2013年5月30日木曜日

ナシーム・ニコラス・タレブ まぐれ

望月衛訳

2008 ダイヤモンド社

昔、リディア王のクロイソスは、世界一の金持ちだという評判であった。あるとき、彼のところへギリシアからソロンがやってきた。ソロンはクロイソスの富を目にしても少しも驚かなかったし、誉めもしなかった。腹を立てたクロイソスに対して、ソロンは、今、裕福だからといって将来もそうであるとは限りませんと言うのである。その後、クロイソスは、ペルシアとの戦いに敗れ、処刑されそうになったとき、「ソロン、お前は正しかった」と言ったという。
このように、人生は、不確実性に満ちていて、何が起こるかわからない。
能力があって、人一倍努力をし、リスクも積極的に取ったからといって、成功するとは限らない。破綻した人も、おなじように能力もあり、努力もしてきたのである。
いっぽう、能力もなく、たいした努力もしなくても、サラリーマンや公務員になって、平穏な人生を送る人もいる。
成功した人のすべてが、まぐれやツキが原因だったと言うわけではないが、成功した人は、幸運であったことに変わりはない。
それでも、クロイソスのたとえのように、人生、最後まで何が起こるかわからない。
同じことを、現代の野球監督ヨギ・ベラは、「終わるまでは終わりじゃねえよ」と表現した。

2013年5月23日木曜日

北野武 超思考


2011 株式会社幻冬社

北野武またはビートたけしがうけている。
毒舌のなかにも鋭く真実を突くような言い方に共感する人が多い。
漫才で人を笑わせるのは大変なことである。
つねに新しいネタを考えださないと飽きられる。
自分で必死に考えることから、単なる知識ではない知恵が生まれる。
本をいくら読んでも、知識は増えるが、自分で考えなければ知恵はつかない。
松下幸之助も、学校は出ていないが、自分で考え抜いて得た知恵を持っていた。
北野武を松下幸之助に比べるのは、褒めすぎだろうか。
褒めて持ち上げておいてから、さんざんこき下ろすのは、世間ではよくあることだから注意しなければならない。
世論を味方につけないと、横綱朝青龍やホリエモンのようにいじめられる。
褒めるときは、べた褒めし、叩くと決まれは、徹底的に叩きまくる。
まともなこととは思われないが、テレビ局やコメンテーターは、世間から叩かれている人間の肩を持つと、自分達も一緒に叩きまくられることを知っているのである。
子供の社会のイジメも同じで、クラスのみんなで一人の子をいじめるのは、その子が憎いわけではない。みんなといっしょにいじめないと、自分がいじめられると思うからである。
いじめる側に加わらないと自分がいじめられるかもしれないという恐怖心がいじめる側にあるらしい。
つまり、子供の社会は、大人の社会のミニュチア版なので、イジメをなくそうといっても簡単ではない。
こう言うと、イジメをなくそうというのが世間の建前だから、逆にいじめられそうである。
子供の社会は狭いから、いじめにあったときに大人に相談できるようにしておかないと、深刻なことになりかねない。
今は、お笑い芸人がもてはやされている。テレビに出て人を笑わせるからすごいと尊敬までされている。
北野武も言うように、お笑い芸人が世論に迎合して自主規制するようになってはつまらない。
せめてお笑い芸人くらいは、本音に近いことを言ってもらいたいものである。

2013年5月4日土曜日

川本三郎 私の東京町歩き


1990 株式会社筑摩書房

東京の町は広い。
小さな商店街を歩くと、歩き終わったころに、また別の小さな商店街が続き、途切れることがない。
あたかも、体の中をめぐっている血管のようなものである。
東京の町は広いが、人の生活範囲は、けっこう狭い。
杉並区のような東京の西と、足立区、葛飾区、江戸川区のような東京の東は、地図で見ても非常に近い。総武線を利用すれば、時間的にも近い。
それにもかかわらず、杉並区の人は、足立区とか江戸川区には、あまり行かないようである。
実際に住んでみるとどんなところかは別であるが、たまに歩くぶんには、新しい発見がつぎつきにあり、知らない町を歩くのはおもしろい。
東京の東は、川の多い場所である。
隅田川と荒川、旧中川、中川、新中川、旧江戸川と新江戸川などがある。
江戸川区の旧江戸川には、妙見島という、ほんとうの島がある。
工場ばかりが立ち並んでいる島であるが、著者は大衆食堂を見つけ、ビールを飲んだ。
食堂のおやじさんの話では、むかしこの島に草野心平という詩人が住んでいたという。
足立区の千住には、「千住のおばけ煙突」と呼ばれていた煙突があった。
大正15年につくられ、昭和39年に取り壊された。
4本の煙突が、見る場所によって、1本にも2本にも、3本にも、あるいは4本にも見えた。
おばけ煙突の話題は下町育ちの人間に場所的一体感を与えていたので、映画や漫画にもよく出てくるそうである。
低い家並みの上に聳えるおばけ煙突は、澁澤龍彦によれば、不気味な何かのシンボルのようにも見えたという。