2015年12月12日土曜日

長谷川慶太郎 大局を読む

2014 徳間書店

中国人による「爆買い」が流行語になっている。
中国人観光客が大挙して日本にやってきて、電気製品、化粧品、医薬品を買っている。中国人が豊かになって優秀な日本製品を買ってくれるのだと考えれば、けっこうなことである。だが、いくら中国人が豊かになったからといって、一人または家族で使いきれないほどの量を買っていくというのはどういうことだろう。たぶん、日本の製品は中国では非常に高く、一般の庶民では手が出ない。そのため、日本にやってきて大量に買い、中国に帰ってから知り合いに配って自慢する、または現地での価格より多少安く転売するということではないだろうか。日本に大勢の中国人がやってくるといっても、中国の人口は多いから、ごく一部が来ているだけかもしれない。日本の家電製品などは、ほとんど中国で作られているはずだが、それが現地では中国人の手に入りにくい仕組みが何かあるのだろう。たとえば、すべてが輸出用に作られているとかである。日本から輸入すれば、非常に高い税金が課されているのだろう。
そこまでは容易に想像できるのであるが、著者によると、中国人が現在の政治体制したがって通貨を信用しておらず、今のうちに、新しい政権と通貨になっても容易に換金できる「物」に換えておこうということだという。中華人民共和国の崩壊を見越しているというのである。資産も海外に逃がそうとしている。
それならば、東京やリゾート地の不動産でさえ、中国人が「爆買い」しているというのも納得がいく。「爆買い」といっても、いつまでも続くのかどうかはわからない。

2015年12月4日金曜日

石井幹人 人間とはどういう生物か

2012 ちくま新書

20世紀の大発明といえば、原子力の利用とコンピューターが思い浮かぶ。5~60年前には、どちらも無限の可能性があるように見えた。「鉄腕アトム」が子供たちの人気ものになったのも、この頃のことである。
その後、ロボット技術は急速に進み、人間のようにふるまう「人工知能」の研究開発もさかんに行われた。しかし、「人間のように思考するロボット」はいまだにつくられていないし、将来実現するであろうという人もいない。
コンピューターは人間のように考えることができない。
アイデアが浮かんでくることもないし、絵画や音楽を鑑賞することもできない。
それでは、なぜ人間は考えることができるのかといえば、生物としての長い進化の歴史のなかで考える能力を獲得したことはたしかである。「考える」ことは「意識」が行っているが、「意識」とは、進化の歴史のなかではごく最近現れたものである。「意識」は、人間の「心」のなかでは、それよりずっと長い歴史を持ち、より広い領域を持つ「無意識」に支えられている。アイデアが浮かんできたり、さまざまな考えが浮かんでくるのは、心の表面にある「意識」に、心の内部にある「無意識」から、それらが泡のように浮かびあがってくるようなものである。
従来の「科学的」な発想によれば、「意識」は脳のなかにある。そのため、脳と同じような操作のできるコンピューターを作れば、人間のようにうまく動作すると考えられたのである。しかし、心の多くの部分が「無意識」によって占められているとすれば、脳以外の身体や、身体外部の状況など、人間が生物として適応してきた環境が心の理解にはかかせないことになる。このような考え方を「心のひろがり理論」というらしい。
こうなると、「人工知能」の開発など、夢のまた夢ということになる。
それでも、最近、自動車の「自動運転」が話題になっている。
「人工知能」への挑戦は、これからも様々なかたちで続いていくのだろう。

2015年11月29日日曜日

2015年11月12日木曜日

谷本真由美 ノマドと社畜

2013 朝日出版社

会社は組織だから、イヤな上司もいれば、派閥やイジメもあり、無言の集団的圧力でサービス残業をしなければならないこともある。そこで、「こんな会社辞めてやる!」と言って会社を飛び出す人間も出てくる。彼らに言わせると、会社にいる人間は、会社に飼われている「家畜」と同じである。皮肉と軽蔑を込めた「社畜」という言葉が、その後会社にいる側でも、自虐まじりに使われるようになったようだ。
いっぽう、「ノマド」とは、もともと「遊牧民」という意味で、組織にしばられない自由な働きかたをしている人のことを言う。もっとも、外見がそう見えるだけであって、実際に「ノマド」的な生き方をするのは、そう簡単ではない。よほどの専門的スキルが無ければ無理である。そうした専門的スキルは、組織で身につけるか、特別の資格を取るかしなければならなず、初めから「ノマド」なんて、もともと無理な話なのである。
それでも、若い人の間では、「ノマド」が一種の流行になっている。「スタバでマックしてドヤ顔する」とは、スターバックスコーヒーでアップルコンピューターの薄型ノートパソコンを開いて仕事をしているふりをして得意そうな顔をするという意味である。こういう人たちを指して「意識高い系」とか「ドヤラー」というらしい。

2015年11月8日日曜日

高田里恵子 失われたものを数えて 

東大大学院のドイツ文学科に面接に行くと、あなたはいったいどうやって生活していくつもりかと質問されるらしい。
大学のドイツ語教員の募集は少ないし、ドイツ文学にたいする需要も限られている。
こうした状況は、今に始まったわけではなく、明治時代からのことであった。
そもそも、日本人がドイツ文学を研究するというのは、いかにも居心地のよくなさそうなことである。
なかなか学術論文など書けるものでもなさそうである。
翻訳の仕事はいくらでもあるのだろうが、完璧にできるものでもないし、ヨコのものをタテにするだけのようなむなしさを感じるかもしれない。
けっきょく、有り余る語学力を持て余して、ただひたすらドイツ語の原書を読むだけということになりがちである。夏目漱石の小説には、そうした人物が出てくるが、じっさいに漱石の周りには、そのような人物がいたらしい。漱石自身も大学での英文学研究にいきづまって、大学をやめて小説を書くようになったらしい。
文学部への進学は、就職先がないというリスクをともなう。そのため、裕福な家の子供か、さもなければ就職をしなくてもいい女性が進学することになる。家が裕福で、頭もよく、多少不良という人が文学部へすすみ、小説家になって女性にもてるというのが長い間続いたパターンであった。たとえば、太宰治は、女性にもてたが、心中の相手にされて若いうちに死んでしまった。渋澤龍彦は、胡散臭い西洋文化の紹介を女性雑誌に連載していた。また、戦時中は、ニーチェなどを読みふけっていた学生が本など捨ててしまい、特攻隊に志願したということもあったという。
今では、ドイツ文学やドイツ哲学が話題にのぼることもほとんどなくなっているが、それが青春であった時代も、たしかにあったのである。

2015年11月5日木曜日

国分寺

国分寺崖線下の湧水



都立武蔵国分寺公園

2015年4月14日火曜日