2009年12月31日木曜日

京急神奈川


神奈川台場跡














洲崎大神

2009年12月30日水曜日

池田晶子 人生は愉快だ

2008.11 毎日新聞社

池田晶子 1960~2007

著者は、専門用語による「哲学」ではなく、日常の言葉で語る「哲学エッセイ」を確立した。47歳の若さで病魔に倒れた。哲学というと、昔は考えることがすべて哲学であったが、時代を経るにしたがって、数学や科学などの学問が、別れていった。
今でも哲学の課題になっているのは、「自分とは何か」とか「死とはなにか」といった問ではないだろうか。
著者によれば、結局のところ、「自分」も「死」もない。
なぜならば、人が死を認識できるのは、他人の死を見るときだけである。
自分が死んだときは、自分はもういないのだから、自分の死を知ることはできないし、考えることもできない。
「自分」についても、近代以降の人間が個人というものを信じ込むことになったにすぎず、「自分」とは、個人に限定されるものではなく、人類や精神というもののなかで存在する不思議なものである。
思索が個人を超えていくとき、「自分は誰それだ」という思いこみから開放されるのである。
「少なくとも、死が恐かったり、今の人生にしがみついている自分がなさけなかったりするなら、そう考えればいい。人間はまだ、死をおしまいと考えていますが、ひょっとしたら、死は始まりかもしれないのです。」(p281)
なるほど、「自分」とは、過去の「他人」の言葉や考え方の寄せ集めである。

2009年12月29日火曜日

北岡元 ビジネス・インテリジェンス

2009.2 東洋経済新報社

1956年生まれ

この本で紹介しているのは、ビジネス・インテリジェンスの中で、現在もっとも洗練された手法を確立していると思われるCI(競合インテリジェンス)の世界である。
アメリカでは、CIAなどの政府インテリジェンス組織が、インフォメーションを収集し、分析してインテリジェンスをつくり、未来を予測することで安全保障政策の立案・執行に役立てている。
インフォメーションは、インテリジェンスになることで、私たちが判断・行動するために必要な知識になる。
インテリジェンスというと盗聴とか、産業スパイとか暗いイメージを連想することもあるが、インテリジェンスとは考え方であり、生きざまである。
その際、重要なのは「自分を知る」ことである。
「自分を知る」ことで、よりよく「彼を知る」、さらに「未来を予想する」ことができる。
自分の強いところや弱いところが正確にわかっていれば、現実の変化に対応して、自分の判断・行動を柔軟に修正していくことができる。
実際に、テロ対策や災害対策におけるインテリジェンスの最前線でも、同じ考え方が用いられている。
企業も国も、いつテロの脅威にさらされるのかわからない。
それでは、どうしたら、自社を守れるのか。ここでも重要なのは、「自分を知る」というアプローチである。自社の防護されるべき環境を絞り込み、攻撃者の手口を予想・分析し、疑惑のサインを日常的に監視する。ここでは、「彼を知る」という情報は使用されていない。
いつ起こるかわからない自然災害にも同じ考え方がもちいられる。災害の予想よりも地域社会の脆弱性を分析して、それを除去していくことが重要である。
「自分を知る」ことによって、自分の弱いところや強いところを分析し、自分の利害にかかわる未来を予想する。
未来は完全には予測できないので、複数の仮説を用意する。
それを、シナリオという。できたシナリオのうち、自分にとって、不確実だがインパクトの大きいシナリオを特に警戒すべきである。そのようなシナリオについては、そのシナリオが実現する場合には、事前にこういう兆候が現れるはずだという形で兆候を予想してモニターする。
予想されたシナリオの可能性が高まった場合には、事前に対抗策を講じ、 新たな戦略を立案・執行、つまり判断・行動を予定することができる。
このような「インテリジェンス・サイクル」を作って回していくのである。

2009年12月28日月曜日

保土ヶ谷


保土ヶ谷宿本陣跡



かなざわかまくら道

2009年12月27日日曜日

佐藤優 世界認識のための情報術

2008.7 株式会社金曜日

1960年生まれ

著者の言葉は、論理的で、説得力があり、抑制がきいて、重苦しい。
2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕され、執行猶予付き有罪判決を受けた。
同志社大学大学院神学研究科修了後、外務省入省という経歴も異色である。
そもそも、神学科に進んだのは、キリスト教を論破するためであったというが、それが、逆にクリスチャンになったのだという。
著者の母親は、沖縄の久米島出身で、沖縄戦の生き残りであるという。
沖縄の人たちの、日本本土にたいするねじれた感情は、沖縄戦で、多数の犠牲者が出ただけではない。
沖縄には、もともと琉球王国が存在し、日本と中国の両方に朝貢していた。
幕末には、アメリカなどとの間で修好条約を締結した。
それが、明治の初めに、強権的に日本の一部に組み入れられ、琉球藩が設置され、これに続いて沖縄県が設置されたのである。
私は、沖縄の人たちの共通の感情というものが、どのようなものなのか知らない。
しかし、本土で、漠然と「日本は単一民族」などと言っているのとは違うものがあるらしい。
戦後、アメリカ軍が占領していたときは、琉球政府が置かれていた。
その後、本土復帰されたが、沖縄県民は、はたして沖縄という名前に愛着を感じるのだろうかというのが、本書の読後感である。
クリスチャンでかつ右翼だというが、得体の知れない感じがする。

2009年12月26日土曜日

野口悠紀雄 未曾有の経済危機 克服の処方箋

―国、企業、個人がなすべきこと

2009.4 ダイヤモンド社


現在起きているのは世界的なバブルの崩壊であるから、日本経済の落ち込みが終わったとしても、基本的な条件が変化しなければ底から這い上がることはできず、低水準の活動が続くだけである。 これからも過剰な生産能力の負担が企業収益を圧迫し続けることになるだろう。 この状態を変えるためには、日本の経済構造と産業構造の基本的な改革が不可欠である。
すでに、中国が安価で豊富な労働力を使って工業製品を作れるようになったことは、日本の高度成長期型産業構造を揺るがせるものであった。 しかし、日本は、その課題に取り組むことなく、古い産業構造を維持したまま、金融緩和と円安政策で外需に依存する道を選んだ。
そのよう輸出立国戦略の破綻が明らかになった今、日本は基本的な方向転換と経済再構築を迫られている。 ところが、日本の経営者は他力本願であり、日本銀行の資産は劣化し、財政赤字は拡大し、銀行の不良債権はこれからも拡大する。
こうしたことを考えると、日本経済の落ち込みは、以前に戻るだけで済む保証はなく、さらに悪化するおそれがある。
それを防ぐためには、日本経済の基本を改革しなければならないが、まず大事なのは、個人が何をするべきかである。
日本では、これまで組織に依存する傾向が圧倒的に強かった。 能力のある人は、ほとんどが大企業に入社し、そこで昇進するという生き方である。
しかし、いまや組織にすべてを賭けてしまうのは、リスクが高いことがわかった。
これからは、どの組織に属しているかではなく、個人としての市場価値を持っているかどうかが重要になる。
組織から個人の時代にという変化は、個人の立場だけからでなく、日本全体としても必要なことである。 独立して起業する人や、ベンチャービジネスを立ち上げる人が増えることによって、日本の産業構造や経済構造を変えることができる。
自分に投資して勉強すれば、現在の危機を大きなチャンスに転換できるかもしれない。 そこで、自己投資としての勉強で重要なことは、問題そのものを探すことである。
受験勉強のように、問題が与えられているのではない。 難しいが、問題そのものを探すことが必要になる。
何をやったらよいかは、本書に書いてあるわけではなく、読者が自分で判断しなけばならない。

2009年12月25日金曜日

田原総一朗・佐藤優 第三次世界大戦

世界恐慌でこうなる!

2009.2 株式会社アスコム


冷戦時代はソ連・中国をはじめとする共産圏が頑張っていた。
ところが共産主義が1990年に滅びると、資本主義が独走し、それまで持っていたチェック機能、歯止め、自制心を失って暴走した。それが、2008年の金融危機の原因である。数学の天才がつくったきわめて高度な金融工学の技術も、けっきょくそれを使いこなすことはできなかった。これも今回の金融危機の根底にある大きな問題である。
資本主義を見直し、もう一度基本からやり直すのにはいい機会になるだろう。
ところで、佐藤はマルクスの経済学が資本主義とは何かをよく説明していると言う。
マルクスは、いうまでもなく、マルクス主義の開祖であるが、マルクス主義とはレーニンなどのマルクス解釈にすぎなかった。マルクス自身は、共産主義革命が起こることを期待していたのだが、「資本論」の内在的理論だけからは、かならずしも革命にはならない。宇野弘蔵によれば、資本主義は、金融資本による帝国主義の時代に発展していくことによって、もはや共産主義革命は必然ではなくなった。
古典派経済学やマルクス経済学は、いわゆる経世済民としての政治経済学であが、理論経済学や金融工学は、そのような哲学や道徳とは無縁である。今の経済学には哲学がないのが大問題だと佐藤は言う。
社会主義や共産主義が崩壊して、もはやマルクス主義は葬り去られたにもかかわらず、最近、マルクスの経済学が再び注目されているらしい。
以上のほか、二人の対話は、貧困の広がりが体制の維持を危うくしているとか、批判だけで無責任な反体制派、安全地帯に身を置いて批判ばかりしている巨大マスメディアなど、今日の日本を覆う深刻な話題に及んている。

2009年12月24日木曜日

東急妙蓮寺

菊名池公園

2009年12月23日水曜日

松岡正剛 17歳のための世界と日本の見方

セイゴオ先生の人間文化講義

2007 株式会社春秋社

1944年生まれ

「編集工学研究所所長」の著者は「編集工学」という言葉をつくった。
編集という言葉は、ふつう、「本や雑誌の編集」という意味で使われている。
著者は、この言葉を、もっと広い意味と深い作用を表す言葉として使っている。
つまり、人間の知覚や思考や表現のすべてにかかわる「新しい関係性を発見していく」ことである。 さらにそこに工学的な技術的かつ方法的なスキルやセンスをつけ加えたのが「編集工学」である。 著者は、「編集工学」を使って、さまざまな人間文化の成果を関係づけ、さらに新たな関係を発見していきたいと思っている。

人間文化がばらばらに発するメッセージのことを、「情報」と呼ぶ。
「インフォメーション」とは世の中のすべての外的情報をいい、「インテリジェンス」とは私たちの感覚や知覚にまつわる内的情報である。
情報は区別することによって見えてくるものであり、情報の本質は「区別力」にある。
区別した情報を、新たな視点でつないでいき、見方をさまざまに組み替えていくことによって、新しい関係が発見される。
「編集工学」は、そういう仕組みを奥深くまで分け入って研究する。
著者は、人間文化はすべて情報文化と呼ぶことができると考えており、人間文化のための活動の多くは「情報の編集」と捉えている。

ちなみに、人間文化の根っこのほうにあるのが、宗教である。
たとえば、キリスト教をみると、イエスは30歳くらいから35歳までのわずか5年ほどしか活動していない。 イエスの弟子は10人程度である。
それが、2000年後の今日、世界の大宗教となっている。
世界史上で活躍し大きな業績を残した人物も、活躍のピークが5年くらいということは、いくらでもある。
集中した5年の歳月と最初のコア・メンバー10人で、非常に大きなことができるというひとつの例である。

2009年12月22日火曜日

バート・K・ホランド 確率・統計で世界を読む

林大訳

2004 株式会社白揚社

著者は40代の大学教授であるが、これまで自分が何をいちばん勉強したいのかわかったためしがないし、今も判断がつかないという。
役に立つ可能性のある興味深い研究の選択肢はさまざまで、ほかを捨てて一個の主題に焦点を合わせるのは、 必然性がなく窮屈なようにずっと思ってきた。一方、研究者としては専門分野を選ばなければならない。
このジレンマを解決する方法のひとつが、確率・統計を学ぶことである。そうすれば、その方法を幅広い分野に適用できる。
確率の法則によって、様々な現象が要約でき、予測できる。著者は、このところ、確率・統計を主として医学の研究に利用している。
しかし、ほかの分野への興味をなくしたことはなく、もっと一般的な確率法則の適用可能性について書き留めたのが本書である。
起こる事象が独立の場合、つまりどの事象もそれに先行する事象に依存していない場合、つぎに何が起きるのか予想することはできない。
確率論で予測できるのは統計的予測であり、個々のレベルでは、実際の予測は不可能である。
ルーレットでは球が転がり始めるときは、つねにまったく新たなスタートなのである。
おなじように、統計からはある集団の振る舞いは予測できるが、個々人の振る舞いは予測できない。 個々人の間には必ず予測できないバラツキがある。
この世界に確実なものはなく、偶然によって左右される。 だが、その偶然を貫いて確実に成り立っている法則が、確率・統計の法則である。
確率・統計の法則に逆らって偶然を味方につけようとするのが、ギャンブラー、占い師、超能力者、相場師などだが、 こちらのほうも人間的にはおもしろい。
人はなぜ当たる見込みもない宝くじを買うのだろうか?
個人にとっては、宝くじに当たるかはずれるかの可能性は半々である、つまり、当たる確率が50%のように見えるのかもしれない。

2009年12月21日月曜日

田原総一朗・佐藤優 第三次世界大戦

新・帝国主義でこうなる!

2009.2 株式会社アスコム

田原総一朗1934年生まれ

佐藤優1960年生まれ

佐藤優は、現在の大混乱する世界を見通すキーワードは、「第三次世界大戦」だと考えている。第三次世界大戦が起こるかどうかにかかわらず、すでに始まっているという前提で、国際情勢を見ることが必要だという。
アメリカはつねに戦争をし続けてきた国である。9.11テロ以来、イスラム原理主義との戦いが続いている。
冷戦終結後、アメリカが古代ローマ帝国のようになり、アメリカ金融帝国主義、ドル帝国主義が、ますます発展するかに見えた。
アメリカが世界帝国になりかけたとき、イスラム帝国主義と衝突したのが9.11テロである。
9.11テロは、アメリカ帝国主義にたいして、絶望に追い込まれた民族・青年たちの反乱のようにも見えるが、実はそうではない。
むしろ、ヨーロッパの大学や大学院に留学して、英語もドイツ語もできる、飛行機も操縦できるという、今の社会ではトップ・エリートにはなれないが、ちょっと下ぐらいのエリート層が引き起こした事件であった。
能力はありながら、人種的に西欧社会では差別されるという不満を持った人間をアルカイダが巧みに組織化したのだという。

2009年12月19日土曜日

手嶋龍一・佐藤優 インテリジェンス 武器なき戦争

2006 株式会社幻冬社

佐藤優は、かって外務省に対して圧倒的な影響力を持っていた鈴木宗男を裏から操っていたとして、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた。
手嶋龍一によると、佐藤優は日本外務省きっての情報分析プロフェッショナルであった。
インテリジェンスとは情報のことで、「武器を使わない戦争」といわれる外交の背後で繰り広げられている情報戦に欠かせないものである。
真偽のほどはともかく、佐藤優によると、東京を含めた世界中のあらゆる都市で、ほとんどの要人の電話は盗聴されているという。重要なのは盗聴したものをどう評価し、分析するかである。
そこに「インフォメーション」ではなく、「インテリジェンス」としての情報の価値がある。
素材としてのインフォメーションを精査し、裏をとり、周到な分析を加えた情報が、インテリジェンスである。
アメリカのブッシュがイラクに戦争を仕掛けたとき、フセインが大量破壊兵器を隠していること、およびフセインがアルカイダと組んでいることの二つを根拠にしていた。
今となっては、どちらもデタラメであることが明らかとなったが、その背後にはさまざまな国や人物の活動があった。
アメリカもソ連と張り合っていたころは、情報力を重視していたが、冷戦終結後、唯一の超大国となってからは、最終的には圧倒的な軍事力で解決する気なので、かえって情報力を弱めているという。
アメリカのような超大国の情報力が弱まっているのが事実とすれば、この先、おなじようなことが起こることが考えられる。

2009年12月18日金曜日

浜矩子・高橋乗宣 大恐慌失われる10年

2009.4 株式会社李白社

浜矩子 1952年生まれ

高橋乗宣1 940年生まれ

グローバル化した世界で、世界同時大不況が日に日に深化している。
金融暴走時代の後始末をつけることは、それなりの時間がかかるのだろう。
こんななかで、各企業や国が自分さえよければという論理でお互いを排斥していけば、これから先の10年は、まさしく地球経済にとって失われた10年となるであろう。
日本に先駆けて改革解放、規制緩和を押し進め、金融バブルと不動産バブルに沸いたイギリスは、アメリカ同様、不動産バブルがはじけ、深刻な国内空洞化の前に立ちすくんでいる。
日本ではアメリカの危機ほど深刻に受け止められていないが、ヨーロッパ諸国も、バブルが崩壊し、経済が急降下している。スペイン、ハンガリー、アイルランドの経済の落ち込みはとくに大きい。
1999年に実施された通貨統合により、金融政策は欧州中銀(ECB)が行うことになったが、金融監督権限は各国の財務省に残されている。いまのEUは金融監督、金融規制、金融政策を一元的に考える構造になっていない。
本書の著者は、アメリカ経済も、まだ底が見えていないと考えている。
このままの経済状況が続けば、1ドル=80円、70円は時間の問題である。
日本では、円高になると輸出産業が政府にたいして円高対策として為替介入をすべきであると要求する。円売り、ドル買いの為替介入を行って、円高を阻止してほしいという気持ちはわかるが、崩れ落ちていくドルを買うことが、はたして得策と言えるのか疑問である。
日本企業は大量生産、大量輸出型の経済成長がもはや限界であることを自覚したからこそ、生産拠点を海外に移してきた。
海外進出や資源輸入にとっては、円高は有利である。
これまでのように、円高・円安に一喜一憂するのではなく、海外に腰をすえた事業展開をするべきである。いつまでも過去のやり方にこだわるべきではない。
日本の製造業が壊滅的な打撃を受けている。
それでは、この先、モノづくりを捨てて、新しい道を探すしかないのだろうか。
著者は、そうではなく、やはり資源を持たない日本には、モノづくり以外には道はないという。日本にしかない、日本でしかできないモノづくりをめざすのだという。
これまでのように大量生産による薄利多売ではなく、独自の伝統や技能に裏付けられた少量で儲けられる高付加価値の分野で勝負するのである。

2009年12月14日月曜日

2009年12月12日土曜日

上野佳恵 情報調査力のプロフェッショナル

2009.3 ダイヤモンド社

著者は、コンサルティングとかリサーチなどの情報調査の仕事を職業としている。
情報を調べるだけでなく、自分自身の知識や知恵にして、さまざまな形で活用することが大事である。
インターネット上には情報があふれ、キーワード検索ひとつで膨大な情報を得ることができる。しかし、単に検索を繰り返すだけでは本当に必要な情報にたどり着くことはできない。調べる力をみがき、活用することによって、情報のプロフェッショナルになることができる。
「情報リテラシー」という言葉がある。
いろいろな手段で情報を獲得し、それを知識に組み込んで問題を解決し目標を達成するためのスキルである。どんなにたくさんの情報をもっていても、そのなかから肝心の情報を読みとる力や判断する力がなければ、情報リテラシーが高いとはいえない。
ツールの利用に長けていても、思考力、分析力、判断力などの基本的能力がなければ「調べる」というサイクルは成りたたない。
いっぽう、どんなに優れた分析力があっても、情報を集めたり、調べる力に問題があると、問題解決力は高まらない。
いくら情報がたくさんあっても時と場合によってうまく使いこなすことができなければ、宝の持ち腐れになってしまう。
情報量が増えても、自分自身の知識や知恵にしなければ、「情報力」は強くならない。

2009年12月11日金曜日

ビル・エモット 世界潮流の読み方

2008.12 PHP研究所

鳥賀陽正弘訳

1956年生まれ

著者はジャーナリストと作家の仕事をつうじて、世界の出来事に絶えず魅せられてきた。
世界の潮流は複雑で、すべての国や企業、それに人間が、それぞれお互いに影響を及ぼしあっている。なんらかの結論を見いだしたと思ったとたんに、突然予期しない出来事が、起こったりする。世界の動向を研究することは、たいへん興味をそそられるとともに、有益であり、謎めいている。

「近年とくに欧米で、年長者やインテリ階級の人たちが、総じて嘆いていることがある。
それは現代人の生活がもはや文化的でないことだ。つまり若い人たちの考え方や作文能力の水準は低下し、さらにテレビやインターネットは、人々に十分な情報や教育を与えずに、むしろ彼らを、単純な娯楽を楽しむ、受動的な消費者にさせているのである。」(p268)
著者は、はたして、このようなメディアや一般的な情報の知的水準の低下は本当だといえるのだろうかと疑問を感じている。
マスメディアが、高い視聴率を得るために水準を落としている反面、教育水準は事実上、全般的に向上している。読者や視聴者が、情報や娯楽をみつける方法は増えているので、マスメディアが視聴者を大量に増やし、広告を集めることが、ますます困難になっている。そのため、マスメディアの娯楽化がすすみ、視聴者からは、間抜けでおろかになったと思われるのである。
人々は、情報過多の時代にあって、何か特別なもの、ありきたりでないものを求めている。一部のメディアは、差別化された情報に特化し、教育水準が向上したおかげで、レベルの高い出版物の読者も以前より増えている。
たしかに、テレビ番組などの幼児化や低俗化を危惧する声がある一方、人々の知的レベルは、けっして低くない。
メディアに踊らされるのではなく、自分で考えなければならない。

2009年12月10日木曜日

竹中平蔵 竹中式マトリクス勉強法

2008.10 株式会社幻冬舎

1951年生まれ

「そもそも、勉強は何のためにするのか?一言でいえば、今のあなたをもっと高めるためです。」(p20)
著者によると、勉強法は二つの方向性に分かれる。一つは、人生を戦いぬく武器としての勉強、もうひとつは、人間力を鍛えるためのひととひととを結ぶ勉強である。
勉強には二つの方向性があると同時に、目標の到達点があるかどうか、すなわち、天井があるかどうかという軸も存在する。
すべての勉強は、方向性という縦軸と、天井の有無という横軸とのマトリクスで位置づけることができる。
竹中式勉強マトリクスでは、以上の組み合わせで、A.記憶勉強、B.仕事勉強、C.趣味勉強、D.人生勉強に分けることができる。
大人の勉強は、何を勉強するのかも自分で決めなければならないが、マトリクスで考えると、勉強に対するモチベーションも到達目標も分かりやすくなってくる。
「学校秀才」などという言葉があるように、学校の勉強や試験勉強ができるというだけでは、とうてい人生を乗り切っていくことはできない。
勉強とは、いわゆる「勉強」だけではない。
何歳になってからも、いろいろな勉強をし続けなければならない。
その時々の自分の能力や仕事の状況などに合わせて、勉強の中身ややり方を変えてみる。自分を成長させるには、「今、自分は何を勉強するべきか」知ることが大切である。

「竹中式勉強法9の極意」では、著者は健康でなければ勉強はできないと言う。 徹夜や睡眠不足は知的生活の敵である。
世の中には、睡眠時間が短くとも平気な政治家や社長がいる。著者は、政治家と学者を両方やってみた。政治家のような、ハイテンションの仕事は寝不足でもできるが、勉強や執筆などの精神を集中させる作業は、コンスタントに黙々と打ち込めるように生活のリズムをととのえることが欠かせない。精神的にも肉体的にも、ある程度のコンディションが整っていないと、勉強はできない。
歳を取ると、人は目や記憶力が衰えてくるので、勉強の効率は落ちる。したがって、記憶する勉強から人生勉強のほうに、より重点を移すことになる。
いくら歳を取っても、失敗もするし、後悔もする。勉強に終わりはない。

2009年12月9日水曜日

歳川隆雄 自民と民主がなくなる日

永田町2010年

2008.11 株式会社幻冬舎

1947年生まれ

2008年秋、アメリカから始まった世界的な金融危機に対処するため、麻生前首相は、「国内的な政局より国際的な役割を優先」し、衆議院の解散・総選挙よりも大型の追加経済対策を選んだ。いっぽう民主党は、「政権交代こそが最大の景気対策だ」として、
ひたすら早期解散を要求した。

その後、2009年夏に衆議院選挙が行われ、鳩山民主党を中心とする連立内閣が成立した。

著者は、2010年の参議院選挙が衆議院とのダブル選挙になるはずであり、そのとき、現在の自民党も民主党もなくなり、 永田町の景色は一変すると考えている。
現在の民主党は、旧社会党系の左派勢力から穏健保守派までの寄り合い所帯である。 そのうえ、2009年9月に成立した鳩山内閣は国民新党と社民党との連立内閣である。
そのためもあり、政権成立以来、国民からも、迷走しているように見えている。
いっぽうの自民党も、選挙で負けてから、これからどのような党を目指すのか具体的なビジョンを示すことができていない。
鳩山内閣が、行き詰まって解散総選挙ということになれば、著者が言うように、現在の民主党や自民党が分裂して、 ふたたび政界再編が起きそうである。

これまでの政界再編は、すべて小沢一郎を中心に動いてきた。
そこで、小沢一郎という人物であるが、「政策より選挙の小沢」と言われているらしい。
実現性の確かでないマニュフェストを掲げて政権を取ったものの、何を考えているのかわからない。
かっての田中角栄を超える権力者となった小沢という人物に不安を感じる人も少なくない。
この先、日本の政治の行く先を予想することは、きわめて難しい。

2009年12月8日火曜日

榊原英資 没落からの逆転

グローバル時代の差別化戦略

2008.6 中央公論新社

1941年生まれ

著者は、「日本は没落する」という本を出し、日本の社会や政治・経済に関する悲観的な見方を展開した。日本没落の徴候は、マスメディアの幼児化、経済界の拝金主義、政治のポピュリズム化に顕著にあらわれている。
しかし、こうした状況に絶望しているばかりではなく、いまこそ、危機感をバネに抜本的な改革をすべき時である。
明治維新以来の抜本的な改革に日本の将来がかかっているが、それではどのような日本を目指すべきであろうか。
日本の近代化とは、いいかえればイギリス化であった。戦後はアメリカ化に取って代わられた。
次の、ポスト近代の世界では、日本が目指すべきは、長い伝統ある日本への回帰でなければならない。本書では、日本とイギリスの歴史を比較しながら、日本の特徴は「和」であると主張する。日本は、「和」の精神で、権力が極端に集中する事を避け、長期間の平和を実現したのである。こうした著者の伝統回帰の考え方は、松岡正剛と山折哲雄の著作からインスピレーションを得て形成された。
著者は、伝統的な日本の良さを、世界に向けて発信すべきであるという。
考えてみると、今日の日本が置かれた閉塞状況は、明治維新以来の近代化の延長から生まれたものであることは間違いない。
だからといって、それ以前の社会を理想化した目で見るのもどうかと思う。
日本の歴史を「和」をキーコンセプトとして描くのは、ひとりよがりにすぎず、中国・韓国をはじめとするアジア諸国の理解も得られないであろう。

2009年12月7日月曜日

堀紘一 世界連鎖恐慌の犯人

アメリカ発「金融資本主義」の罪と罰

2009.1 PHP研究所

1945年生まれ
べンチャー企業の支援・コンサルティングを行うドリームインキュベータ社長

今回のアメリカ発金融危機の元凶は、エリートもどきの拝金主義者である。
著者は、かってライブドアの堀江社長や村上ファンドの村上世彰と論戦し、彼らに警告し反省を促したのだが、なぜか著者が悪者あつかいにされた。あのとき、彼らのバックにいたのは、リーマンブラザーズだった。
彼らインベストメントバンクは、信じられないくらいたくさんの弁護士を抱えており、彼らのすることは「法的・規制的には」何も問題がない。そして、かれらの主力商品のデリバティブは、理系の修士や博士によって設計され、論理的には一点の破綻もない。
彼らは、法外な金を稼いで逃げ去ったのである。

われわれ日本人は、彼らを生み出した金融資本主義―「虚」の経済から産業資本主義―「実」の経済へ回帰すべきである。
「いまこそアメリカの国策ともいえる金融資本主義とは決別し、日本人は産業資本主義の考え方で進んでいかなければならない。元来日本人はものづくりが得意で、汗をかくことも厭わず、産業資本主義に向いている。」(p182)

残念ながら、今回の金融危機の大打撃は、かなり長引きそうである。
「情けないが、私たちの対抗策としては、とりあえず『耐える』ことだ。耐えながら、常にチャンスを窺うことである。諦めることは少しもない。」(p187)
著者は、東大法学部を卒業後、三菱商事に勤務し、ハーバード大学のビジネススクールに留学してトップの成績で卒業した。その後、ボストンコンサルティンググループの社長を勤めた。
日本でも代表的な経営コンサルタントのひとりが「とりあえず耐えるしかない」と言うしかないのである。

2009年12月6日日曜日

京急北品川

八ツ山橋

旧東海道

2009年12月5日土曜日

瀧口範子 なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか?

2008.7 株式会社プレジデント社

「ここは定住の地というより、チャンスの土地だ。世界中から腕試しにやってきて、負けたなら、さらに腕を磨いて出直してくる場所なのだ。そして、たとえ負けてもいつも次にかける希望がある。」(まえがきより)

かって、「知識はパワー」といわれていた。
中国やインドにアウトソーシングが進んで先進国に残されるのは知識産業のみといわれてきたが、先進国の傲慢なひとり合点にすぎなかった。
今や、BRICs諸国から知識がどんどんわきあがってきてもおかしくない時代になった。
インテルの投資額は2006年に、アメリカ国外向けが国内を超えた。 マイクロソフトは中国やインドに研究所をおいている。世界中のネットワークを利用しようとしているのである。
シリコンバレーのグローバル化は、いちだんと加速している。インド人や中国人だけではく、ヨーロッパ人も多く、住む場所というより、空港のようなイメージがある。
コンピューターの専門店は、今や消滅の危機にあり、残るのはウォルマートのような巨大なディスカウント店だけになるという予測がある。コンピューターはもはや特別なものではなくなった。
シリコンバレーの中心地パロアルト市では、ガラス、プラスチック、紙などの資源ゴミをすべて一緒に出すことになった。資源ゴミの回収率は分別を簡素化すればするほど高まる。市当局は、資源ゴミを自動分別する最先端の機械を導入したのである。
シリコンバレーでは、牧歌的な風景のなかで、すさまじい競争がおこなわれている。
いま、話題になっているのは、マイクロソフトのヤフーに対する買収攻勢である。
すぐれた頭脳の持ち主のプライドをくすぐりつつ、激しい競争とプレッシャーにさらして、かぎりなく利益を追求するのというのは、なにかウォールストリートのやり方と共通するものがある。
シリコンバレーは、テクノロジーが社会の枠組みを変えるかもしれない時代の最前線にあるらしい。

2009年12月3日木曜日

竹中平蔵・田原総一朗 ズバリ!先読み日本経済

改革停止、日本が危ない!

2008.11 株式会社アスコム


竹中平蔵は、2001年から2006年まで、小泉内閣で、経済・財政・金融・郵政民営化を取り仕切った。
いま、「小泉・竹中構造改革」は、日本中から非難・批判されているが、田原総一朗は、そんな竹中に、強い関心を抱いた。
竹中によれば、大臣になった瞬間から「反・竹中」になった人が多い。批判には三種類あり、第一は、とにかく反対の立場でものを言う。第二は、”永遠の真理”を言う。第三は、批判する相手を”市場原理主義者”などと一方的に決めつけて問答無用にする。
そして、いずれの批判も、具体的な「対案」がなくダメだと言うだけである。
郵政民営化に反対する「抵抗勢力」と、学者が勝手なことをしているという嫉妬心とがそうさせたのかもしれない。

田原は、講演などで、あちこち行っているが、いまの日本は、みんなが将来への不安でいっぱいである。不安の原因は、経済的な問題をはじめとして、いくらでも山積みしている。
竹中は、たとえば、中小企業が倒産したのは、小泉・竹中改革のせいだから、国が責任を持って救えというような議論はおかしいと言う。世界中の国が、きびしい競争にされされているなか、倒産する中小企業もある。
グローバリゼーションの進展によって、企業が国外に出て行って、地方経済が衰退した。また、世界的な競争のため、格差が拡大した。それを、たまたま同じ時期に起きた「小泉・竹中構造改革」のせいにしているのである。
それはそうかもしれない。では、小泉・竹中改革とはどんなものだったのか。
小泉は、「政府が財政拡大するだけでは、日本経済は絶対にダメなんだ」という信念を持っており、竹中と一致する。
小泉内閣で竹中が行った主な仕事は、銀行の不良債権処理と郵政民営化である。
構造改革とか規制緩和とかは、それ自体は、間違った考えでもないのに、国民の不安と不満のはけ口にされたのだろうか。
むしろ、問題は、日本ではアメリカのマイクロソフトとかグーグルのようなベンチャー企業が出てこなかったように、活力がなく、何をやっても不安という「中年症候群」が、日本を覆っていることにあるらしい。
それでは、どうしたらよいのだろうか。
「何でも政府頼み」から脱却して、日本の持つ技術力、人的資源などの底力、潜在力をうまく引き出せれば、日本の成長率を確実に高めることができるというのが竹中の考えである。

2009年12月1日火曜日

小林正宏 世界複合不況は終わらない

蔓延する楽観論への警告

2009.9 東洋経済新報社


1965年生まれ

「『世界複合不況』というタイトルには、二つの意味を込めている。一つは、金融市場内の構造、そして金融市場と実体経済の関係がかつてなく複雑化した時代に起こった不況であること。もう一つは、金融と経済のグローバル化がかつてなく進展した時代に、地理的に多くの国で同時多発的に不況に陥ったことである。」(「はじめに」より)

日本については、当初、金融面での影響は少ないように思われていたが、世界的な需要の減退により、外需に依存していた日本の景気は大きく落ち込んだ。それにともない、雇用が失われ、消費も伸びない。これで内需を拡大すべきと言っても、きわめて難しい。日本人はモノづくりに優れているから、その特性を生かすべきだという意見があるが、そもそも、モノが溢れているのに売れないから景気が悪いのが現状である。
アメリカのオバマ大統領は、将来の成長の柱は、自動車や鉄鋼などの製造業ではなく、「エネルギー、医療、教育」の分野であると位置づけている。日本においても、従来のように、輸出に依存するだけの経済をいつまでも持続することは難しい。
地球温暖化防止、医療用器具、介護補助ロボットの開発などの領域で製造業が伸びることが望ましい。
今の日本は、景気が悪いから自己防衛のために消費を抑制するのだが、個人の行動としては正しいとしても、それが国全体で見ると、経済全体が委縮し、いっそう厳しい環境となるというジレンマに陥っている。したがって、節約が美徳というのではなく、ある程度の所得のある人は、それなりの消費をしてもらわなければならない。皆が節約してバスを利用していたのでは、タクシー運転手の所得が減ってしまう。
民間企業が厳しくなるのにしたがい、公務員にたいする反感が高まり、「天下り」にたいする批判が強い。
日本の未来も、少子高齢化の進展で、国全体が衰退に向かっていると言う人が多い。
しかし、一定の法則に従い予見可能なのが自然現象であるが、人間は外部からの情報に基づき主体的に判断して行動する。日本の未来は、運命論的に決まるのではなく、将来の世代のためにどうしたいかによって決まると著者は言う。
後ろを振り返るのではなく「前向きに」考えるほうがいい。
「官か民」という発想ではなく、本当に必要な仕事かどうかが重要である。
公務員の仕事も、一種のサービス業と考えると、民間でやったほうがいいのか、それとも国あるいは地方自治体でやったほうがいいのかという話になる。

2009年11月29日日曜日

ロバート・J・バーバラ 資本主義のコスト

菊地正俊訳

2009.8 株式会社洋泉社


今回の世界的な経済危機は戦後最大の不況となりそうであるが、中程度の危機は10年に1回程度は起こっている。
過去25年間、自由市場資本主義には誤りがないことを前提にした政策がとられてきた。レーガン革命と旧ソ連邦の崩壊が、自由市場主義に対する信奉と称賛をもたらした。アダム・スミスの「見えざる手」は、市場の「誤りのない手」に対する熱狂にとって代わられた。
今回も、ヘッジファンドや投資銀行の行動を、政策担当者は黙認し続けた。
事実は、過去数世紀にわたって、景気拡大の後期に、疑わしい投資や向こう見ずな戦略が、世界的な景気後退の主因になってきたのである。
通常の状態では、計画経済と比べれば、資本主義の方が、資源配分について効率的であり、より優れている。
資本主義では、資産市場で儲けたいという人々の欲望が実際に資産価格の高騰につながり、バブルが形成されていく。
多数派の経済予想も、過去の事実を基に予想される傾向がある。
コンセンサス的な経済予想は、状況がさし迫った時になってやっと変わるので、ほどんど役に立たない。
景気拡大が進むと、人々は投機的になり、債務が過剰になり、最後はネズミ講的になる。
景気循環の最終局面では、実体経済での小さな失望が、金融市場での大混乱をまねき、バブルは崩壊する。
最後に政府の救済策が必要になるが、それが、この本のタイトルとなっている「資本主義のコスト」である。
今後、世界経済がどのような資本主義形態に向かうのかは、確かではないが、国家が経済活動で大きな役割を果たし続けることは間違いない。政府の役割を重要視した経済学者に、ハイマン・ミンスキー(1919~1996)がいる。
著者は、中央銀行は物価だけでなく、資産市場に注目して金融政策をするべきであると主張する。

2009年11月28日土曜日

指南役 空気のトリセツ

2008 株式会社ポプラ社

「KY―空気・読めない」、渋谷の女子高生の間で2006年頃からはやりだしたことになっている。
かって、評論家の山本七平は、著書「空気の研究」のなかで、戦艦大和の出撃を決定したのは、会議での「空気」であったと書いた。無謀だとわかっていながら、会議の「空気」が大和を出撃させた。空気の前では、人間の理性は無力である。
最近では、「郵政民営化」という国全体に吹き荒れた空気を見方につけて選挙に大勝した小泉元首相がいる。しかし、国民が選挙のたびに空気に踊らされるとすれば大変危険なことである。
時代の空気のような巨大な空気に逆らうことはできない。だが、時間が経てば消えるのが空気の弱点である。ちょっとした一言や出来事で、空気がガラッと変わることもある。
駅の東口と西口、北口と南口で、まるで空気が違うことがよくある。人は人が集まるところに吸い寄せられる。駅前の空気も歩行者の数や時間に左右される。
会社の上司と直属の部下のように直接の利害関係にある者同士は、時間が経てば経つほど、それを取り巻く空気は悪化する。
田舎では、外出先で知人に会いやすい。都会では街で知人に合わないので、都会の空気のほうが心地よい。
維新の元勲たちは、薩摩や長州という勝ち組の空気のなかにいたからこそ、歴史に名を残すことができた。幕末の世に、彼ら以上に才能のある人間は、いくらでもいた。だが、雄藩という勝ち組の空気に乗れなかったのである。
人が集まると、いたるところ、空気ができる。人は、知らず知らず空気に動かされている。

2009年11月27日金曜日

2009年11月26日木曜日

藤原智美 暴走老人!

2007 株式会社文芸春秋

1955年生まれ 1992年「運転士」で芥川賞受賞

高齢化社会では、経済の活力は失われていくが、成熟した高齢者中心の社会は、 時間はゆったりのんびりとながれ、穏やかでゆとりのある社会になる。こういった高齢者に対するイメージは、けっして経験によるものではなく、むしろ古くからの人生観などに基づくものである。
しかし、現実に進展しているのは「暴走する新老人」という言葉がふさわしい、今まで以上にストレスの多い高齢化社会である。
著者は、こうした社会の変化を、「時間」、「空間」、「感情」という三つのキーワードから描き出している。
まず「時間」では、役所や病院で、時間がいくらでもあるはずの老人が、待たされることにイライラして突然怒鳴りだすのをよく見かける。他人から見ると、いったい何であれほど怒っているのか理解できい。
私たちは、「待つこと」になぜイライラするのか、なぜ待ち時間はムダだと感じるのだろうか。
つぎに、「空間」では、かって高度成長期に郊外にマイホームを手に入れた世代も、いまや高齢者となり、郊外住宅地は一人暮らしの老人世帯が点在する空間となった。孤独とは、静かなばかりではなく、ときに孤独感にかられた反社会的な行為にもつながる。隣人同士の摩擦、全国化するゴミ屋敷問題などの背景には孤独感が漂っている。
「感情」というキーワードでは、社会にじわじわと浸透している「丁寧化」という現象をとりあげている。
もともと、サービス産業から始まった表情、言葉づかい、態度さらに内面的な感情にまで達する「丁寧化」が社会全体に行き渡ろうとしている。
病院や学校も、サービス産業化し、患者や生徒も、お客様扱いされるようになった。力のバランスが崩れたことによって、従来では信じられないようなトラブルや苦情が増えた。サービス産業では、サービスだけでなく、笑顔などに象徴される心の領域まで労働として提供させられる。それを社会学者のアーリー・ラッセル・ホックシールドは「管理される心」という本のなかで「感情労働」という言葉で表した。感情を労働として提供するとき、人は、自分の人格とは別のものとして扱おうとする。そのため、彼らが発する声は、個性のない裏声のような独特の音声になる。
あらゆる場所で、感情の切り売りがされているが、ほどんどは見せかけであり、見せかけであるからこそ継続することができる。
「ディズニーランドや航空機の機内という閉鎖された空間で始まった笑顔のサービスは、労働や消費という現場をこえて、生活の細部に入りこんでいる。病院や学校でも丁寧化と笑顔の表情管理が進んでいる。いまや感情労働は労働をこえて、ひとつの生活規範になりつつある。
そのとき、いつのまにか変化した社会に、戸惑いを覚えている人々がいるとすれば、それはかっての若者、現在の老人たちではないだろうか。」(p202)
「こうした感情労働的な丁寧化された秩序を読みとれないとき、その人間はたちまち排除すべき存在、トラブルメーカーとなる。そのトップランナーに新老人がいる。」(p208)
著者によれば、「丁寧化社会」の笑顔の背後には、かってなかったようなピリピリとした気分が覆い隠されているという。
いまや、政治家や経営者まで、「誠意が感じられない」とか「まるで、ひとごとみたいだ」とか言われて批難されているのを見ると、「人の内面にまで達する丁寧化」がジワジワと社会に浸透しているのかもしれない。
会社でも、黙々と仕事をこなしたり、じっくり考えるタイプより、「明るい」とか「テンションが高い」とか、「お笑いタレント」タイプのほうが好まれるらしい。
私は、この本を読んでから、たまたま工事現場で、下のような看板を見かけました。

2009年11月25日水曜日

野口悠紀雄 超「超」整理法

2008 株式会社講談社

1940年生まれ

著者は「『超』整理法」を1993年に刊行したが、いまや「新しい時代が到来した」と実感している。この間、ワープロの進歩、インターネットの利用などのIT化が進み、かっては不可能と思われていた「デジタル・オフィス」が可能になった。
著者が注目しているのは、グーグルが主導して進めている「クラウド・コンピューティング」である。「クラウド・コンピューティング」では、ユーザーの手許からアプリケーションソフトやデータがなくなってしまうという。
デジタルオフィスは簡単にできるようになったので、それを使うノウハウが「検索」である。組織や財力に頼らなくても、知りたいと望んで検索力を磨けば、個人でも、ぼう大な情報を手にすることができるようになった。
それでも、実際に知的作業を遂行するためには、自分の頭で考え抜くことが必要である。
知的作業を助けるため、具体的には1)とにかく始めること、2)歩くこと、3)寝ている間に考えが進むのを期待すること、ただし、歩いたり寝たりする前に、材料を仕込んでおくことといった昔から変わらぬ方法が効果的である。
年齢を感じさせない仕事ぶりの著者であるが、つねに新しい知識を増やし、考えることを続けているとのこと。
「脳に対する負担を軽くする」のではなく「脳を極限まで酷使すること」が仕事に関して「現役」であるためには必要だという。

2009年11月24日火曜日

総持寺

曹洞宗大本山総持寺(鶴見)


2009年11月23日月曜日

小峰隆夫他著 データで斬る世界不況

2009.4 日経BP社

著者は経済企画庁経済研究所長などを勤めたいわゆる官庁エコノミストである。
サブプライム危機後の世界的な経済不況の分析とその対応にどう取り組むかは、エコノミスト冥利に尽きるという。
いま、世界金融危機が世の中の経済についての考え方や枠組みを大きく変えていくという「パラダイム転換」とか「時代の転機」という壮大な議論が盛んである。しかし、著者は、パラダイム転換論には相当の誇張があると考えている。
まず、「市場原理主義」が今回の危機をもたらしたという説に対しては、著者はもともと存在しなかった主張を対象に批判を展開していると言い、市場が本来持っている利点を発揮できないような社会では国民の福祉水準は、かえって低下してしまうと言う。「金融資本主義の時代は終わった」とか「金融工学が諸悪の根源だ」という説に対しても、そもそも金融業はサービス業の一種であり、モノ作りと、とりわけ区別する必要はない、サービス業と製造業はどちらも必要な存在であると言う。金融工学もひとつの技術であり、使い方をコントロールすることが重要なのである。
今回の不況は、もともと世界経済の大きな落ち込みで始まった。したがって、世界経済の回復がなければ、日本経済も回復に向かうことは難しい。世界経済の落ち込みを日本の景気対策だけでカバーするのは不可能である。
著者は2009年2月に二つのモラトリアムを提案したことがある。すなわち、第一に政治抗争のモラトリアムであり、危機的な経済状況のなかで、与野党が足の引っ張り合いをしていたのでは国民が被害を受ける。超党派での経済対策の立案と実施が必要である。
第二に長期プランのモラトリアムであり、この際、財政の健全化、年金制度の立て直しなど長期的な課題は一時棚上げするべきである。 世界経済、アジア経済そして日本経済の当面の先行きは大変厳しいため、とりあえずは雇用の安定などで超党派的な政策が必要である。
かって経済官僚であった著者の視点は、穏健で良識的である。

2009年11月20日金曜日

榊原英資 強い円は日本の国益

2008.9 東洋経済新報社

1941年生まれ

「世界は今、大航海時代に匹敵する大転換の時代、パラダイムシフトの時代に入ってきています。1990年半ばから急速に進展したIT革命とそれを駆使するグローバリゼーションが、世界経済システムを一変させつつあるのです。」(まえがきより)

かっての大航海時代からの流れは、ヨーロッパの強国がアジアやアフリカを支配下において、安価で大量に資源を手に入れ、自分たちの工業化に利用していた。しかし今では中国やインドのような巨大な人口を持つ国が工業化をなしとげたため、それらの国のエネルギーや食糧などの需要はやはり巨大になった。かっては、安易に大量に市場で調達できた資源が、今や稀少になり、逆にかっては稀少だったハイテク製品が安くなっている。一種の価格革命が起こりつつあり、この流れは今後とも続いていくと思われる。
高騰し、稀少品化するエネルギーや食糧といった資源をいかに買うか、そうした資源開発にいかに投資するかが重要になっている今、強い通貨は重要な武器になる。円高になれば、製造業の輸出競争力を弱めるのはたしかであるが、原材料はほどんど海外から輸入しているので調達コストは低下する。本書では従来の「売るシステム」から「買うシステム」への移行の必要性を分析し、円高政策への転換の必要性を説いている。
著者は、現在(2008年)の為替レートは、円安バブルであると言う。
それは、2002年からの長期間にわたるゼロ金利政策によってつくられたもので経済力を反映した為替レートではない。長すぎたゼロ金利の維持が、日本からの資本の流出を加速し、円キャリートレードを生み、円安バブルを作り出していった。
いずれ円安バブルははじける。これからは円高を背景にして、日本の金融資産をどう有効に投資していくかを考える時期になる。
19世紀から20世紀は製造業の時代であり、20世紀後半はハイテク製品の時代であったが、21世紀は天然資源の時代になりそうである。

2009年11月18日水曜日

大原隧道

昭和3年に作られた横浜市の土木遺産です(南区)


2009年11月17日火曜日

久我勝利 分類する技術が仕事を変える!

2004 株式会社日本実業出版社

1955年生まれ

「分類するという行為は、人間が知的活動をするときに必要とされる、最も基本的な能力である。
どんな分野でも、プロフェッショナルとは、素人が見分けられないようなわずかな違いを見抜く能力を持っている者をさす。」(p16)
分類することは、考えることと同じである。私たちは、何かを考えるとき無意識のうちに分類しながら考えている。 だが、何かのプロを目指すなら、意識的に分類することが必要だ。
分類の最も顕著な効用のひとつは、複雑で乱雑な物事に秩序を与え、単純化することだ。 百貨店やスーパーで多種類の商品がなんの秩序もなく、ただ並んでいるだけだとしたら、どれだけ混乱をまねくことだろう。
分類法は、一通りではなく基準を見直すことによって新しい発見をもたらすことができる。
プロの営業マンは、人を見分け、人を分類する達人であり、自身も場合により服装、表情、言葉づかいを使い分けるのがうまい。
いくつもの仕事を抱えているとき、仕事を重要度、緊急度で分類することで頭が整理され、自分が最初にすべき仕事が見えてくる。
独自の分類が独創性を生むことがある。音楽業界では、新しい分類を生み出すことで市場が活性化される。
経験や知識を積み重ねることにより、分類作業を早く、適切に行うことができるようになり、判断力がきたえられる。
「分類法」のなかにもいろいろな分類がある。最初に似たもの同士を小さくまとめ、それをさらに合わせて大きな分類をつくる「上昇的 分類」と、最初に大きく分けてから細かく分類する「下降的分類」がある。また、「階層構造」を持つ分類様式と「多次元構造」を持つ分類様式にわけることもできる。
分類には最低限のルールがある。つまり、①必ずどこかに分類する②一つの分類項目だけに入れることである。
分類は、何かのための手段であって、目的ではない。分類の目的を忘れないためにも、必要以上に複雑化してはならない。
情報を収集して分類し、分類したものを並べ替えることによって新しいアイデアを導こうとする発想法がKJ法である。
分類できないものに出会ったときには、分類することがムダと考えるのではなく、 従来の分類法に当てはまらない新しいものが生まれているか、 あるいは分類の枠組みが間違っている可能性があると考えれば、何かのチャンスにつながるかもしれない。

2009年11月16日月曜日

本吉正雄 その「経済ニュース」には裏がある!

2008.4 株式会社青春出版社

1971年生まれ

著者は、日銀に勤めて広報などを担当していたことがある。
本書は、「元日銀マンが教える」というサブタイトルのようにニュースの「裏を読み取る楽しさ」を教えてくれる。
一般の人は、経済記事を読むときに、経済専門の新聞記者が書いていると思う。
そのため、大新聞の記事は、正しいものだと思い込みがちである。
ところが、著者によると、新聞記者は素人のサラリーマンで、配置転換によって移動している。新聞記者は、たとえば「日銀記者クラブ」や企業の広報からの情報に頼って記事を書いている。そのため、日銀や政府、大企業などがある種の情報操作を行って自分たちに都合のいい記事を流すこともできるのである。
それぞれの新聞社によって傾向があり、新聞記者も、なかなか思い切ったことは書けないらしい。始めのうちは、目立たない隅のほうの記事や、投書のような形で、新聞記者の本音が表れるのである。
しばしば、世間で騒がれるようになって、善悪がはっきりし、攻撃しても平気であることが分かってから悪事を追求することも多い。新聞記者も素人である場合が多いので自分で正しい判断をする自信がないのである。
そのことを、「時代劇でいえば、8時45分過ぎの水戸黄門です。印籠がでて、悪人が平伏してから、悪代官を縛り上げる役人と同じです。」とおもしろい表現を使っている。
また、新聞の一面で大々的に報道されるころには、すでに知れ渡っていることが多い。
最近では、新聞を無料のインターネット版の情報だけで済ます人も増えてきた。
しかし、ウェブ版では確実な事実しか載っていないことが多く、たしかに事実は重要ではあるが、記者の予想や見込みまでは載っていない。物事の真相、隠された事実、本質といったものを知るためには、有料の新聞も活用するのが賢明である。
それに、インターネットの情報は、あんがい情報量が限られているし、それほど早いわけでもない。
本当の情報を得ようと思ったならば、ただ待っているのではなく、自分から積極的に動いて手に入れることが必要である。たんに情報を受け取るだけでなく、裏から、横から、斜めから自分の目で見てみるのである。インターネットを活用して、いろいろな新聞社のサイト、情報の発信元、掲示板のうわさ話などを見ると本当の情報に触れることができる。

2009年11月13日金曜日

2009年11月10日火曜日

高橋昌一郎 科学哲学のすすめ

2002 丸善株式会社

1959年生まれ

「科学」について、わからないことを、あれこれ考えるのが「科学哲学」であるらしい。
現代では、「科学」というと、世間では絶対的な真実であるかのように思われているが、じつは科学それ自体の内容が昔から大きく変化し、進化している。
昔の科学者の考えることと今の科学者の考えることは違っている。
この点では、クーンという学者の「パラダイム論」は有名で、科学者集団の考えることは大きく変化しながら発展していくという。さらに、ファイヤーベントという哲学者は、あらゆる科学理論を相対的なものだと見なした。
科学理論は相対的なものだとしても、人類の歴史を通じて科学は累積的に発展してきた。アリストテレスは偉大な哲学者であることには変わりはないが、現代人は彼よりも多くのことを知っている。
一般に科学理論は、ソフトウエアが不具合を修正しながらバージョンアップしていくように更新されていく。このような特徴は、たとえば芸術のような他の人間の営みには、ほとんど見られない。
「哲学者カール・ポパーの『進化論的科学論』によれば、環境に適応できない生物が自然淘汰されるのと同じように、『古い』科学理論も観測や実験データによって排除されなければならない。この意味で、今日の科学における諸概念も、時間の経過ととも古くなってゆく。科学においては、常に、最新バージョンが求められているわけである。」(p12)
残念なことに、科学者は一般に「哲学的」議論を行わず、「科学哲学」への嫌悪感を表明している科学者もいる。たとえば、物理学者のファインマンは、「科学にとっての科学哲学者は、鳥にとっての鳥類学者と同じようなものだ」と皮肉っている。
自然科学の法則は、何らかの意味で帰納法を用いて発見されてきた。そして、自然科学は驚異的な成功を収めてきた。
しかし、哲学者は、それだからといって帰納法に論理的必然性はないなどと言うのである。

2009年11月9日月曜日

布施克彦 24時間戦いました

―団塊ビジネスマンの退職後設計

2004 株式会社筑摩書房

1947年生まれ

「こんなはずではなかったのだ。団塊の世代はどこかで読み違いをしてしまった。若い頃安月給で一生懸命働いたのに、24時間戦ったのに、税金もしっかり払って国民としての義務も果たしたのに、どうして今社会のお荷物呼ばわりされるようになってしまったのか。」(表紙より)

「わたしは一昨年(2002年)サラリーマンを辞めたが、同世代の友人のほどんどはいまだにサラリーマンをやっている。社長や役員になって、会社を引っ張っているのもいる。窓際で燻っているのもいる。転職先で要領よくやっているヤツ。転職先の社風に馴染めず苦労しているヤツ。何度も転職を繰り返しているヤツ。
誰もが必死に生きているのだが、総じて苦労している。前向きにギンギラギンで、時代の先頭を走っていると思えるような人はいない。
全体に暗ぁい感じが漂っている。わたしの周囲にいるのが、たまたまそういった連中ばかりなのか。それならまだいいのだが。どうもそうではなさそうだ。だから社会のお荷物と言われてしまう。」(p92)

著者は1970年に総合商社に入社後、のべ15年間の海外勤務を経験し、文字通り「24時間戦った」。
団塊の世代全体が暗い雰囲気に包まれているのは、ゆゆしき社会問題であると著者は言うが、集まっては将来の年金減額の話ばかりでは、それも道理である。
団塊の世代は、このままでは、社会のお荷物になってしまう。それでは、どうしたら良いのか。

「用意されたコースを一斉横並びで走ってきた団塊の世代は、サラリーマン生活の終盤を迎えた今、前の世代とは違った生き方を求められている。新しい生き方とは何か、正解はまだない。実践中のわたし自身、暗中模索状態から抜け出せていない。」(p202)

大きな目で見れば、経済の停滞と不振という暗雲が、団塊の世代を含めて国全体を覆っている。
「団塊の世代」は、もはやマイナスイメージの言葉になってしまった。
これからは「年齢に関係ない」という社会にすべきだと思うのだが。

2009年11月8日日曜日

東急多摩川

多摩川台公園
丸子橋

2009年11月7日土曜日

小林幹男 貸せない金融

個人を追い込む金融行政

2009.5 株式会社角川コミュニケーションズ


1961年生まれ

著者は、世界同時恐慌とは別に、日本国内発の不況要因があると言う。すなわち、たとえば消費者保護とか弱者救済が、何をおいても最優先という日本の社会を覆っている「空気」である。
その結果、規制が強化され、消費者金融、事業者金融、信販会社という日本経済のなかで一定の役割を果たしてきたノンバンクが 、いまや崩壊の危機にある。著者は、むやみに規制強化をすればいいというわけではなく、規制強化によって、産業が衰退すれば、経済を圧迫し、けっきょく消費者にとって不利益になると言う。
これらの規制が日本経済に与える影響については、たとえば次のようなものがある。
①改正貸金業法の成立により、消費者金融が衰退、倒産に追い込まれ、個人消費が減退する。
②おなじように、中小零細企業専門に貸出を行っているノンバンクが破たんに追い込まれている。
③割賦販売法の改正により、割賦販売をになっている信販会社の経営を圧迫することになる。
④耐震偽装事件によって建築基準法が改正されたことにより不動産不況を招いた。
経済危機とは、ただひとつだけの要素だけが原因ではなく、様々な要素が複雑に絡み合って起こるものである。
著者は、そのため、「きっかけ」になったものが、いつの間にか、うやむやになって問題の本質がみえなくなってしまうことがよくあると言う。
多重債務者問題、ヤミ金被害の増加、悪質な訪問販売業者の被害にあう一人暮らしの老人、姉歯耐震偽装事件などに関連して、規制や取り締まりが強化されれば、ひつつひとつは善意と正義に基づくものでも、一方では経済不況の原因にもなるのである。

2009年11月6日金曜日

堺屋太一編著 日本 米国 中国 団塊の世代

2009.3 株式会社出版文化社

1935年生まれ
 
著者は「団塊の世代」という言葉を作ったが、今ではすっかり定着している。
単に数が多いだけでなく独特の経験と集団性を持つ世代と認識したのである。
同時期に、世界の各国、特にアメリカや中国でも他とは異なる人生経験を持った世代ができていたという。
日本の団塊世代は、戦後の高度成長期に育ち、自分たちが豊かになり、豊かになり続ける夢を見ることができた。
この世代が、夢からさめ、未来に対する不安を感じだすのは、ごく最近、日本の国力と国際的地位に翳りが見えだしたころである。
それでも、過去の人生のほとんどを通じて、先輩たちの築いた体制と価値観とに安住することができた。
それに比べると、諸外国の同世代は、より劇的な人生を過ごした。
とりわけ、中国の戦後っ子は、彼らが少年から青年になる10年間、「文化大革命」という「空白」を過ごさねばならなかった。
日本の団塊の世代が物心ついた1950年代後半には、日本の戦後体制はすでに出来上がっていた。
それは、①日米同盟を基軸として、経済大国・軍事小国を目指すという外交コンセプト②官僚主導で規格大量生産型の近代工業社会を築くという経済コンセプトである。これを定めたのは、明治生れの世代である。
その後、日本はこの路線を走り続け、平和と繁栄を享受することができた。
しかし、1990年代初頭のバブル景気の崩壊以来、日本は経済の不振と社会の弛緩に苦しんでいる。
団塊の世代は、あたかも永遠であるかのように信じてきた戦後体制の崩壊に驚いた。そればかりではなく、 自分たちが60代を迎えた今、世界的な大不況が襲ってきた。
このような世の中を生き抜くためには、変化に対応する知恵と想定外の出来事に動じない覚悟が必要だ。
著者は以上のように述べたうえで、「団塊よ、諦めるな!君たちにはまだ未来がある」とエールを送るのである。

2009年11月5日木曜日

白川方明 現代の金融政策

理論と実際

2008.3 日本経済新聞社

1949年生まれ
 
本書は、言ってみれば、日本銀行を代表する見解である。
まず、日本銀行については、1998年に施行された日本銀行法第1条では、「日本銀行は、我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うことを目的とする」と規定したうえで、第2条では「日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」と規定している。
日本銀行は独立して金融政策を決定するが、具体的には「金融政策決定会合」で意思決定が行われる。
「金融政策決定会合」のメンバーは総裁、2名の副総裁、6名の審議委員の合計9名である。
金融政策委員会では、金利や通貨量に関する具体的な運営方針を公表する。
例えば、「無担保コールレート(オーバーナイト物)を0.5%前後で推移するよう促す」などと公表している。
その判断の根拠になるのは、経済の現状判断と予測である。
日本銀行は、専門家としての高い能力にもとづいて、適切な金融政策を運用することが期待されている。
さらに、金融政策運営の独立性を与えられている条件として、意思決定の内容および過程を国民に明らかにしなければならない。
このように見ると、日本銀行は独立して金融政策を決定するとはいっても、選択の余地は、限られている。
したがって、日銀の役割は大きいのだが、景気の不振やバブルの発生をすべて日銀の失敗のみに結びつけるのは、わかりやすい一面で、かえって事実を誤らせる考え方だと言わねばならない。
本書からは、日銀の金融政策は、選択の余地が少ないなかでは、おおむね適切であったのではないかと思えてくる。
よく議論されている「インフレターゲット政策」については、そもそも「インフレ・ターゲット」という言葉の意味する内容が論者によって異なるとし、今のところ欧米の中央銀行でも、はっきりとこの政策を採用しているところはないと言っている。
バブル経済と金融政策については、著者はバブルの発生は完全には防止できないと言う。バブルであったかどうかは、後になってみなければわからないことが多いのである。

2009年11月4日水曜日

大森


     大森貝塚遺跡庭園とモース像




2009年11月3日火曜日

尾崎弘之 投資銀行は本当に死んだのか

米国型資本主義敗北の真相

2009.2 日本経済新聞出版社


著者は1984年野村証券入社後、モルガンスタンレー証券、ゴールドマン・サックス投信などに勤務した。
本書は「投資銀行は本当に死んだのか」と題するが、著者は、そうは考えておらず、従来とは異なった形で役割をになっていくと考えている。
むしろ、米国型資本主義の「真の問題点」は、投資銀行にあるのではなく、実体経済に潜んでいるというのが著者の考えである。
なぜなら、実体経済がなければ金融産業は成立しないからである。
では、実体経済の抱える問題とは何か。それは、企業経営者が「無理な成長」を、ひたすら追い求め続けなければならないことである。
企業経営者は、決算のたびに、来期の高い業績予想を提示しつづけなければならない。
高い成長が、高い株価を実現し、これによって経営者の能力が評価されるという仕組みがアメリカに広がっている。
このような構造的な原因があるので、ひとつの金融危機が去れば、また次のバブルと金融危機とが、やってくるのである。
著者は今回の危機も、「グリーンスパン」と「ウォール街の投資銀行」だけを犯人とするような偏った意見には疑問を感じている。

「あとがき」では、つぎのように述べている。
「1990年の日本のバブル崩壊と2008年金融危機の共通点は、①株式市場や不動産市場が崩壊しても、それが即、実体経済に悪影響を与えるわけではないこと、②人々がバブルの崩壊に気がつくのは、ピークからある程度時間が経ってからであること、③バブルは金融機関だけでなく、実体経済の心理状態によって作られることの三点である。
2009年初頭は、暗い経済見通しのオンパレードである。まるで、将来への明るい希望など無いようにさえ思える。
しかし、振り返ってみると、ブラックマンデー以降、大きな危機の到来の度に人々は同じような心理状態に陥った。しかし、危機が去ると、危機の存在すらも忘れ去られてしまう。これが危機の本質なのであろう。」

2009年11月2日月曜日

東谷暁 世界と日本経済30のデタラメ

2008.11 株式会社幻冬社

1953年生まれ
 
サブプライム問題とか金融危機とかが騒がれている時期には、多くの噂や風評が飛び乱れ、一般の人々の心理を掻き乱し、普段なら考えてもみないような妄説が社会に蔓延しがちであるという。
危機的な時期こそ、目の前の出来事にとらわれることなく、冷静に個々の事実を正確に把握しなければならないのだが、かえってそれができなくなる。さまざまな説を唱えている人たち自身が、自分たちの誤った説のとりこになってしまうことも多い。それどころか、その説が社会全体におよんでしまうと、その説が一人歩きすることになってしまう。
こうした現象は「自己実現的予言」と呼ばれていて、多くの社会現象に見られるという。
現代のような情報社会では、情報がまんべんなく行き渡ることによって間違いが矯正されるのではないかというと、その逆で、情報の過剰集中によって、かえって特定情報の自己増殖現象が起こりやすくなる。インターネットの検索で上位に並んでいるからといって、それが正しいという保証はない。

そういうわけで、現在世間に流布している経済情報についても、まず疑ってかかることから始めなくてはならない。
著者が言う「デタラメ」と著者の反論は、たとえば、次のようである。

「アメリカの金融資本主義は崩壊する」という説があるが、アメリカはこれまで何度も「崩壊した」と言われつづけてきた。2001年ITバブルが崩壊したときもアメリカ資本主義が終わったと言われていた。
「ムダな支出を減らせば増税は必要ない」という説にたいしては、日本は国債残高がきわめて大きいので、これ以上財政赤字が増えないようにするだけでも困難な状態であるという。
「公務員が多いせいで日本経済はだめになった」という説にたいしては、日本の公務員の数は国際比較すると、けっして多くないらしい。
「ドルはほどなく基軸通貨から転落する」という説があるが、著者は2050年ごろまではドルの基軸通貨からの転落は完了しないという。

「あとがき」では、著者は「日本の公務員は少なすぎるために不祥事が生まれている可能性すらあるのに、その解決策が公務員の削減にねじ曲げられてしまっている。しかし、公務員削減のやりすぎで公的サービスの低下が生じ、さらに不祥事が増えたら損をするのは私たち国民なのである。同じような『常識』が経済問題には実に多く存在するのだ。」と述べている。
こうなると、著者の言うことも疑ってかからねばならないことになるが、とかく社会や経済のことは、渦中にいるとなかなかわかりにくいものである。

2009年11月1日日曜日

川崎

川崎チネ・チッタ


2009年10月31日土曜日

水野和夫 金融大崩壊

「アメリカ金融帝国」の終焉

2008.12 日本放送出版協会


1953年生まれ

「サブプライム問題に始まり、”リーマン・ショック”で爆発した世界金融クライシス。
それば米国製『投資銀行』ビジネスモデルの崩壊とともに、天文学的なマネーが流動する世界の資本主義経済が、次のステージに突入したことをも意味している。早くから金融バブルの崩壊を予見してきた気鋭エコノミストが、この未曾有の金融クライシスの本質と、世界と日本のこれからを鮮やかに読み解く。」(背表紙より)

「世界では低金利が続いていて、どこへ投資しても儲からない。リスクが高いのはわかっていいるが、高い利回りの金融商品が何としてもほしい。そこで投資会社がその希望に合わせるようにCDO(債務担保証券)をつくり、格付け会社を呼んできて、自分たちに都合のよいように高い格付けをつけさせて売り出した、というのが真相なのす。」(p59)

著者は、今回の経済危機はアメリカによる金融資本主義が崩壊したと見る。
グローバル化した現代の経済では、日本などの低金利国から資金を調達して、アメリカの高金利の債券に投資すれば、確実に儲けることができる。その際、怖いのはリスクであるが、格付け会社や保険会社の保証のついた債券なら安心である。
こうして、投資家はアメリカの高金利の債券を求めていく。サブプライム住宅ローンは、リスクが高いため、金利も高いので、こうしたローンを証券化した商品は高金利となり、投資家の需要は膨らんでいく。無理な住宅ローンが組まれたのも、投資家の債券に対する需要がきわめて強かったためである。こうした仕組みも住宅価格が上がり続けているうちは、なんとか動いていたものの、住宅価格が下げだすと、たちまちのうちに機能しなくなり、破綻していまう運命にあった。
一度バブルがはじけてしまうと、金融機関には大量の不良債権が残り、政府は金融機関を救済するために莫大な支出を余儀なくされた。
つぎに懸念されるのは、政府の巨額な財政赤字によってドルに対する信認が無くなることである。
「アメリカ金融帝国」が崩壊したあと、無極化した新しい資本主義の時代が来るであろうと著者は予想している。

2009年10月30日金曜日

飯田泰之 考える技術としての統計学

2007 日本放送出版協会

1975年生まれ

最近流行の言葉で言うと、「情報リテラシー」とは情報処理の基礎技能であるが、そのうちでも最も伝統的なものが統計である。
「統計を使った嘘」には、いくつかの種類があるという。
たとえば、①グラフの縮尺替えなど「見せ方」による嘘
②データ選択の嘘(「飛行機事故は一度に死ぬ人数が多いので危険なように感じるが、年間の死亡者数は圧倒的に自動車事故のほうが多い」と、よく主張されていが、利用1億回あたりに直すと、飛行機のほうが自動車より死亡者数が多い。)
③データ収集の嘘(平日の昼間に電話で行われた世論調査は信用できるかといっ問題)
騙されないようになるために、統計を学ぶのだという主張もあるが、それよりデータを使って何ができるかを考えることのほうが重要である。
統計的思考法のひとつは「記述統計」と呼ばれ、集めたデータを観察しまとめることで物事の一般的な傾向を把握する。
もうひとつは「推測統計」で、ほんの一部のデータから全体を推計する。
「推測統計」は、世論調査に利用されており、1500~2000人程度の調査をすれば95%の確率で日本人全体の姿がわかる。
思考支援ツールとしての統計学の特質を考えてみよう。思考には二つの方法があり「演繹」と「帰納」と呼ばれている。
「演繹」とは普遍的な前提から個別現象の説明を得る思考法であり、「帰納」とは多数の個別現象から普遍的な法則性を得る思考法である。
演繹法の優れているところは、前提が正しければ結論はかならず正しいという性質であるが、裏を返せば、同じことを言い換えたにすぎず、思考によって新しいアイデアや発想が生まれてこない。
いっぽう帰納法のほうは、データから一般的な法則を類推するので、間違えることがある。
ここで、前例や経験にもとづき、確率的に高い予想をする統計的な発想法が役に立つ。統計学は、演繹法と帰納法を結びつけ検証するために、たいへん役に立つ思考支援ツールである。

2009年10月29日木曜日

東急都立大学

常円寺の大いちょう
めぐろ区民キャンパス
(都立大学跡地)

2009年10月27日火曜日

大井町

ゼームス坂記念碑・レモン哀歌碑


2009年10月26日月曜日

イアン・エアーズ その数学が戦略を決める

2007 株式会社文芸春秋

山形浩生訳

「われわれはいま、馬と蒸気機関の競争のような歴史的瞬間にいる。直観や経験に基づく専門技能がデータ分析に次々に負けているのだ。」(p20)
「絶対計算とは何だろうか。それは現実世界の意志決定を左右する統計分析だ。絶対計算による予測は、通常は規模、速度、影響力を兼ねそなえている。データ集合の規模はとんでもなくでかい。」(p20)
いまでは、あらゆるところにデータマイニングがある。検索エンジンのグーグルは、検索者が本当に見たいウェブページを見つけ出す。グーグルは個人検索機能を開発し、過去の検索履歴を使って、その人が本当に見たいものを抽出するようにしている。グーグルの「ページランク技術」は、「社会ネットワーク分析」と呼ばれるものの一種である。
絶対計算は、コンピューターの進歩により大量のデータを短時間に分析できるようになったことにより可能となった。また、専門家と絶対計算とがどちらが優秀かを比べると、ほとんど絶対計算が勝つ。その理由は、人間は感情や先入観に左右されがちで、大量の条件にうまく重みづけができないためである。それでも専門家の抵抗もあり、社会の専門家に寄せる愛着も大きい。
絶対計算が人間の裁量を奪い、人間の役割がなくなってしまうという批判がある。
現場の人間の地位はどんどん低下し、裁量を奪われてマニュアル通りの入力しかできない立場に追い込まれていくかもしれない。
絶対計算が政府や企業に利用され、個人のプライバシーはますますなくなっていく恐れもある。
これからは、一般の人も統計や数学の知識をある程度持つことが必要になる。
たとえば、平均値から上と下にそれぞれ標準偏差の2倍の範囲をとると全データの95%がはいるという程度の知識があると役に立つ。
経験や直観と統計分析(絶対計算)の知識とを相互に行き来させることで、ずっと先を見通すことができるという。

2009年10月25日日曜日

ジョージ・ソロス ソロスは警告する

超バブル崩壊=悪魔のシナリオ
徳川家広訳

2008.9 株式会社講談社

1930~ 

本書は2008年春に書かれたが、著者は「超バブル」の崩壊が目前に迫っていると言う。人々の誤った投資行動が「超バブル」を生み出したが、その原因となる「支配的なトレンド」と「支配的な誤謬」とが存在している。「支配的なトレンド」とは信用膨張、つまり信用マネーのあくなき肥大化であり、「支配的な誤謬」とは、19世紀には自由放任と呼ばれていた、市場にはいっさい規制を加えるべきではないという考え方―すなわち市場原理主義である。
著者は、ヘッジファンドの草分けとも言われるクォンタム・ファンドを設立し、投機取引により、莫大な利益を上げた。そのため、世間では投機家として名高いが、若いころ、カール・ポパーの本に啓発を受けて以来、本当に興味を持っているのは、哲学である。著者は人間の社会を、独自の「再帰性」の理論により説明しようとする。理論は難解であるが、それによると、社会の「部分」である人間は、社会を誤謬なしに「完全」に理解することはできない。
「自然」を対象とするのであれば、人間の理解にたいして自然は変化しないが、対象が「社会」であると、人間の理解によって社会も変化してしまう。人間の思考と社会現象は互いに干渉しあうのである。
私なりに解釈すると、たとえば人が不動産価格が上がると思うと、買う人が多くなるので、実際に不動産価格が上がるようになる。これを見て不動産価格は上がるものだとさらに多くの人が思うようになる。こういう循環が起こるとバブルが生じることがある。
バブルは徐々に膨らんでいって、ついには破裂するが、著者のような投資家にとっては、そこに儲けのチャンスができる。
そういうわけで、著者は、2008年中に「信用膨張の飽くなき肥大化と、行きすぎた市場原理主義とによって、サブプライム・バブルをはるかにしのぐ規模にまで成長した『超バブル』が弾けようとしている」(松浦民輔の解説)と主張するのである。

2009年10月24日土曜日

夕富士遠景

神奈川区神ノ木公園から


2009年10月23日金曜日

中野剛史 恐慌の黙示録

資本主義は生き残ることができるのか

2009.4 東洋経済新報社

1971年生まれ

ヴィジョンとは、世界観や思想のことであるが、人々は、ある種のヴィジョンあるいは思想にもとづいて世界を認識し行動する。経済システムというものも例外ではなく、その根底に、何らかの世界観や思想があると著者は言う。
2008年9月に勃発した金融危機以来、「金融資本主義が破綻した」と言われているが、その意味するところは、経済システムが壊滅したと同時に、それを支える思想あるいはヴィジョンが崩壊したということである。
日本については、「これまでのヴィジョンに対する根本的で内発的な反省もないまま、模範としてきた経済モデルを見失った日本は、突然訪れた世界的危機の中で、ただ漂流するばかりとなっている。」(p10)という。

本書では、そのヴィジョンをめぐって、過去の経済思想家の説を、いろいろ考察している。
対象となっている理論家は、ミンスキー、ヴェブレン、ヒルファーディング、ケインズ、シュンペーターの五人である。
「この資本主義の預言者とも言うべき五人が書き残した『恐慌の黙示録』を解読し、その中に秘められた思想をつなぎ合わせるようにして復元していけば、われわれが失ったヴィジョンを取り戻す手がかりが得らるかもしれない。」(p10)
「彼らは、資本主義の基盤が、『所有と経営の分離』による一撃によって『産業』と『金融』に分裂し、不安定化したという認識で一致していた。そして恐慌とは、この資本主義の基盤の動揺を示す兆候にほかならない。」(p14)

著者は、現在の世界的な経済危機を克服するためには、どうしたらよいかということについては述べていない。そのかわり、金融資本主義の破綻した後、著者のいう「国民資本主義」のヴィジョンが世界に求められているという。
著者は、経済産業省に勤務し、イギリスのエディンバラ大学院に留学して博士号を取ったという異才である。

2009年10月22日木曜日

安達誠司 恐慌脱出

2009.5 東洋経済新報社

1965年生まれ

著者は、アメリカの金融危機から始まった世界的な経済危機は典型的な恐慌型不況であるという。リーマン・ブラザースの破綻により、金融機関の間に「カウンター・パーティリスク」が広がり、金融システムが崩壊した。このため、実体経済の悪化が世界的に加速度的に進んでしまった。
今回の危機がアメリカに始まったため、アメリカ型資本主義の没落論が、一時、日本の経済論壇に流れていた。著者は、この見方に共感するのは、かって学生運動を経験した団塊の世代を中心とした人たちだとみている。
「『団塊の世代』に属する評論家が、アメリカの経済危機について嬉々としてコメントする姿を見ていると、今回の金融危機、およびこれに続く世界経済危機に際して、学生時代に心酔していたマルクス経済学のルサンチマンが爆発した印象を持たざるをえない。」(p12)
「団塊の世代」が皆、学生運動をしていたはずはないが、経済評論家のなかには、それらしき人もいることは事実である。
ところで、著者の見方では、今回の経済危機はアメリカが最も先に回復する可能性が高い。アメリカでは危機克服のための政策が適切に選択され、その効果が出つつある。ひるがえって、日本については、2003年からの景気回復を牽引したのは、輸出セクターのみであり、内需セクターは低迷していた。そのため、今回の経済危機で、輸出依存度の高まっていた日本経済は大きな痛手を被った。
そのうえ、アメリカの積極的な財政金融政策の発動と日本の消極的な政策発動の格差は、さらなる円高を招き、デフレ圧力を高めている。
著者は、現在の経済的苦境に際して、与野党共に無策であり、したがって日本経済に望みはないという。
著者の経済危機克服のための最終シナリオでは、日本の政府が財政再建路線を放棄して大規模な財政拡大に乗り出すと同時に、日本銀行が国債の買い切りオペレーションを拡大して大規模な量的緩和をおこなう。この流れの中で、日本経済にも回復の芽がでてくるという。

2009年10月21日水曜日

桜木町

ランドマークタワー


2009年10月20日火曜日

田中隆之 「失われた十五年」と金融政策

2008.11 日本経済新聞社

1957年生まれ

ここでは、バブル崩壊後1991年から2005年までの15年間の戦後未曾有の経済停滞期を「失われた十五年」と呼ぶ。
この間、日本銀行は一方的な金融緩和を余儀なくされ、ついにどの国の中央銀行も経験したことのない量的緩和政策にまで追い込まれた。このような超金融緩和と財務省による円高阻止の為替介入が長期の円安をもたらし、景気を下支えした。

ゼロ金利制約下における追加的金融緩和策のうち最も注目されたのは、グルーグマンらの主張した独立的インフレ期待形成策であるが、本書では、日銀がこれを採用しなかったのは「正解」であった可能性が高いという。著者は、インフレ政策を採用することによって引き起こされるであろう弊害とその沈静化コストを考えれば、デフレの弊害の方がましだと考えている。

十五年近くの間、金融政策が緩和方向に傾き続け、循環性を失ってしまった原因について、本書では次のように書いている。
「一つは、金融政策がプルーデンス政策(信用秩序維持政策)を『肩代わり』せざるを得なかった、という事情による。二つ目は、経済がデフレに陥ったことだ。とりわけ、2002年からの景気回復期にデフレが継続したことが大きく影響している。」(p7)
簡単に言えば、この間、銀行の体力の衰えが回復しなかったこと、世間では不況が続いているという認識が一般的だったこと、このため日銀は金利を上げることができなかった。日銀は積極的にゼロパーセントに近い金利を継続したというより、むしろ、そうせざるを得なかった。本書では、この十五年間を非常事態ととらえ、いったん金利がゼロパーセントに達すると金融政策は打つ手を失うと言い、日銀の政策をおおむね追認するかたちになっている。

アメリカ発の金融危機が世界に拡がるなかで、新しい金融政策のあり方が議論されている。著者は、将来のためにも、「失われた十五年」における政策や論争を総括することは不可欠であると述べている。

2009年10月19日月曜日

金子勝/アンドリュー・デウィット 世界金融危機

2008.10 株式会社岩波書店

金子勝 1952年生まれ
アンドリュー・デウィット 1959年生まれ

本書の目的は、アメリカのサブプライム危機にはじまるグローバル同時不況のメカニズムを明らかにすることにある。その説明は、1年後の今から読むと他の本とあまり変わりはないように見えるが、本書の特色は日本経済についての見方にある。
小泉「構造改革」という「政治のバブル」に酔っていたツケが、これから猛烈に日本経済を襲ってくる、早急に政策を転換しなければ、日本経済は死へ向かって突き進むよりないと言う。
著者の言葉は、例えばつぎのように攻撃的である。
「竹中平蔵を筆頭に、『規制緩和がまだ足りない』とか、『改革が中途半端に終わった』という。経済が成長すれば、規制緩和のおかげ、経済が停滞すれば規制緩和が足りない―まるで呪文のようだ。宝くじに当たれば信心のおかげ、交通事故に遭えば信心が足りないと言っているのと同じだからだ。」(p69)

振り返ると「構造改革」をはじめとして、小泉首相は、巧みな「演出」で「小泉劇場」と揶揄されたこともあった。しかし、それではその代りに何ができるのかというと、実際にできることは限られてしまうようである。本書では、「小泉構造改革」のマイナス面への容赦のない批判が目立ち、日本の置かれた困難な状況は、すべて「小泉構造改革」だけが原因だと言っているように聞こえる。むしろ、小泉政権での「規制緩和」や「構造改革」には限界があったという表現のほうが事実に近いのではないだろうか。

「知識社会のもとでのインフラ投資は、道路ではなく教育である。」とか「将来起こりうる大きなリスクであるドル暴落にそなえ、東アジアレベルで、通貨や貿易の連携を強める政策を急ぐべきである。」など、今の民主党の政策に近い主張も見受けられる。

むすびでは、「私たちは、いま未知のリスクに直面している。それは、まだ確かな形をとっていないが、社会崩壊の危機をはらんでいる。あらゆる知恵を絞って、それを回避しなければならない。」と書いている。

2009年10月18日日曜日

2009年10月17日土曜日

キース・デブリン/ゲーリー・ローデン 数学で犯罪を解決する

2008.4 ダイヤモンド社

山形浩生/守岡桜訳

「米国の警察F.B.I、CIAは最新の数学を駆使して犯罪を捜査している。『NUMB3RS:天才数学者の事件ファイル』は、そうした現実の動きをエンターテインメント化して、天才数学者の主人公が数々の難事件を数学の力で解決していく人気テレビドラマ。本書は、ドラマのエピソードを糸口にして、背後に流れるさまざまな数学概念を文系にもわかるように解説した一冊。」(背表紙より)

天才数学者が数学を縦横に活用することで、兄のFBI捜査官を助けて数々の事件を解決するというアメリカのテレビドラマがあるらしい。
統計とか確率をはじめとしてさまざまな数学が実際に利用されているという。
ドラマでは主人公があざやかに事件を解決してみせるのだが、実際に活用されている現場では、まず正確なデータを集めるという地道な作業にきわめて多くの時間がかかる。科学捜査に数学が使われるのはおもに犯人を絞り込むときである。

「地理的プロファイリング」は、ある町で同一の犯罪が多数発生している場合に犯罪者が居そうな場所を絞り込む技法である。
「統計分析」「データマイニング」では、大量情報からパターンを抽出する。
「画像エンハンス」では、人間には識別できないような画像を分析してより正確な像を再現する。
「社会ネットワーク分析」は、テロ対策に応用されるがその一部はトップクラスの機密事項である。
その他、「ニュートラルネット」「ゲーム理論」「オペレーションズ・リサーチ」「暗号」などの数学が使われているという。
今では、パソコンを使うことによって簡単に数学や統計を犯罪捜査に利用できるようになったということであるが、それがアメリカの人気テレビドラマになっているというのは興味深い。

2009年10月16日金曜日

高橋洋一 この金融政策が日本経済を救う

2008.12 株式会社光文社

1955年生まれ 元内閣参事官

著者は、日本経済の先行き不安の原因は、一般に言われているようにサブプライム問題ではなく、日銀が2006年から2007年にかけて金融引き締めをしたためだと言う。
「つまり、日本経済は07年から景気が悪化しており、現在もそれが続いているわけです。それが証拠に、サブプライムローン破綻による日本の被害金額は1兆~2兆円にすぎず、欧米とは桁が二つも違うにもかかわらず、今回の世界金融危機では、日本株が最も値を下げています。」(p8)
したがって、著者は景気を良くするためには、金融緩和を行うべきだと主張している。
2006年3月に日銀が量的緩和政策を解除し、7月に誘導金利を引き上げたのが2007年中ごろからの景気悪化の原因であるというのである。
日本の景気が悪化したのは、アメリカの金融危機に始まった世界同時不況が原因であるというのが、世間の常識的な見方だと思うが、著者の意見は、日銀の金融政策のみに偏っているように見え、日銀悪玉論に近い記述になっている。
金融政策は行ってからその効果が現れるまでに、かなりの時間がかかるため、多くの人が金融政策の効果を軽くみているのだという。
わずか0.1~0.2%の金利を上げたり下げたりするだけでは景気にたいした影響はないという説もいっぽうではある。
それでも、著者の説は、アメリカにおけるバーナンキなどの金融恐慌に関する最新の理論にもとづいているという。
最後に、著者は、今の日本経済の危機を救うためには、金融・財政のフル稼働で、25兆円の量的緩和と、25兆円の政府通貨発行をすべきだと書いている。

2009年10月14日水曜日

2009年10月13日火曜日

ポール・グルーグマン 危機突破の経済学

日本は「失われた10年」の教訓を活かせるか

2009.6 PHP研究所 大野和基訳

1953年生まれ 2008年ノーベル経済学賞受賞

著者によれば、いま世界で起きている経済危機の責任はアメリカにあるという世論は、いささかフェアではない。アメリカの住宅バブルがはじけたのは事実だが、ヨーロッパでもまた大規模なバブルと不良債権があった。今日の経済危機は、発端も影響もグローバルなものである。
日本は、経済危機の震源地ではないにもかかわれず、主要経済大国のなかで最悪の打撃を受けた。それば、日本の経済が輸出に頼ったものであったため、世界貿易の劇的な落ち込みの影響が特に大きかったためである。日本の経済が、まだ「失われた10年」から完全に回復していなかったのである。
著者は、日銀があまりにもはやくゼロ金利政策をやめてしまい、政府が財政赤字を減らそうとしたのが間違いだったという。ある程度のインフレが起きるまでそのままにしておくべきだったというのが著者の意見である。
インフレ・ターゲット論者で知られる著者は、日銀がインフレ目標をたとえば年4%とかに設定し公表すれば、景気は良い方向に向かうだろうと言う。具体的にどのようにインフレ・ターゲットを設定し実現するかは難問であるが、とにかく事態が良くなるだろうと言っている。
野口悠紀雄などの議論では、日銀があまりにも長く低金利の資金を世界に供給しつづけたのが経済危機を生んだとのことである。
グルーグマンの説では、逆に日銀はあまりにも早くゼロ金利から脱出しようとしたのが誤りであったという。
このように、日銀が金利をほんの少し動かすことにたいしてすら異なる意見があるが、どちらも日銀が悪いと言っているのである。中央銀行が金利を動かすことによって景気を調整できるというのが経済学の考え方であるが、金利を動かすことによってどのような効果があるのかは論者によって意見が異なる。これらの意見にはかなり大雑把なものもあり、単に日銀を悪玉にすればいいという考えに近いものもある。
もう少し詳細なデータをもとに分析しなければ、どの説が妥当なのか評価することはできないようである。

2009年10月12日月曜日

越智道雄・町山智浩 オバマ・ショック

2009.1 集英社新書

越智道雄 1936年生まれ
町山智浩 1962年生まれ

「史上初の黒人米国大統領に就任したバラク・オバマ。疲弊する大国は、なぜいま、彼を選んだのか?覇権国家の衰退を歴史軸で考察する研究者(越智)と、合衆国を駆け巡るフィールドワーカー(町山)が、岐路に立つアメリカの過去・現在・未来を縦横無尽に語り合う。サブプライムローンの”現場”やハリウッド空洞化の実情など、アメリカが陥った病の症状を容赦なく暴き出し、多様な人種がオバマを「支持」した理由を明らかにする!」(背表紙より)

今のアメリカの社会は、つぎのように表わされる。
1.国内の産業が空洞化している。
2.マイノリティーと呼ばれる人たちの合計が今後、白人より多くなっていく。
3.貧富の格差が非常に大きく、「アメリカン・ドリーム」とは文字通りの夢にすぎなくなっている。
日本も、このようなアメリカの状況に近づきつつあるようである。

黒人初のオバマ大統領は、たしかに人種的には黒人であるが、けっして黒人社会の出身ではない。本書では、オバマ大統領を「過去がない黒人」とか「グローバリズムとマルチカルチャーの象徴」とかいう言葉で表現している。オバマ大統領は、あの若さで大統領選を勝ち抜いたやり方を見れば、「天性の野心家」だとも言う。
そればかりでなく、投票日の直前に世界金融危機が勃発し、情勢が彼にとって有利に働くなど「強運」の人でもある。
だがしかし、越智は、オバマにとっての「強運」が、周囲にとっての「強運」と一致するとは限らないと、一抹の不安感をもっている。

2009年10月11日日曜日

2009年10月10日土曜日

吉見俊哉 ポスト戦後社会

シリーズ日本近現代史⑨

2009 岩波新書

1957年生まれ

「バブルとその後の長期不況、深まる政治不信、そして高まる社会不安。列島が酔いしれた高度成長の夢のあと、何が待ち受けていたのか。崩れゆく冷戦構造の中で、この国は次第に周回遅れのランナーとなっていったのではないか。60年代半ばから現在まで、政治・経済・社会・家族…すべてが変容し崩壊していく過程をたどる。」(背表紙より)

著者によれば、1970年代初頭までの戦後社会を動かしていた最大のモメントは経済成長であり、70年代以降の「ポスト戦後社会」を動かしたのは通貨の変動相場制への移行を契機としたグローバリゼイションである。急激な円高のため、輸出により発展してきた企業は軒並み苦境に陥り、打開策として海外直接投資への動きを強めていった。90年代以降、日本企業は雪崩をうって中国などの海外に生産拠点を移していく。
その結果、国内の産業空洞化が進み、多くの中小・零細の工場が存立基盤を失い、倒産や閉鎖に追い込まれている。
こうして今日、日本はグローバル資本の一部としての「JAPAN]と、崩壊する地場産業や農村のなかでもがく「国土」という二つの異質な存在に分裂しつつある。
著者は、90年代以降の日本は少なくとも四つの局面で従来の境界を越えて変容していると言う。
1.産業の主要な部分が海外に移転していった。
2.国内に残った産業部門では、大幅に外国人労働力が導入された。
3.海外旅行が盛んになり、海外で働く日本人が増えた。
4.アジアの国々で日本の大衆文化が熱心に消費されるようになった。
このような変化は、現在も進行中であり、このまま進めば「日本」という歴史的主体が、分裂・崩壊していく。「ポスト戦後」の時代は、著者によれば過去からの連続性としての『日本史』がもはや不可能になる時代である。

私は、このような時代を誰の目にもわかりやすく表わしているのは相撲の世界であろうと感じている。大相撲は連日熱のこもった取組で相撲ファンを沸かせているが、主な力士はモンゴルなどの外国人力士である。もし彼ら外国人力士がいなければ、相撲は、かなりつまらないものになってしまうだろう。同じように、日本の野球選手がアメリカで活躍しているのだから、グローバリゼイションの流れは、もはや後戻りできなくなりつつあるらしい。

2009年10月9日金曜日

保阪正康・半藤一利 「昭和」を点検する

2008 講談社現代新書

保阪正康 1939~
半藤一利 1930~

本書では、ありふれた五つのキーワードで「昭和」を点検する。
五つのキーワードとは、「世界の大勢」、「この際だから」、「ウチはウチ」、「それはおまえの仕事だろう」そして最後に「しかたがなかった」であり、いずれも受け身の言葉であるが、今でもよく使われていそうな言葉である。
半藤は、この五つのキーワードに関して対米英戦争に関する御前会議での永野軍令部総長の話をあげている。
「イ 重要軍事資材が日に日に涸渇し、このままで推移すれば、ある期日後に海軍は足腰立たぬ状況になる。
ロ 米英側の準備は非常な急速度で進歩しはじめ、日を経るに従って日本にはとるべき方策がなくなる。
ハ 対米戦は長期戦で日本に完全に不利である。
二 日本が緒戦で南方資源を獲得し得た場合、対米の長期戦に対応できる。しかし、その見通しは、残念ながら日本に終戦の主導権がなく、世界情勢(ドイツの勝利)によって決定される。
ホ このたびの作戦は、(1)緒戦で迅速な勝利をおさめること、(2)そのため開戦時期を選び、(3)先制奇襲を必要とする。

御前会議において永野総長は以上の五つのことを強調した後に、さらに質問に答えて『・・・海軍としては作戦持続の確算は二ヵ年しかいえない』と正直な目算をつけ加えた。そしてこういった。
『戦わざれば亡国、戦うもまた亡国かも知れぬ。前者は魂まで失った真の亡国、後者ならば・・・児孫は再起するだろう』
こうして対米英戦争の戦略の総大将である永野大将は、『海軍は対米戦争に反対である』と主張することもなく、むしろ『戦うならば早く決意を』といったのである。」(p223)
「・・・こうした永野総長の対米戦争宿命論の背景には、この暗雲に戦闘的であった中堅の圧力があったからといっていいい。思えば、国家最大の危機のとき、広い世界的視野もなく、あなた任せで、状況追随の、あまりといえばあまりな総大将を頭に戴いていたものよ、といまは歎くほかはない。」(p225)

当時の軍部は、国民に本当のことを知らせることなく対米英戦争やむなしとの世論を煽ったため、自ら引っ込みがつかなくなった。
そのため勝ち目のない戦争を「しかたなく」せざるをえなくなってしまった。
ペリー艦隊によって開国をせまられて以来、つねに世界に対して受け身であり、かつ少し遅れて動き出すのが日本の行動パターンであった。

2009年10月8日木曜日

鶴見

鶴見川橋



              

2009年10月7日水曜日

鈴木啓功 サラリーマン絶望の未来

この国の本当の構造とは?

2006.12 光文社ペーパーバックス

1956年生まれ

著者によれば、今の日本列島には二つの国家が存在する。それは、「役人国家」と「サラリーマン国家」である。今の日本列島は、「パラサイト」と化した役人たちが支配しているため、サラリーマンに未来はない。
本書では役人を中心とする「パラサイト軍団」には政治家、ヤクザ、財界人、金融業、土木・建築・不動産業、坊主、弁護士、医者、マスコミ、学者、評論家などが含まれる。したがって、著者によれば日本の8割がパラサイト軍団を形成している。
これではサラリーマン軍団に勝ち目はない。役人にならなかったのがまちがいだったのである。
このような意見は極端であるが、日本は程度の差はあっても役人中心の社会であった。
ところで、「戦艦大和」は、日本人にとって誇りであると同時に屈辱の象徴でもある。
世界一の戦艦を作ったことは日本人の誇りである、しかし、一度もまともな戦闘をすることもなく、単にアメリカ軍の標的になっただけで、3000人の乗組員と共に虚しく沈没してしまった。
無意味な戦いをいつまでも続けていくしかなかった日本の官僚システムは、そのまま生き残り、再び経済大国日本という「戦艦大和」をつくったが、時代おくれの巨大戦艦は、沈没するのを待つしかないという。

2009年10月6日火曜日

神仏習合の本 本地垂迹の謎と中世の秘教世界

2008 株式会社学習研究社

「たしかに日本人は、神社と寺院の違いによって神と仏を区別している。けれども、その区別が明確になるのは明治以降であった。明治政府による『神仏分離』『廃仏毀釈』という政策にもとづいて、神々と仏とは切り離され、峻別されていったのだ。それに対して、近代がはじまる以前の長い歴史のなかでは、多くの寺院と神社は共存し、神々は同時に仏・菩薩でもあった。『神仏習合』の時代である。
平安時代末期から中世にかけて、神々は仏・菩薩が人々を救うために仮に現世に姿を顕したものという考え方(本地垂迹説)が広がる。たとえばアマテラスは観音菩薩あるいは大日如来の垂迹であり、春日大明神は釈迦の化身であった。さらに寺院や神社の奥殿には、荼枳尼天、玉女神、蔵王権現、牛頭天王、魔多羅神、宇賀神、新羅明神といった謎めいたものたちが鎮座していた。」
(「失われたカミたちを求めて」より)

よく知られているように、江戸幕府は大名支配のために参勤交代という制度を用いるとともに、すべての人を「檀家制度」を通じて管理した。これによって日本人は、どこかの寺の信者として登録させられるようになり、寺が幕府の下請けの役所となった。
この結果、江戸時代を通して、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という言葉にあらわされるように寺や坊主嫌いの日本人が増えてしまった。
そのため、明治維新の時、「神仏分離令」が発せられると、各地で民衆の寺に対する反感が爆発して仏像が毀されたりした。
日本人は明治維新によって寺からの支配から解放されたが、400年前からの「檀家制度」は現在にいたるまで仏教寺院の主な収入源になっている。
いっぽうでは、失われたとはいえ長い伝統のある神仏習合の世界への関心も一部で高まっている。

2009年10月5日月曜日

京急鶴見市場

市場村一里塚(江戸より五里)


2009年10月3日土曜日

榊原英資 日本は没落する

2008 朝日新聞社

1942~
 
今、日本社会のさまざまな局面でその屋台骨が次第に、しかも加速度的に崩れている兆候が見られる。高齢化や財政の破綻という問題はすでに指摘されている。
問題は、そればかりではなく、日本経済の牽引役であった民間企業の競争力も弱くなっている。教育の質は劣化し、欧米だけでなく韓国、中国、インドにも後れをとっている。今後、10年から15年で日本全体が没落するという強い危機感を持ち、官民双方で抜本的改革を実行していかなければならない。

「『公』(パブリック)の崩壊」と題する章で著者は次のように書いている。

「省庁の大臣・副大臣は政治家で、官僚はその部下にあたる存在です。その政治家たちが官僚や省庁を公然と非難するというのは、会社でいえば社長と副社長が、『うちの社員はだめだ』『うちの会社はなっていない』と外に向かって発言するのと同じこと。
これでは組織が機能しなくなるのは当然です。」(p151)

「そもそも天下り批判は、官庁の高級官僚がその監督下にある公社公団に移籍していることに対して始まりました。それが今、必要な官民の交流まで妨げています。
事態がこのまま進めば優秀な人はみな官庁をやめてしまい、残るのは民間企業の実態も市場の現実も何もわからない、能力もやる気も公的な役割を担っているという意識も低い人たちの集団になるでしょう。
今や問題は、官が強すぎることではなく、官が弱く、そして『公を担う』という志もそのために必要な能力もなくなりかけているということです。」(p155)

この点、アメリカでは「リボルビング・ドア」と言われるくらい官民の人材交流がさかんである。財務長官であったヘンリー・ポールソンやロバート・ルービンがゴールドマン・サックスの最高経営責任者であったのはよく知られている。
著者が言うように一律に官民の人材交流を禁止するのは弊害が大きい。

官僚と一口に言っても、公務員は何百万人もおり、実態は様々である。
2007年の国会では、社会保険庁の年金記録の不備が大問題となり、社会保険庁の職員のモラルの低さが国会やマスコミによる攻撃の的となった。しかし、社会保険庁の職員すべてが特にモラルや能力が低いとは考えられない。これには、やはり、年金制度の複雑さや、官僚組織の制度的な側面という原因をよく考えなければならない。

言いかえれば、日本でいままでやってきたシステムがあちこちで疲弊しているのである。

2009年10月2日金曜日

野口悠紀雄 世界経済危機 日本の罪と罰

2008.12 ダイヤモンド社

1940~

「日本は、『アメリカ発金融危機』の被害者などではない。
危機は世界的なマクロ経済の歪みが生んだものであり、
日本はその中心に位置している。
成長率がマイナス数%になるような、
未曾有の大不況が日本を襲う。
本書は、それに対する警告である。」(背表紙より)

世界を揺るがせた金融危機の主犯が、アメリカであることは間違いない。 ただし、じつはアメリカだけでは今回の金融危機を引き起こすことはできなかった。アメリカに資金を供給しつづけた日本、中国、産油国という共犯者がいたのである。
日本の「罪」とは、低コストの資金を世界(とくにアメリカ)にばら撒いたことである。それでは、「罰」とは何か。異常な円安が正常な水準に戻りつつあることによって、すでに、日本の対外資産に巨額の為替差損が発生していることがある。 さらに加えて、著者は、これから日本を未曾有の大不況が襲うと言う。 輸出企業の大幅な利益減と減産とは、関連企業の倒産、失業の増大をもたらす。 金融機関は不良債権が増大し、株価下落によって自己資本が減少する。 こうして、金融経済と実体経済が相互に影響し合いながら、不況がますます深まっていく。

これから起こるであろうことを現時点で正確に見通すことは難しい。
ただ、日本経済がかってない重大な試練に直面していることは、疑いがない。
日本では、バブル崩壊後、「失われた10年」さらには「失われた20年」と言われるような経済の低迷が続いた。その言葉の裏には「これだけがまんしたのだからもうそろそろ良くなってもいいはずだ」という感情が含まれている。しかしながら、著者も言うように、さらに深刻な経済の停滞が追い打ちをかけてこないという保証はない。

このような時代にあっては、いままでのやり方は通用しない。
危機を積極的にチャンスととらえ、社会の仕組みを変えていくことができるかどうかに日本の今後が掛かっていると著者は言う。

2009年10月1日木曜日

京急日ノ出町

野毛坂


                               横浜成田山

2009年9月29日火曜日

橋本健二 居酒屋ほろ酔い考現学

2008 毎日新聞社

1959年生まれ 武蔵大学社会学部教授

「ある程度の時間、居酒屋で過ごしていると、いろいろと客たちの振る舞いが目に入ってくる。言葉も耳に入ってくる。それが時代によって、また店によって、大きく変わる。
だから四半世紀も居酒屋に通い続けていると、世の中の動きが見えてくる。居酒屋は、社会の鏡である。そう、居酒屋から日本が見えるのである。」(序より)

「いつの頃からであろうか。私は東京の居酒屋に異変を感じ始めていた。いまから考えるとそれは、日本が『格差社会』などと呼ばれるようになる数年前のことで、日本社会に起こりつつあった大きな変化の、前兆のようなものだったのだろう。」(p12)

「国内の製造業は衰退し、ブルーカラー労働者の職場の多くが失われた。増えるのは、低賃金の派遣労働者ばかりである。多くの自営業者が廃業し、わずかな年金で暮らしている。年金はどんどん目減りをし、外で飲む余裕のある人は少なくなっている。
その空白を、サラリーマンとOLが埋め始めたのである。」(p20)

かって「大衆酒場」という言葉があったが、今では、居酒屋で飲めるのは、比較的所得の高い人たちになってしまったらしい。かわりに増えてきたのが、格安で酒を飲ませる立ち飲み屋である。

「とりあえず、ビール」というのが、戦後長い間、酒宴の始まりを告げる合言葉であったが、ビールの消費量の低迷が止まらない。逆にシェアが増えているのがリキュール類と焼酎である。著者は、ビールは、経済的な格差がいまほど大きくはなく、日本人はみんな「中流」だとまでいわれた時代を象徴する酒だったと書いている。

「経済的な格差の拡大と貧困層の増加の中で、日本の居酒屋文化は崩壊の淵に立たされている。格差拡大を抑え、貧困層が生まれないようにするための対策とともに、居酒屋文化を守るための制度改革が必要だろう。多くの居酒屋経営者は、高齢化して後継者がいない状態にある。事態は急を要するのである。」(p256)

著者のいう「居酒屋文化を守るための制度改革」とは、たとえば、次のような税金に関わるものである。
酒税は従量税であるため、ビール大瓶にかけられている酒税は139円であるが、金持ちの飲む高級ワインでは60円である。庶民の飲むビールなどの税率を低く、高級ワインなどの税率を高くすることは検討されてもいい。
飲食店経営者には、酒類販売業免許が取得できないが、これを許可すれば居酒屋は卸売業者から直接安く仕入れることができるようになる。

京浜工業地帯と呼ばれていた東京から横浜にかけての地域だけ見ても、大きな工場は姿を消し、マンションが建つ住宅地に変わっている。
居酒屋というのは、一日の労働が終わった開放感から行くという意味では、半分は会社や工場の延長である。職場が無くなったり、働き方が変われば、大人数で行ってガヤガヤ騒ぐこともなくなる。たまに、飲みたい者同士、あるいは一人で行くよりないのである。

2009年9月28日月曜日

藤原直哉 アメリカ発 2009年 世界大恐慌

2008.11 あ・うん

1960年生まれ 経済アナリスト

「世界同時バブル崩壊!」「繰り返す世界同時株大暴落」などの著書がある。

2008年に発生したアメリカ発の金融恐慌は、2009年には世界大恐慌となって、世界経済は崩壊すると予想している。歴史の中で世界の覇権を握ってきた国はたくさんあるが、今では、どの国も小さな国になっている。かってどのような強国もかならず崩壊したようにアメリカも同様の運命にある。アメリカが世界を動かしてきた「金融」と「軍事力」という二本の腕が消滅しつつある。
著者によれば、もうすぐつぶれそうな国がアメリカ以外に二つある、イスラエル、中国である。イスラエルはイスラム勢力に包囲されており、絶えず紛争が絶えない。もし、戦争になれば、あっという間に陥落してしまう。
中国は、共産党が独裁している国であるが、チベットや新疆ウイグルでの紛争にみられるように、さまざまな民族や勢力が手綱を緩めるとどんどん活動しはじめる。「市場主義を取り入れた共産主義」で13億の国民をまとめていこうというのは無理な話だという。
日本にとっても、アメリカの崩壊は金融経済に直接の影響を与え、イスラエルの崩壊は、中東の石油利権や供給に影響し、中国の動乱は、経済的、政治的、軍事的に不安定要素となる。このため、日本でも大不況と大失業の時代が訪れる。

それでは、このような大崩壊の時代に、どうしたらサバイバルできるのだろうか。

「この夜道をどういくか、先が見えない世の中をどう切り開いていくか、行動をはじめるためには、まずカンで動きはじめます。そして、動いてみてやっぱり違っていた、予定とは違うな、と感じた、そういう時にすぐに反省することです。」(p166)

「今、激動期だからといって恐がっていては絶対にいけません。壊れる物はいつかは壊れるのですから、多少、壊れることも覚悟の上で動くことが重要な時期です。よく見て、打ってでるところを見極める、それが至上課題です。」(p170)

著者は、このサバイバル時代を生き抜くために歴史に手本を見いだせるという。
たとえば、明治維新の前後五年間、昭和20年の終戦から前後五年間、もっと遡ると戦国時代が参考になるという。
「今起こっているとてつもない激動は、まさに、日本を再生させるための豊かな能力を持った人材、新時代のリーダーとヨコ型ネットワークを育て構築するためのチャンスといえます。
この一年間の荒波をサバイバルした人材やネットワークこそが、新しい時代を担っていく『質』と『低エネルギー』を備え、二十一世紀の日本再生のビジョンを見出すことができるのです。」(p228)と、前向きなメッセージで締めくくっている。

2009年9月26日土曜日

京急南太田

清水ヶ丘公園