2010年1月31日日曜日

伊藤元重 キーワードで読み解く経済

2008 NTT出版株式会社

1951年生まれ

この本では、経済学者によって使われてきた用語やコンセプトによって経済現象や経済学を解説している。
経済学は、良い意味でも悪い意味でも社会にたいして、ある特定の見方を提供してきた。あるいは、経済学者的な見方が、それなりに社会を動かしてきたと言うこともできる。バブル、デフレ、内需拡大、市場原理主義など経済学者が作り出した言葉をよく耳にする。

比較的最近、経済学でもてはやされているなかに「ゲームの理論」がある。
そのうちの「囚人のジレンマ」では、二人の囚人がそれぞれ自分にとってもっとも合理的であると思って選択した行為が、かえって、二人にとって望ましくない結果をもたらす状況を説明している。
じっさいの世の中でも、人々は競争相手などの行動を想定しながら自分の行動を決めるという考え方をしている。その場合、相互に連絡をしあって協力的な行動をしないで、それぞれが利己的に行動すると、両者にとって好ましくない結果をもたらすことはよくある。
「ゲームの理論」は、米ソの冷戦や、企業間の競争などを分析するのにも応用されたが、いまでは政治学、法律、生物学など様々な分野で利用されているという。

環境破壊や公害などの問題をとりあげるとき、「外部性」とか「外部効果」という言葉が使われる。
外部性とは、一般的に言えば、誰かの行った経済活動が、間接的に他の誰かに影響を及ぼすような現象である。たとえば、自動車の利用による排気ガスの排出問題、工場による騒音問題などである。
経済学では、自由な市場の経済活動に任せることは、資源利用の効率性を最大限に引き出すと言われているが、公害などの外部性があることが問題になっており、「市場の失敗」と呼ばれている。
騒音や公害のような外部性の問題では、市場原理の社会的コストが大きいため、工場と住民のような当事者に問題の解決を委ねるよりも、政府による規制が好ましいことがある。
このような感情よりも合理性を追求する経済学者の言葉は、人の耳には、かなりクールに聞こえるにちがいない。

2010年1月30日土曜日

櫻井敬子 行政法のエッセンス

2007 学陽書房

行政法とは、法律の一分野で、私たちの日常生活に直接かかわる身近な存在である。行政体制・公務員制度がどうあるべきかという大きな問題から、日常生活で出会う道路交通法・建築基準法・狂犬病予防法などに至るまでいろいろである。

憲法では、立法・司法・行政の三権分立が建前であり、法律を作るのは国会の役割である。行政の仕事は、すべて法律に従って行わなければならない。
しかし、実際には、ほとんどの法律は行政によって作られ、国会での審議は深くつっこんでは行われてこなかった。また、裁判所による行政にたいするチェック機能も事実上形骸化していると言われている。
このようにみると、法律の面からも、実際に我が国の統治を取り仕切ってきたのは行政官僚であることがわかる。
あまりに巨大で強力になった行政組織の「改革」は、政治主導で行われてきた。

中央省庁改革は、縦割り行政や行政組織の肥大化という弊害を克服し、簡素で透明、効率的な中央政府の実現をめざすという方針のもとに進められた。
中央省庁改革のポイントは
①内閣機能の強化(政治主導の確立)
②中央省庁の大くくり再編成(縦割り行政の弊害の排除)
③独立行政法人制度の創設(透明で自己責任に基づく業務運営)
④行政のスリム化(官から民へ、国から地方へ)
である。
なかでも、大蔵省から金融行政を切り離した「財政と金融の分離」は大きな改革であった。

司法制度改革は、「思い出の事件をさばく最高裁」と言われるほど裁判所制度が世間の常識とあまりにもかけはなれているという問題意識から始まった。裁判を裁判官だけにまかせておいたら大変なことになるという危機感がら、一般の常識を取り入れることを目的に「裁判員制度」が始まった。
なぜ、一般人がこんなことをしなければならないのかと思わせる「裁判員制度」であるが、そのような経緯があって誕生したようである。

地方分権改革では、これまでの中央集権的な行政体制を方向転換して、 国と地方との関係を「対等・協力の関係」にすることをめざした。
地方が真に自立するための自主的な財源を保障する「三位一体の改革」が行われた。
最近、知事の発言が目立つのも、知事は住民の直接投票によって選ばれたこともあるが、地方分権推進という時代の流れに乗ったものであろう。

2010年1月29日金曜日

東急鵜の木

西嶺町


    
                    
鵜の木松山公園

2010年1月28日木曜日

小島寛之 容疑者ケインズ

2008 プレジデント社

1958年生まれ

「ジョン・メイナード・ケインズ。1883年、イギリス生まれ。1936年に発表した『一般理論』が一大センセーションを巻き起こし、現代経済学のスーパースターになるも、理論上の不備が発見されて失墜。『ケインズは死んだ』とまで言われたが、その圧倒的なビジョンには、いまなお経済学者を挑発してやまない悪魔的魅力が備わっている・・・・。」(背表紙より)

いまでは、景気が悪くなると公共事業をやるのが「ケインズ政策」というイメージが強い。
それもケインズの一面ではあるが、ケインズという経済学者は、そのほかにもいろいろな面を持った学者である。
ケインズの金融市場観の特徴は、独特の「不確実性」認識にある。
人は、未来のできことに関して、推測をしながら経済行動をするが、その際に行う推測は、客観的な物理的確率ではなく、主観的な「内的論理での」確率である。
主観的な推測であるから、金融市場に不和雷同の熱狂をもたらしたり、パニックに陥れたりしたとしても何も不思議もない。
経済活動は同一の環境で繰り返し行われるなどということはない。
したがって、通常の確率や統計は出る幕がない。
このような真の「不確実性」との遭遇がサブプライムローンによる混乱の原因である。
「貨幣とは何か」という分析を行ったのもケインズである。
貨幣の機能にはいくつもあるが、その中でケインズが注目したのは「流動性」という性質である。
貨幣の流動性とは、「いつでも思い立ったときに額面と同じ価格のどんな商品とでも交換できる」という性質のことである。
この貨幣のもつ性質が経済のあり方を決める本質になるとケインズは考えた。
それまでの経済学者は、貨幣というのは単に交換を仲立ちをするにすぎないと考えていた。
人々が貨幣を欲し、それに執着するのは貨幣の流動性のためであるが、流動性というのは、けっきょくできるかぎり決断を先延ばしして優柔不断でいる権利を手に入れることである。
人は貨幣によって優柔不断でいることができる状態を手に入れたが、資本主義を大不況へと導くことにもなった。
このようなことを最新の数学や確率を使って研究している理論経済学者のグループがおり、著者もそのうちの一人である。

2010年1月27日水曜日

舘神龍彦 アイデアを生むデジアナ道具術

2008 枻出版社

デジタルツールとは、パソコンや携帯電話、ICレコーダーなどの、情報をデジタルデータとして扱うもので、キーボードのようなハードウエアからワープロソフトのようなソフトウエアを含む。
アナログツールとは、ペンと紙との組み合わせで、ふせんやノート、メモ帳、手帳などが含まれる。
デジタルツールとアナログツールを使って、書いたり、考えたり、アイデアを出す。
それぞれ、どんなツールがあって、どのように使えばいいのか。
それぞれのツールを使い分けることによって、スムーズに考え、アイデアを出していく。
以上が、本書のテーマであり、様々なデジタルツールやソフトウエア、文房具などを写真で紹介している。
紙やメモ帳だけでも、じつにいろいろな種類があり、サイズや紙質にこだわる人も多い。
愛用の文房具で良いアイディアを生み出したいというのは、誰でも考えることであろう。
そのなかで、20年以上も前に流行したシステム手帳は、今でも使われている。
ただ、かってのシステム手帳の機能の多くは、今では携帯電話に取り入れられている。
いま、システム手帳には、ユーザーの願望や将来実現したいイメージを書き込むための紙がぎっしり綴じられている。
手帳にユーザーの価値観と目標を記入し、それに向かってどのようなステップをふんでいくのかを記入する。
そして、毎日、毎週、この予定をチェックし、実行していくことによって目標を達成することができるのである。
私は、このようなやり方は将来から逆算して、今やることを決めていくやりかたのような気がする。
それはそれですばらしいのだが、だんだん歳を取っていくと、しんどくなりそうである。
それよりも、いまの自分を知ることによって、将来何ができるのかを考えなければならない。そうすると、体力、記憶力や精神力には限界がある上に、年齢を重ねるにつれて衰えてくるから、それほどすごいことができるとも思われない。
情報も集めようと思えばいくらでも集められるかもしれないが、今の情報は陳腐化するのもはやい。とくにデジタル情報は、対応する機器やメディアが使えなくなるというリスクをかかえている。
結局、歳を取ると小さな個人的な手帳が、いちばん使いやすそうである。
パソコンのソフトも、むやみと機能が多く複雑になるより、なるべく変わらないでもらいたいと思うのである。

2010年1月22日金曜日

横溝屋敷

鶴見区獅子ヶ谷町


2010年1月19日火曜日

柳田国男 「遠野物語」より

「山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナという地名あり。
その近傍にこれと相対して必ず蓮台野という地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習ありき。
老人はいたずらに死んで了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり」(話の番号111)

昔は、遠野地方では、村人は六十になると村から離れた共同墓地のようなところに追いやられていたのだという。
そこでは、村の六十過ぎの男女が暮らしており、幼馴染の者同士の愛や憎しみの物語があったとしても不思議ではない。昔は、このようなことが行われていたのかもしれない。
いま、いわゆる「団塊の世代」が六十代になり、団塊の世代よ頑張れと声援を送る人もいる。
それでも、六十過ぎという年齢は、身体的には今も昔もあまり変わらないのではないかと思えてくる。
六十過ぎでも、タクシー運転手、ガードマン、介護の仕事などいくらでも仕事はあるにはちがいない。
それでも、サラリーマンを辞めた者に、いままでとはまったく違った夜間や屋外での仕事は、できたとしてもかなりつらいだろう。
もっとも、政治家や経営者などは、団塊世代の活躍は、これからである。
知恵と行動力があれば、可能性はいろいろ開けてくるのかもしれない。

2010年1月15日金曜日

深谷賢治 数学者の視点

1996 株式会社岩波書店

1959年生まれ

著者は、「まえがき」で「数学や数学者についての雑談につきあうようなつもりで読んでいただきたい。」と書いている。
じつのところ、現代の数学は、非常に複雑で専門化しており、数学者の数も多い。
そのため、数学者の間ですら、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞した理論をわかる人は世界に何人いるかわからない。受賞者は、大勢の数学者の前で、自分の研究の核心を理解させることができないのである。
世の中には、自分がやっていることが何なのかとか、何に役に立つのかとか他人に説明することもできないのに、それでも評価される人がいるのである。そういう人たちが数学の進歩を支えているという面もある。
自然科学系の学部のなかで、コンピューター音痴の一番多いのは数学科であるという。「純粋」数学者は、知らず知らずのうちにコンピューターサイエンスなどを 「純粋」数学より低級なものだと考えていたのではないだろうかと著者は言う。
数学の中にも、クリーンな数学とダーティーな数学といった区別がある。
クリーンで高貴な数学といえば「数学の女王」といわれる整数論がある。
そしてダーティーで庶民の数学といえば・・・。
こういう話が続くと、もう素人にはお手上げであるが、現代の数学は、日常の直感とはかけ離れた抽象的で広大な世界を研究の対象とすることを可能にした。
そのため、ごく一部の人にしかわからないという大変高い代償を払わされることになった。
著者は大学の教師をやっているので、大学入試の問題を解いてみることがあるが、時間内に解けないこともある。それでも、著者によれば、どうせ答えがあるに決まっている問題を、一定時間内に解けるかどうかなど、しょせん「どうでもいい」と感じるそうである。あとからみれば、受験の数学とはそんなものなのだろう。
著者の夢は、何百年も解けない問題を提出して、長い間数学者に夢を見させつづけることである。