2010年12月3日金曜日

中村隆英 昭和史 Ⅱ (その2)

「昭和の時代は、巨大なドラマのように、波瀾と起伏に満ちていた」、そのなかで、変わらないものがあった。変わらなかったものといえば、官僚機構がある。
むしろ、敗戦によって軍部がなくなった分だけ、官僚機構は強化された。
大学も、戦後、新制大学が多数できたが、東京大学などは、戦前のままであった。

1960年代の終わりになって、大学紛争がおこり、新左翼の活動が活発化した。
新左翼は、それ以前の学生運動とは異なり、多数の学生を引きつけて、一種のブームになった。
彼らの考え方の裏には、日本の社会は安定しており、東大卒の官僚によって支配されているという前提があった。彼らは、それを「国家権力」とか「体制」と呼んだ。
「国家権力」や「体制」にたいする反抗が、大学紛争の根にはあった。
とは言っても、その反抗は、むしろ「体制」に属するはずのエリート学生によるものであった。彼らの多くは、「体制」に組み込まれ、管理されることへの不満から、大学紛争を起こしたが、しょせん、つかのまの学生時代だけ、暴れて反抗してみせたにすぎなかった。
言いかえれば、「体制」や「国家権力」のなかに入って順応すれば、窮屈ではあるが、あとは安泰だと虫のいい考え方をしていたのである。
学生は、就職の心配などしなくてよい時代であった。

新左翼による運動は、最後は、連合赤軍による浅間山荘事件や、反動としての三島由紀夫の割腹自殺などで終わりをとげた。

あとから見れば、これらの事件は「革命」などと言うにはほど遠く、経済成長下の安定した社会での「あだ花」にすぎなかったのであろう。

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