を同等に信仰するようになり、その垣根は曖昧になって、神仏習合となる。さらに仏教僧侶が考え出したのが、「本地垂迹説」で、仏は神の姿となって生まれかわるというのである。ここにおいて、絶対的な仏が、神となって生まれ変わるというかたちで、神は仏教の体系のなかに組み入れられ、神は仏に従属する位置に置かれたのである。

江戸時代の17世紀末になると、「国学」が起こり、仏教や儒教などの外来文化が根付く前の「本当の日本の姿」を「古事記」などの古代の文献から解釈しようとした。
なかでも、平田篤胤は、日本を天皇を中心とする神の国であるとする「復古神道」を唱えた。「復古神道」では、神道こそ万物の根源であるとして、仏教的な要素を排除した。
平田篤胤に学んだ大国隆正は、神仏分離を主張し、明治元年には神仏分離令が発布され、平安時代から続いてきた神仏習合に終止符が打たれた。神仏分離令によって、神社と寺は明確に区別され、神は仏より格上に置かれることになった。

明治政府の国家理念は、王政復古と祭政一致である。
神祇官が復興され、神社はすべてここに帰属することになった。
神道は、個人の信仰ではなく、国民の精神的支柱とされ、義務となった。
このような国家によって管理された神道を「国家神道」と呼ぶ。

第二次世界大戦の敗戦後、アメリカは、「国家神道」を、日本を戦争へとかりたてた精神的支柱であったとみなし、神社と国との分離を命じた。その後、日本国憲法では、政教分離、信教の自由が定められた。
国家の保護管理から離れ、宗教法人となって再出発した神社は、神社本庁という包括団体を設立した。

なお、「神道」と言うとき、明治時代に国家の祭祀とされた国家神道の他に、宗教としての教派神道があり、黒住教、金光教、天理教などがよく知られている。

神道は、キリスト経やイスラム経のような戒律も聖典もないが、日本人の間に古代から脈々と受け継がれてきた神にたいする畏れと感謝の気持ちを、その特徴としている。

2011年2月5日土曜日

大竹文雄編 こんなに使える経済学

2008 株式会社筑摩書房

大学で教えられているような経済学は、現実の経済とはあまり関係がない。
伝統的な理論経済学では、人は合理的な行動をすると仮定されている。
社会の仕組みを考え、人々が豊かになるにはどうしたらよいかを考えることは、伝統的な経済学ではうまくいかない。そのためには、人がどういう価値を重視するのか、価値観を持っているのかを知らなければならない。
非合理的な行動であっても、共通の行動パターンがあれば、それを経済学に取り込んで分析しようとするのが「行動経済学」と呼ばれる研究分野である。

その一例を挙げると、出世を決めるのは、能力か学歴かを研究した経済学者がいる。
それによると、大学卒の年収は、高校卒にくらべて高い。さらに、偏差値の高い大学のほうが、年収も高いという。
ここで問題になるのは、出世して年収が高いのは、大学を出たためなのか、能力があったためなのかということである。
たとえば、東京大学に入るくらいの能力があれば、たとえ東京大学に行かなかったとしても、もともと優秀なのだから、いずれにせよ高収入を得ていたかどうかである。
東大の卒業生が、東大を出ていなかったとしたらどうなるかを知ることはできない。
ただ、1969年に、一度だけ東大の入試がなかったことがあった。
このとき、東大進学を考えていた受験生は、ほかの上位大学に進んだと思われる。
それでは、この人たちは、普段の卒業生よりも出世していたのだろうか。
こういうことを調査した結果、民間企業の場合は、とくに違いが認められなかったが、官庁の場合は、東大卒の不在で空いたはずのポストを他大学卒で埋めきることはできず、上下の年代の東大卒が占めたという。
これは、たとえ同じ能力を持っていたとしても東大を卒業することが、中央官庁での出世には重要であることを示唆しているという。

私の個人的な感じでは、大卒と高卒の年収の違いは、サラリーマンではあまり無い。
ただ、所得の高い経営上層部は大学卒で占められているため、平均では大学卒が上のほうに引っ張られるのであろう。
東大を卒業することが、官庁では出世の重要な要因となるのは、一般的に受ける感じとだいたい一致しているようである。

2011年2月4日金曜日

大橋弘昌 負けない議論術

2009  ダイヤモンド社

1966年生まれ   ニューヨーク州弁護士

アメリカ人は議論好きであるが、いっぱんに、日本人は議論が苦手で、多少なりとも不利益を被っていることが多い。
著者は、アメリカで生活し、弁護士業というシビアな仕事のなかで、議論する力を培ってきた。

議論術には、次のように、いろいろなものがある。

相手の主張に賛成しながら、相手が述べた理由を用いて正反対の主張を述べる。
短所を指摘されたら、その短所を長所に変える。
主張は、相手を正そうとするのではなく、「私ならこうする」と言って始める。
相手の意見に対してのみ反論を述べるようにし、相手そのものを攻撃しない。
「松・竹・梅」の選択肢を用いると、竹が選ばれやすい。
過去の発言について批判されたら、議論の方向を将来に向けてみる。
感情に訴えることは、議論に負けないための大きな力になる。
あからさまに相手を批判すると、ブーメランのように自分に返ってくる。
不利なレッテルを貼られそうになったら、堂々と反論すべきである。
人の心を捉えるには、前向きさ、勇敢さを前面に出す。
自慢話をするときは、自分の失敗談や弱点を交えて話す。
議論の前に想定問答を行い、準備する。
議論が終われば、議論の相手をたたえよう。

議論においては、相手と「ウィン・ウィン」(Win-Win)の関係を築くことをめざすべきで、一方的に相手をねじ伏せるのは得策でない。
本書の題名のように、「議論に負けない」のが肝心で、「議論に勝つ」ことは必要ではない。議論に勝っても、相手の恨みをかえば、お互いの関係が悪くなってしまう。
相手を満足させて議論を終えることができれは、相手の満足は自分自身のためにもなる。
どんな場面でも、常に「ウィン・ウィン」の議論となるよう心がけるべきである。

最後に、事態が差し迫っていて、議論をしている余裕のないときは、決して議論をしてはいけない。決定権を持つ人が、周りと議論などせず、迷わず物事を決めなくてはならない。素早く、ためらわず行動しないと、手遅れになることがあるからである。
たとえば、リーマン・ブラザーズが破綻した同じ週末に、メリル・リンチはバンカメへの売却を決めた。このときの最高経営責任者のすばやい決断について、ウォール・ストリートの関係者は口をそろえて「見事だった」と賞賛した。
議論よりも即断即決が功を奏することがあるのである。

2011年2月3日木曜日

東急反町

反町公園

2011年2月2日水曜日

ダニエル・ピンク ハイ・コンセプト 「新しいこと」を考え出す人の時代

2006 株式会社三笠書房

大前研一訳

訳者の解説によると、経済のグローバル化によって、中国で生産できるものは中国で、ITなどインドでできるものはインドでというように、少しでも人件費が安くてすむ地域へ産業は引っ張られる。それを日本でやろうとすると、低賃金でないと引き合わない。日本企業も世界中で生産しているから、安いモノがどんどん入ってきて、デフレ傾向に歯止めがかからない。いっぽう、上のほうは、アメリカのプロフェッショナルのような、けた外れの給料をもらっている。
このように、これからは、上と下とが二極化して、いわるゆる「格差社会」になっていく。
では、このような時代には、どうしたらよいのだろうか。
まず、「途上国にできること」は避ける。二つ目に、「コンピューターやロボットにできること」は避ける。三つ目に、「反復性のあること」は避けることである。
新興国やコンピューターにはできない創造性のある能力が重要になってくるという。

本書によると、創造性のある能力を育てるためには、「六つのセンス」が有効である。
すなわち、1.「機能」だけでなく「デザイン」、2.「議論」よりは「物語」、3.「個別」よりも「全体の調和」、4.「論理」ではなく「共感」、5.「まじめ」だけでなく「遊び心」、6.「モノ」よりも「生きがい」である。
これらのセンスは、誰もが持っているが、磨きをかけることによって能力がより高められる。
創造的な能力は「ハイ・コンセプト、ハイ・タッチ」などと呼ばれ、これをマスターできた人は大成功を収め、そうでない人は取り残される。

本書からは、アメリカでも、中国やインドのような新興国の脅威が強く意識されていることがわかる。
しかし、見方をかえると、中国やインドの歴史は古く、古代文明発祥の地でもある。
新興国には単純なことだけやらせ、先進的なことはアメリカでと言っても、いつまでもそうはいかないだろう。アメリカ人や日本人が、いくらインド人や中国人に負けまいとしても、そのうち、追い越されるのかもしれない。
いっぽう、独自のものを創ることができることが重要なのは、どこの国に居てもおなじである。