2015年11月29日日曜日

2015年11月12日木曜日

谷本真由美 ノマドと社畜

2013 朝日出版社

会社は組織だから、イヤな上司もいれば、派閥やイジメもあり、無言の集団的圧力でサービス残業をしなければならないこともある。そこで、「こんな会社辞めてやる!」と言って会社を飛び出す人間も出てくる。彼らに言わせると、会社にいる人間は、会社に飼われている「家畜」と同じである。皮肉と軽蔑を込めた「社畜」という言葉が、その後会社にいる側でも、自虐まじりに使われるようになったようだ。
いっぽう、「ノマド」とは、もともと「遊牧民」という意味で、組織にしばられない自由な働きかたをしている人のことを言う。もっとも、外見がそう見えるだけであって、実際に「ノマド」的な生き方をするのは、そう簡単ではない。よほどの専門的スキルが無ければ無理である。そうした専門的スキルは、組織で身につけるか、特別の資格を取るかしなければならなず、初めから「ノマド」なんて、もともと無理な話なのである。
それでも、若い人の間では、「ノマド」が一種の流行になっている。「スタバでマックしてドヤ顔する」とは、スターバックスコーヒーでアップルコンピューターの薄型ノートパソコンを開いて仕事をしているふりをして得意そうな顔をするという意味である。こういう人たちを指して「意識高い系」とか「ドヤラー」というらしい。

2015年11月8日日曜日

高田里恵子 失われたものを数えて 

東大大学院のドイツ文学科に面接に行くと、あなたはいったいどうやって生活していくつもりかと質問されるらしい。
大学のドイツ語教員の募集は少ないし、ドイツ文学にたいする需要も限られている。
こうした状況は、今に始まったわけではなく、明治時代からのことであった。
そもそも、日本人がドイツ文学を研究するというのは、いかにも居心地のよくなさそうなことである。
なかなか学術論文など書けるものでもなさそうである。
翻訳の仕事はいくらでもあるのだろうが、完璧にできるものでもないし、ヨコのものをタテにするだけのようなむなしさを感じるかもしれない。
けっきょく、有り余る語学力を持て余して、ただひたすらドイツ語の原書を読むだけということになりがちである。夏目漱石の小説には、そうした人物が出てくるが、じっさいに漱石の周りには、そのような人物がいたらしい。漱石自身も大学での英文学研究にいきづまって、大学をやめて小説を書くようになったらしい。
文学部への進学は、就職先がないというリスクをともなう。そのため、裕福な家の子供か、さもなければ就職をしなくてもいい女性が進学することになる。家が裕福で、頭もよく、多少不良という人が文学部へすすみ、小説家になって女性にもてるというのが長い間続いたパターンであった。たとえば、太宰治は、女性にもてたが、心中の相手にされて若いうちに死んでしまった。渋澤龍彦は、胡散臭い西洋文化の紹介を女性雑誌に連載していた。また、戦時中は、ニーチェなどを読みふけっていた学生が本など捨ててしまい、特攻隊に志願したということもあったという。
今では、ドイツ文学やドイツ哲学が話題にのぼることもほとんどなくなっているが、それが青春であった時代も、たしかにあったのである。

2015年11月5日木曜日

国分寺

国分寺崖線下の湧水



都立武蔵国分寺公園