2011年7月31日日曜日

岩﨑哲夫 外資系の仕事術

2006 PHP研究所

1946年生まれ

外資系企業という言葉があるが、たとえば日産自動車やソニーのような企業もある意味では外資系企業である。
外資系といっても、いまでは企業がボーダーレス化しているので、日本企業と変わらない面も多い。
それでも外資系企業から受けるイメージとしては、実力主義で、仕事はバードだが、成果があがれば認められ、成果がなければ解雇されるというドライな面である。
就職先として大企業と中小企業を比べたばあい、大企業は安定していて余裕があるので、配属された部署に長く留まり、専門職として業務を深く経験するのには向いている。ただ、年齢を重ねるにつれてポストが無くなっていき、経営者の地位にまで登り詰めるのは至難の業で、時間もかかる。中小企業では、何でもしなくてはならないので、業務は広く浅く経験することになる。
そのため、会社の仕組みを全体的に学ぶ機会があり、自己責任で判断し、行動することができる。
中小企業では、事業が成功すれば若いうちに経営者になる機会もあり報酬も大きいが、失敗する可能性も高い。
このように見ると、外資系企業は、中小企業やベンチャー企業に近いということができる。
中小企業や外資系企業は余裕がないので、人を自前で育てるより、大企業出身者を即戦力として中途採用することが多い。そのため、大企業から中小企業に移る人も多いが、いろいろと職を変えるのではなく職は同じで会社だけ変わるほうがうまくいく。「転職」より「転社」を目指すべきである。

ところで、外国企業で働くと、自分の同僚や上司がその出身地の文化に根差した物の考え方や判断をしていることがわかる。
たとえば、アメリカ人の判断や行動を理解するには、移民国家としてのアメリカという国の成り立ちをまず考慮すべきである。
日本人のばあい、アメリカとは対照的で、異文化交流という点でも経験は少なく、ある意味では遅れている。
日本人は昔から和を尊ぶ精神を大切にし、集団秩序への同化と貢献を重んじてきた。
二百年以上のあいだ鎖国を経験したため、阿吽の呼吸で通じあう暗黙知の世界、突出を嫌う気質、情緒的思考、秩序と調和の尊重、従順な国民性、などの日本人の特質を育んできた。
このような日本人の特質は、競争と対決が原則の外国人からは、ときには、羨ましがられることもある。
今の時代は、日本の企業も海外へ出て、経済だけでなく文化も含めたさまざまな分野で、世界の人々との関わりを深めている。そのとき、日本の国内で通用してきたような価値観や文化はどのように変わっていくのだろうか。

2011年7月28日木曜日

蓮法寺(神奈川区七島町)


浦島太郎供養塔



浦島太郎は、丹後から本国に戻ったが、
すでに両親は三百年前に亡くなっていた。
落胆した浦島太郎は龍宮へ戻ったという。
 

2011年7月21日木曜日

浜口友一 ニッポンのIT その未来

2010 日本経済新聞出版社

日本はIT先進国である。
携帯電話は、ほとんどどこにいてもつながり、銀行の手続きは、たいてい機械ででき、電車は時刻表どおりに動き、「スイカ」を使えば自由に乗り降りできる。私たちが、あたりまえだと思っていることも、日本のIT技術がすぐれているためである。

しかし、問題がないわけではない。
これらのITやソフトは、ほどんど個別に企業内で開発され、外に出ることはない。
ソフトウエア技術者によっていちじるしい能力の差があるにもかかわらず、それが企業内で評価されることもない。
このように、日本のIT産業は、個別のシステム開発に力を注いできたので、みんなで使う基礎的なソフトであるOSなどは、アメリカ製やヨーロッパ製を使わざるを得なくなっている。

日本独自の問題と思われるのは、日本人の要求水準の高さである。
およそ、人間が作ったもので、完璧とか完全というものはあり得ない。
ソフトウエアも同じである。ちなみに、マイクロソフトのウインドウズは、しょっちゅうアップデートを繰り返している。
たとえ、ソフトウエアが完全だったとしても、メンテナンスやオペレーションは、間違いを犯す人間がしなければならない。
それにもかかわらず、日本では、システムに完全性を求める傾向が強く、銀行のシステムが数時間止まった程度で大騒ぎになる。
完璧を求めるのではなく、トラブルや事故があるのは当然のこととして、その時の対策を考えておくほうが合理的である。
はじめから壮大な構想のもとに完璧なものを作ろうとすると、途中で挫折したり、たとえできたとしても、複雑すぎて使い勝手が悪いものになってしまうことが多い。
政府が主導する大規模システム開発は、しばしば、そのようなことになってしまうようである。
ベンチャー企業などが、小さなシステムから始めて、ユーザーの要求を取り入れたり、参加させたりしながら、大きく業務を拡大していくことが多いが、そのほうがうまいやり方である。

2011年7月20日水曜日

樋口一葉 たけくらべ

1872~1896

樋口一葉は、日本人に最も愛されている作家のひとりで、その肖像は5千円札に取り入れられている。
24歳6か月の生涯のうち、作家生活は、わずか14カ月であった。
亡くなる2年ほど前に、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町で荒物や駄菓子などを売る雑貨店を営み、そのとき見聞きしたことが、思春期の少年少女を描いた名作「たけくらべ」を生み出した。
樋口一葉の才能は、子供たちの生活を、いきいきと描き出し、誰にでもある子供時代へのなつかしさと、いとおしさとに訴えかけている。

「龍華寺の真如が我が宗の修行の庭に立出る風説をも美登利は絶えて聞かざりき、有し意地をば其まゝに封じ込めて、此処しばらくの怪しの現象に我れを我れとも思われず、唯何事も恥ずかしうのみ有りけるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり。誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとなく懐かしき思ひにて違い棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝え聞く其明けの日は真如が何がしの学林に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ」

2011年7月18日月曜日

2011年7月14日木曜日

種村季弘 雨の日はソファで散歩

2005 株式会社筑摩書房

1933~2004

七転び八起きの町へ

「ごろごろしているうちにふと新宿に行きたくなった。かれこれもう十年ほど新宿にはご無沙汰している。真鶴の家から小田原に出てロマンスカーで一時間十分。ちょっとした通勤距離程度なのにここ何年か新宿の顔を見ていない。いつの頃からふっつりと夜遊びをやめてしまったからだ。」(p100)

パソコンで路線検索をしてみると、小田原から小田急ロマンスカーを利用すると1時間16分、1720円。新幹線で東京に出て、新宿へ行くと1時間1分、3130円だが、東海道線で品川まで行くと新宿まで1時間43分、1450円とでた。
小田急でも、ロマンスカーでない急行を利用すると、1時間34分、850円となった。
こうしてみると、小田原付近の住人は、新宿へ行くのに小田急線を利用している人が多いのではないかと思う。
同様に、藤沢から新宿へ行くのには、直通の小田急快速で56分、570円であるが、東海道線で行くと1時間5分、950円である。最近できた湘南新宿ラインを利用しても、52分かかる。
小田原からばかりでなく、藤沢から新宿へ行くのにも、小田急を利用したほうがJRよりも得なわけである。

新宿と言えば、東京でも有数の繁華街で、東京の市街が西の方へ発展していくと同時に大きくなった、すなわち中央線沿線を後背地にするというイメージが強い。しかし、小田急線沿線からやってくる人もかなりの数になることだろう。

その新宿であるが、江戸開府当初は、東海道の品川、中山道の板橋、日光街道・奥州街道の千住、甲州街道の高井戸を江戸の四宿と言った。このうち五街道の出発点である日本橋から高井戸までは四里八丁あり、他にくらべて距離がありすぎるので、その間に新たに中宿を設けた。それが新宿である。
そこへ浅草から遊郭が移って来て、にぎわった。その後も、遊郭がとりつぶしになったり、大火にあったりしては再興された。
戦後の新宿も、ヤミ市ができたり、歌舞伎町が無法地帯になったりと、激しい変化を繰り返した。
たしかに、七転び八起きの町にはちがいないが、激しい変化に取り残された老人にとっては、思い出の町になっていく。

2011年7月11日月曜日

川端康成 三島由紀夫 往復書簡

1997 株式会社新潮社

川端康成    1899~1972

三島由紀夫 1925~1970

川端康成と三島由紀夫の師弟関係は、生涯変わることはなく、川端康成がノーベル文学賞を受けるときには、三島由紀夫が推薦し、三島由紀夫の葬儀では、川端康成が葬儀委員長をつとめた。

二人の交流は、昭和20年に20歳の三島が、人を介して自作を川端に贈ったときから始まる。
当時、川端は、すでに著名な作家であったから、若い三島が自分の著書を贈るというのは、相当な自負心があってのことであろう。
二人は、互いの作品を誉めあい、贈り物を交換したり、家族ぐるみのつきあいをしていたことが手紙のやりとりから、かいま見ることができる。
三島の才能がなければ、川端もここまでつきあわなかったのであろうが、三島も川端の文壇での力を利用したのかもしれない。

三島は、晩年、「楯の会」を作ったり、身体を鍛えたりして強そうに振る舞っていたが、川端と同じように、繊細で豊かな感受性の持ち主であり、この社会は、彼らにとっては、生きづらいところであったのだろう。
三島は、昭和45年11月、45歳で、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したが、これも、あらかじめ計画された演出らしいことが、手紙からも窺うことができる。
昭和44年の手紙では、自分が恐れるのは死ではなく、死後、家族が世間に笑い物にされることで、護ってくれるのは川端さんだけだと書いている。昭和45年の手紙では、「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、一家揃つて下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます。」と書いている。

昭和47年4月、川端も、逗子マリーナ・マンションの仕事場で、ガス自殺しているのが発見された。

2011年7月10日日曜日

池田信夫 ウェブは資本主義を超える―その2

「日本のソフトウエア産業はなぜだめなのか」を読み返してみると、日本のソフトウエアがすべてダメだと言っているわけではないことがわかる。ゲームなどのソフトはいいが、政府が主導した産業政策としてのソフトはダメだと言っているらしい。さらに、著者は、ソフトウエア産業はダメだというより、ソフトウエア産業はダメになったと言いたいらしい。これ自体、その真偽は明らかではないが、日本のソフトウエア産業は、今ではアメリカ勢に比べることすらできないのではないかと素人にも思われている。
想像を巡らせば、かってコンピューターといえば、非常に高度な技術を要し、専門家にしかわからないと思われていた。
その頃、政府も、企業も、コンピューターの技術者を優遇し、自由に研究開発をさせた。
その結果、日本は、一時的には、アメリカのIBMに追いつき、日本人の優秀さを示すことができた。
しかし、それらが一段落して、官庁や銀行などの大組織で大型コンピューターが使われるようになると、巨額なカネが動くようになり、コンピューターのことをよく知っている人間ではなく、それに代わって、「交渉」とか「人脈」を得意とする人間が幅をきかせるようになっていった。
こうして、コンピューターを官庁に納入する企業は「ITゼネコン」などと呼ばれるようになってしまったらしい。
それと同時に、ソフトウエアの専門家が下請け化して意欲をなくしているということも、たしかに、ありそうな話である。
大企業では、優秀な人間がたくさんいるはずであるから、創造的な技術を持った人たちが、大企業から飛び出して、ベンチャー企業を立ち上げたりすれば、日本のコンピューター産業も活性化しそうなものである。
政府がするべきことは、そうしたことを可能にする環境を作ることであるように思われる。

2011年7月2日土曜日

池田信夫 ウェブは資本主義を超える

2007 日経BP社

1953年生まれ

日本のソフトウエア産業はなぜだめなのか


日本のソフトウエア産業は、初期から政府の手厚い保護と指導のもとに置かれてきた。
1960年代には、通産省はIBMの参入を遅らせ、電気メーカーを糾合して、IBM互換機を作らせた。
その後も、第5世代コンピューター、シグマ計画など、官民プロジェクトに多額の補助金を投入したが、すべて「失敗」した。
そのいっぽう、日本の社会の本流からはずれたところで三度の飯よりゲームが好きだという人たちがつくったゲームソフトは成功した。
ソフトウエアも、役所が保護した分野は失敗し、役所も大手メーカーも無視した分野が成功した。任天堂やソニーのゲーム部門は、80年代以降にできたので、重厚長大産業のようなピラミッド型組織ではなく、小さな若いソフトハウスの連携によって多様なゲームソフトが開発された。

大事なことは、日本人の持っている創造性を下請け・孫請け型の「ITゼネコン」構造に埋没させないで、自由に発揮させることである。技術者のモチベーションを引き出し、彼らのアイデアをビジネス化して、多様な実験を可能にすることである。そのためには、役所やITゼネコンが退場することが必要である。

明治以来、日本は行政に権限と情報を集中し、民間の資源を総動員して「富国強兵」をめざす国家体制をとってきた。こうした集権的な統治機構は、追いつき型近代化の局面では一定の効果を上げたが、民間企業だけで問題を解決することを妨げてきた。
霞ヶ関には、いまだに富国強兵の遺伝子が強く残っている。このような「国のかたち」を見直し、資本市場や司法改革によって、問題を民間で分権的に解決する制度設計を行なうことが日本の課題である。経済産業省が音頭をとって「産業政策」を推進するのはやめたらどうかというのが、著者の意見である。しかし、著者も言っているように、役所の力が弱くなるような改革を官僚自身が行うことは困難であろう。

(注)ITゼネコン
公的なコンピューター・システムの受注額の4分の3は、わずか6社で占められ、こうした企業は、建設業のゼネコンとくらべて、「ITゼネコン」と呼ばれている。

2011年7月1日金曜日

響橋

響橋(鶴見区)