2013年1月6日日曜日

田中隆吉 日本軍閥暗闘史


1992 中央公論社

日本陸軍には、明治のはじめより、薩長による軍閥というものがあった。
大正になって、薩派の大山巌や長派の山縣有朋といった大物が亡くなると、両者の争いは、激しくなり、さらに新しい皇道、統制両派の軍閥を生み、激しい権力闘争が繰り広げられたすえに、最後には統制派が勝利した。
統制派の最盛期は、昭和16年、東條英機が総理大臣に就任したときである。
大正から昭和にかけての陸軍の動きは、おおむね次のようである。
第一次世界大戦は、日本はあまり深くかかわらなかったものの、若手将校にあたえた影響は大きかった。
そのときに、戦車や飛行機、機関銃などがあらわれ、次に戦争が起こるとすれば、工業力の勝負であることが痛感させられた。
当時、日本は貧弱な武器しかもっておらず、工業力の弱さは決定的な弱点であった。
これからの戦争は、国の工業力が決め手となる「総力戦」になるというのが、若手将校たちの意見であった。
国家の総力をあげて戦うためには、政党政治に頼るのではなく、軍人が政治経済を主導しなければならないとされた。
満州事変が起こされ、「満州国」が建国されたのも、資源の乏しい日本にとっては、満州の鉄や石炭などの資源を確保することが絶対に必要だとみなされたからである。
暗殺された永田鉄山などが構想した軍人主導の「高度国防国家」としての日本は完成に向かっていき、戦争の準備は着々と進んでいったが、最後の最後になって、客観的に見て、アメリカと戦争してもとても勝ち目はないことが、陸軍首脳の間でも明らかになっていた。
しかし、東條英機にとっては、いまさらあとに戻ることはできなかったのである。

それでは、なぜ昭和の陸軍は暴走してしまたのだろうか。すくなくとも次の三つの要因をあげることができる。
まず第一に、明治時代に山縣有朋が作った陸軍が、政治のコントロールを受けにくいものであったことによる。
昭和の陸軍は、国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊である言って、自らを「皇軍」と称した。
「統帥権干犯」という言葉を持ち出して、軍人が政治に口出しすることはできるが、政治家が軍人に命令できないようにした。
二番目にあげられることは、日本の軍隊は、日清、日露の戦争で華々しい戦果をあげ、英雄になった。
大正時代には、第一次世界大戦が終わり、世界的に軍縮の機運が高まり、日本でも、大正デモクラシーの影で軍人の存在感が薄くなった。そのため、軍人は、ひそかにリベンジの機会を窺っていた。
最後に、陸軍士官学校から陸軍大学に進んだ者は、エリートとして甘やかされたので、若手の将校が上の者の言うことをきかず、勝手な行動をするようになり、歯止めがきかなくなってしまった。
しばしば、政党政治が腐敗したから軍国主義が台頭したかのように説明されている。
それよりも、軍人の描いたシナリオどおりに歴史が動いたと言ったほうが事実に近いようである。

2013年1月3日木曜日