2011年11月29日火曜日

田原総一朗 Twitterの神々

2010 株式会社講談社

1934年生まれ

「新聞・テレビの時代は終わった」として、楽天の三木谷氏などと対談している。
私は、Twitterなどの情報が、どの程度のものかはわからない。
だが、新聞やテレビだけ読んだり見たりしているのだけでは、新聞やテレビの経営が苦しくなっているなどとは決して思わないであろう。
新聞が、以前ほど売れなくなっているのは、代替的に情報を得る他の手段が登場しているからである。
その主なものは、インターネットによる情報である。
そう言われて、あらためて見回してみると、以前なら、電車の中で新聞を読んでいる人はかなり多かった。それが、今では、携帯電話を操作している人ばかりが目立つようになった。
駅で売っている新聞は、かなり販売部数を減らしているという。
新聞社のほうでも、当然、こうした事態に対処するため、ネットによる新聞の配信の有料化を始めている。
ネットによる新聞の配信は、コストからみると、紙によるそれよりも、はるかに低い。
それにもかかわらず、ネット配信の料金は紙にくらべてそれほど安くなっていない。
これは、新聞社が販売店に遠慮して、安くできないのがひとつの原因らしい。
家庭に配達する販売店は、たいへんな努力をして、新聞の購読者を維持してきたのである。
新聞は、こうした販売店ルートに乗って配達してきたので、ネットで配信すればコストが安いといっても、料金を極端に下げると紙からネットへの移行がすすみ販売店の経営を圧迫するので、それはできないのである。
これも、「既得権」に縛られて身動きがとれないという日本社会の縮図なのだろうか。

2011年11月22日火曜日

森見登美彦 太陽の塔

2003 株式会社新潮社

1979年生まれ

この小説の主人公は、恋愛に不器用な理系大学院生である。
異性にあこがれるが、近づくことはできず、現実の女性とつきあうこともできない若者の話は、夏目漱石の「三四郎」にさかのぼる。
昔は「バンカラ」とか「硬派」などと言ったが、今は「おたく」とか「草食系」とか言うのだろうか。
この本で「法界悋気」という言葉を知った。自分に関係のない他人の恋をねたむことだそうである。
それも「バンカラ」学生の特徴で、男同士で、足の引っ張りあいをしている面がある。

「太陽の塔」というのは、大阪万博のとき、岡本太郎がつくったシンボルタワーである。
しかし、主人公が幼いころには、そんなことは知らず、なんだかわからないが、とてつもなくでかく、不気味なものがそこにあるという印象が深くなっている。主人公は、万博公園を愛し、太陽の塔を畏怖している。
主人公に彼女ができて、太陽の塔を見せたところ、やはり、驚いて、えらく気に入ったようである。

小説のすじから離れるが、太陽の塔は、取り壊される予定になっていたが、署名運動などがあって、保存されることになったという。
大阪万博は、1970年に開催された。すでに40年も前のことで、作家の生まれる以前のことである。メイン・テーマは、「人類の進歩と調和」であった。
そのころは、今のようにパソコンやインターネットが発達して世界中の人と瞬時につながることができるとは夢にも考えられなかった。
今では、当時と比べて、非常に便利な社会になったのだが、世界のなかで日本の優位性はなくなり、雇用も減ってしまった。
大学院生が、コンビニや宅配寿司のアルバイトで食いつなぐというのも、あまり考えられなかったことだったような気がする。

2011年11月20日日曜日

2011年11月18日金曜日

赤坂治績 江戸っ子と助六

2006 株式会社新潮社

1944年生まれ

演劇評論家

助六は、歌舞伎の助六劇のヒーローである。
江戸で市川団十郎が演じた助六劇は、「助六由縁江戸桜」という名題で演じられた。
助六、実は曽我五郎は、侠客に身をやつして吉原に通い、親の敵を探している。いっぽうヒロインは、吉原の花魁、揚巻である。
助六という芝居を江戸の庶民が愛した理由は、助六のなかに「江戸っ子」の理想像を見出したからであろう。
江戸という町は、徳川家康がつくったので、それ以前からの住人というのはほどんどいなかった。
それでは、どういう人が移り住んだのかというと、武士のほかには、農民は土地に縛り付けられていたのでおらず、職人や商人である。
それ以外にも多かったのが、士農工商という身分制度の制外の者であった。
あらゆる地方から、それこそ、木の葉が風に吹き寄せられるように集まってきたのであろう。
将軍様のお膝もとで生まれ育った「江戸っ子」は、古くからの上方文化に対するコンプレックスをもつと同時に、プライドが高かった。
「江戸っ子」には、見栄っ張りだとか、口が悪いとか、喧嘩っ早いとかいう気質があり、ようするにガラが悪いのだが、これを自慢にした。新興都市に人が集まって、活気とエネルギーがあり、新しい文化を作っていったのが、江戸の文化の特徴である。
助六というキャラクターがいかに庶民の間で人気があったかは、現代でも、「助六ずし」という名前が残っているのでもわかる。
「助六ずし」は、巻きずしと稲荷ずし(揚げずし)が入っていて、揚げと巻きを助六の恋人である揚巻に、ひっかけて名付けられたのものらしい。
稲荷ずしは、油あげのなかにごはんを詰めたものだが、これを稲荷ずしというのは、稲荷にゆかりのある狐の好物が油であるという言い伝えからきたものである。また、別名を「しのだずし」というのは、これも歌舞伎などで演じられている信太の森の狐の話からきたものだという。信太の森の狐は「葛の葉」といい、人に化けて安倍保名と結婚し子供をもうけたが、その子供が安倍晴明である。狐が、正体が知れて森に帰って行ったとき読んだのが、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌である。
いまでは歌舞伎は、一部の人が鑑賞するだけであるが、江戸の庶民にとっては、身近な現代劇であった。

2011年11月17日木曜日

火坂雅志 謙信びいき

2009 PHP研究所

1956年生まれ

新潟県生まれの歴史小説家

著者は、歴史の表舞台に立つことはなくても、自分にしかできない仕事をしっかりと残した人物に興味をおぼえるという。
たとえば、越後の上杉謙信は、戦国乱世のなかで、独特の「義」の思想をかかげ、「弱きをたすけ、強きをくじく」という姿勢を生涯にわたって崩さなかった。彼のかかげた義や仁の心が直江兼続や真田幸村らに影響を与えたそうである。
歴史の表舞台にたった人物ばかりではなく、あまり知られていない多くの人が歴史をつくってきたことは事実である。
著者が好きなのは、「忍びの者」などの、社会からはみ出た者たちで、彼らは、人に知られることがなく、まさに神出鬼没、あらゆるところで活躍したとされている。
荒唐無稽な物語にいかにリアリティを与えることができるかは、伝奇小説家の腕の見せ所である。
知れば知るほど、人は「善」と「悪」のないまぜであり、善人といわれる者のなかに「悪」があり、悪人といわれる者のなかにも「善」を見つけることができる。歴史小説家の仕事には、そういうことを書くことも含まれるという。
それにしても、人に知られることのないはずの「忍者」のことがなぜわかるのか不思議である。
歴史書や過去の物語に加えて作家の想像力が作り上げるのであろうか。ただ、感心するしかない。

冬の越後は、雪に閉ざされ、暗鬱な鉛色の空と白く塗り込められた大地は、人の心に深い陰影を刻み込む。
しかし、雪は負の面ばかりではない。冬がおわり、春がおとずれると、山から清冽な水が流れだし、広大な水田を満々と潤す。
越後が日本でも有数の米の産地であり、銘酒のふるさとであるのは、すべて雪の恩恵である。
日本海の海の幸とともに、米の産地である越後は、日本が工業化する以前は、経済的にも先進地域であったという。
川端康成は、「国境の長いトンネルを越えると雪国であった」と書いた。
山ひとつ越えるだけで、別の世界があるのも、日本の気候風土のおもしろいところである。

2011年11月4日金曜日

谷津バラ園

谷津バラ園(習志野市)