2012年8月31日金曜日

志村嘉一郎 東電帝国その失敗の本質


2011 株式会社文芸春秋

東京電力の原子力発電所は、福島と新潟にある。
どちらも、東京電力の供給地域の外にある。
福島県に原子力発電所をつくったのは、福島県出身の木川田一隆である。
木川田社長は、オイルショックの前から、石油に頼ることの限界を予想し、原子力発電の必要性を考え、福島第一原子力発電所を稼働させた。
東京電力の資料によると、広大な用地を確保するため、当初から茨城県と福島県の沿岸が候補地になっていた。
そこへ、福島県から旧陸軍航空基地跡地周辺が東京電力に打診された。
福島県の太平洋沿岸は、これといった産業もなく、地域振興を目的に工場や原子力発電所の誘致を検討していた。そのため、話はトントン拍子に進んでいった。
つぎに原発ができたのが新潟県である。柏崎刈羽原発も、田中角栄の生家に近い海岸に位置している。
その後、日本列島改造ブームにも後押しされて、全国に原子力発電所が相次いで建設されていった。
当初、原発の危険性はあまり議論されておらず、むしろ過疎地域の振興策として積極的に受け入れられたようである。
それにしても、はじめから海岸近くに原発が建設されていたにもかかわらず、その後何十年にもわたって、大津波を想定する対策がとられていなかったとすれば、なぜかという疑問がわいてくる。
東京電力は、地域独占の大企業で、巨額の政治献金や広告費を使って政界やマスコミに影響力を及ぼしていた。
外からの批判のないなか、社内が慢心の体質になってしまったこともその理由のひとつであろう。

2012年8月30日木曜日

鳥越俊太郎 人間力の磨き方


2006 株式会社講談社

著者が新聞社の入社試験を受けたとき、2次試験はグループディスカッションと個人面接であった。あとでチェックしてみると、おしゃべりすぎる学生と、発言機会の少ない学生は落ちていた。
著者は、大学の授業とは関係のないクラブ活動で司会役を務めていたので、そのときの経験が役に立った。

「事件記者」は、新聞社の花形である。著者も、警察署回りをやらされたが、ただ待っているだけではネタは取れない。捜査員と仲良くなって、情報を貰わなければならない。
ところが、相手は、公務員で「守秘義務」があるので、めったなことでは何もしゃべってくれない。
早朝や夜に相手の家へ行って話を聞こうとしたり、待っているあいだに家族と世間話をしたり、あの手この手で相手に近づこうとする。捜査員と仲良くなることができれば、それとなく何か話してもらえるようになる。
ここで、大学で優秀な成績を取ったような真面目な記者には、「雑談」ができなくて困る人がいる。
天気の話、プロ野球やゴルフの話、相手の出身地の話、家族の話、趣味の話などあれこれ話すことができるのも、新聞記者としてのとりえの一つである。
このように、事件記者は捜査員との間で、「人間的信頼関係」を築こうと努力をかさねている。
これが、同じ「報道」でも、テレビのニュースキャスターになると、まるで勝手がちがい、「30秒のコメントに血を吐く」ような世界で、短い時間にいかにインパクトのある表現ができるかが勝負になる。

あらためて新聞を見直してみると、紙面でもっとも場所を占めているのは、広告である。その次に、テレビやラジオ番組、スポーツ欄や株式欄が紙面を埋めている。
目を引くような事件はあまりないので、見出しの活字をやたらに大きくして、紙面を埋めているようにも見えることもある。
残りの僅かなスペースに書かれている記事の字数は意外と少ないように感じられる。
そう頻繁に大きな事件や事故が起きるわけはないが、新聞に書かれないうちに何か重大な事態が進展していないとはかぎらない。
たとえば、学校でいじめがあって、生徒が自殺し、警察が捜査に入って、新聞が報道する。
新聞が最も恐れるのは、「誤報」である。「コンプライアンス」に敏感になって、たしかな「事実」しか書けない。
一連の出来事の最後のほうになって、やっと新聞記事が出てくるということもありそうである。

2012年8月18日土曜日

エネルギーを選ぶ時代は来るのか


NHKスペシャル「日本新生」取材班

2011 NHK出版

日本の電力供給システムは、「大規模集中型」と呼ばれ、地域独占の電力会社が、発電から送配電までをすべて行っている。
このシステムは、全国一律に安定的に大量の電力を供給し、戦後の高度成長を支えてきた。
原発が増設されるのにつれて、日本の総発電量は増え続け、日本人は電力を「湯水のように」使うことに慣らされてきた。
しかし、原発事故によってこのシステムは脆弱性を抱えていることが明らかになった。
原発事故以降、原発反対派と推進派とが対立している。
「反原発派」は、危険な原発に頼らなくても何とかやっていけると主張し、「原発推進派」は、自然エネルギーは不安定で発電コストも高く、大量の電気を供給することはできないと主張する。
じっさい、2009年の日本の総発電量のうち、原子力の占める割合は約30%、火力60%、水力7%、新エネルギー1%となっており、太陽光、風力などによる発電量の少なさがわかる。
太陽光発電や風力発電のコストが高いのにはつぎのような理由がある。
効率の高くない施設を作るだけでなく、遠隔地からの送電線を新たに敷設するコストが掛かる。
太陽光発電は夜間にはできず、風力発電は風向きや風の強さによって発電量が変わってしまう。
そのため、蓄電池に電力をため込んでから送電しなければならないので、蓄電池の設備にカネが掛かる。
発電した電力は、今のところ電力会社が買い取ることになっている。
電力会社が買い取ることが義務になっていると同時に、電力会社に売らなければならない。
東日本大震災による電力危機以降、従来の仕組みを変えて地域で電力の「地産地消」を目指す動きが被災地の自治体だけでなく、全国各地で起きている。

2012年8月8日水曜日

田原総一朗 ジャーナリズムの陥し穴


2011 株式会社筑摩書房

著者は、好奇心が強く、ひとつの分野を深く掘り進めて、その分野で大成するというタイプではない。無知呼ばわりされ馬鹿にされても、新しい穴を掘るのが好きである。つねに新しい穴、標的に挑戦してきたし、これからもそうしていくつもりである。

1934年生まれだから、戦争が終わったときは11歳であった。
この世代には、大人たちが一夜にして、「天皇陛下のために死ね」から「日本は侵略戦争を起こした」に早変わりするのを見て、大人にたいする不信感を持ったという人が多い。「大人や、偉い人の言うことは信用できない」というわけである。うがって考えれば、そうした大人の態度を、なるほどと真似たのが彼らである。
なまじ「信念」などは持たず、長いものには巻かれろと、その時の権力者に迎合するのがもっとも安全なやり方である。
戦争が終わって、軍部の検閲はなくなったかわりに、今度はGHQの検閲が行われたが、そんなことを気にする人もあまりいなかった。
ジャーナリズムが権力に弱いのは、今も変わらない。
情報の出所は、権力の側が握っており、権力者に嫌われては、情報が手にはいらないことも、その原因のひとつである。
ジャーナリズムが政治的圧力に屈したり、偏った報道を強いられたりするのもよくある話である。
自分を守るためには、強いものに従っておくのが賢明だからである。
とはいえ、権力の側も圧倒的に強いというわけでもなく、権力の中枢であるはずの総理大臣でさえ、ジャーナリズムにはげしく追求されると、簡単に辞めてしまうことがある。
検察の捜査によって社会的に葬られた大物も多い。たとえば、田中角栄、江副浩正などである。
その場合も、検察の裏に、「国家権力」というようなものや、「陰謀」といったものがあるかというと、どうも、そういうわけでもなさそうである。
「権力」や「政権」といっても、けっこう中身はないものらしい。
なんらかの原因で、その地位についた、けっして全能でない人間が「権力」を動かしているのである。
「権力」や「政権」の中身がないのであれば、マスコミも政府を叩いてばかりいればいいというわけにはいかない。マスコミが、対案を用意し、提案をすることも必要である。