2010年8月12日木曜日

三輪修三 多摩川―境界の風景

昭和63 株式会社有隣堂

1939年生まれ

川には、様々なイメージがある。
仏教では、此の世とあの世の境にあるのが三途の川で、人が死んで7日目に渡るという。
「対岸の火事」と言えば、自分には関係がなく、まったく痛痒を感じないことである。
西洋でも、「ルビコン川を渡る」と言えば、もはや後戻りできなくなるような重大な決断をすることである。
多摩川の下流は、東京都と神奈川県の境であり、今でも川を渡ると、ある種の感慨がある。
もっとも、江戸時代より以前は、川の両側ともに、武蔵の国であった。川の流れも、その当時は、今よりひんばんに変わることがあり、村の間で、境界争いが絶えることがなかった。
江戸時代の始めには、東海道には六郷大橋が架けられていた。それが流されてから、再建されることはなく、かえって、江戸の防衛が意識されて、わざと架けられなかった。明治元年、明治天皇の東京行幸の時は、多数の船を並べて橋にした。

多摩川は、江戸や東京の飲料水を供給したばかりでなく、徹底的に利用されてきた。
多摩川上流の奥多摩は、江戸時代には、林業が盛んで、水運を利用して、江戸の町に木材が運ばれた。
昭和40年に砂利の採掘が全面的に禁止されるまで、多摩川の砂利は採掘され尽くされた。府中の多摩川競艇場や川崎の等々力緑地の池は、砂利穴を利用したものである。鉄道では、南武線や京王線なども、当初は、砂利を運ぶために建設されたものである。
多摩川上流域の水は、ダムに貯えられ、放水量は調整されている。さらに、羽村の取水堰で導水されているので、それより下流は支流である秋川の水であるとさえ言われている。
本書が出た当時は、生活排水や工場廃水が川に流れ込んで、水質はきわめて劣悪であった。
いまでは、かっての石がごろごろしていた河原の風景とは、かなり違うにしても、水質も改善され、だいぶ自然が戻ってきたようである。

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