2012年7月30日月曜日

加藤英明 岡田克彦 人生に失敗する18の錯覚


2010 株式会社講談社


社会的地位のある人が、女性のスカートの中を盗撮して捕まるという事件が、たまに起きている。
どうして、立派で頭もよいはずの大人が、そのようなばかげた事件を起こしてしまうのだろうか。
経済学的な言い方をすれば、そのような行為をする人にとっては、そこから得られる「効用」はきわめて大きい。
おそらく、そういう行為をする人は、過去に何度も同様の行為をしていたが、発覚しなかっただけである。それによって、彼にとっては、発覚して捕まる確率は非常に低く見積もられるようになる。
そうして、「絶対に大丈夫」と「自信過剰」になって、ついには捕まってしまうのである。
おなじように、ギャンプルで破滅する人も、「過去の成功体験」から、自分には「ツキ」があると思い込んでしまい、「ツキ」さえ戻ってくれば、いくら大きな損でも取り戻すことができると思うのである。
人生においても、若いころのいくつかの成功体験から、自分の「得意分野」であると思ったり、「好きなこと」だと思ったりして、その道のプロを目指す人は多い。だだ、「好きなこと」をやれば、成功するというわけではないし、「好きなこと」をやることによって、それ以外の喜びや楽しみを犠牲にしているのかもしれない。
プロ・スポーツの選手にせよ、オリンピックの選手にせよ、「好きなこと」だけやり通すのには、よほどの覚悟と忍耐力が必要である。たぶん、彼らの人生のなかでは、失ったものもまた多かったはずである。
だから、「ほんとうに好きなこと」が見つからなかったからといって、かならずしも、がっかりすることはない。
「ほんとうに好きなこと」が、すぐに見つからないことは、人生をすごす上では、けっして悪いことではない。

2012年7月24日火曜日

郷原信郎 思考停止社会


2009 株式会社講談社

形式的な「法令遵守」と、上から命令していくだけの誤った「コンプライアンス」ばかり続けていくと、日本の社会は壊れてしまいかねない。
ほんとうのコンプライアンスとは、たんなる「法令遵守」だけではなく社会的要請に応えることをめざすべきである。
「法令遵守」が徹底された今の世の中では、何か問題が表面化すると、何が起こったのかとか、その背景・原因などより、法令に違反したかどうかだけが問題にされ、行為を行ったとされる者は、マスコミや世論から、問答無用の厳しい非難が浴びせられる。「法令遵守」は、黄門さまの印籠と同じように絶対的な権威となり、この印籠を向けられたものは、その場にひれ伏し悔い改めるよりほかはない。
何が問題なのかということを考えようともせず、「法令遵守」のみをかかげる日本の社会は、思考停止に陥っている。
物事が単純化され、本質が見失われ、一面的な評価しかされないことにより、日本の社会全体の「パワー」は確実に低下している。
「印籠」によって人々を思考停止に陥らせるのに大きな役割をはたしているのがマスメディアである。
マスメディア報道によって「法令違反」「偽装」「隠蔽」「改ざん」などのレッテルが貼られ、徹底的に叩かれると、当事者は一切の反論ができず、その場にひれ伏すような状態にされてしまう。
こうして犠牲になったものには、不二家、村上ファンド、社会保険庁などの名前が浮かんでくる。
これらの事件も、個別に検証すると、法令違反があったのかも被害者がいたのかも疑わしいものが多い。
度が過ぎたバッシングは、社会全体の活力を低下させ、日本の社会や経済に悪い影響を与えている。
日本の社会が、「遵守」による思考停止から脱却し、パワーを取り戻すためには、「印籠」を示されたものが、ただひれ伏すのではなく、「印籠」が何を意味しているのか、正面から向き合って問いなおす態度が必要である。

2012年7月22日日曜日

三上延 ビブリア古書堂の事件手帖


2011年 アスキメティアワークス


「ブック・オフ」で本を売るというのは、いらなくなった本を売るという意味では、せいせいするが、「売る」というにはほど遠い安値で本を手放すことになる。
最近では、図書館に、リサイクル棚が置いてあり、そこへいらなくなった本を置いておけば、誰かが引き取ってくれる。
私は、「ブック・オフ」の105円均一の本を何冊も買う人を見たことがある。そのときは、ずいぶん熱心な読書家だなと思ったものであったが、なかには自分で読むのではなく、どこか他のところで売るために本を買っている人もいるらしい。
「ブック・オフ」は、正確には「古本屋」ではない。
ほんとうの「古本屋」というのは、いまでは手には入らない珍しい本を集める収集家であり、読書家である。
そういうめったに手にはいらない本は、それが欲しい人にとってはいくらお金を払っても惜しくないほどの価値がある。
「ブック・オフ」では、そのようなめったにない本でも、古くてきたない本は値もつかない。
そこで、「ブック・オフ」で安く仕入れて、高く売ろうとする人があらわれる。
105円均一の本を何冊も買っていたのは、そのためだったのかもしれない。
いまでは、ネット上で、個人が古く珍しい本を売るのはかんたんである。
こういう商売を「せどり」という。「せどり」とは、本の背表紙だけを見て、棚から取ることだというが、たしかなことはわからない。
誰かが読んだ古い本には、新刊にはないそれぞれの物語があり、独特の雰囲気がある。
著者は、「古本」ないし「古書」の話をずっと書いてみたいと思っていたとのことである。
どうやらそのもくろみはうまくいったようだ。

2012年7月13日金曜日

津田倫男 大解剖 日本の銀行


2012 株式会社平凡社


「銀行」は、多くの個人や法人から「預金」というかたちでカネを集め、それをまた多くの個人や法人などに「融資」というかたちで貸す。そのあいだの金利の差が「利ざや」という銀行の儲けになる。
銀行預金は、預金保険機構により、元本1000万円と利息の合計額まで保証されている。
銀行業務の基本は、預金と貸出、決済であるが、いまの銀行は預金集めにそれほど熱心ではなくなった。超低金利のため、利ざやが極端に小さくなり、その上、預金保険機構に支払う保険料がバカにならないからである。
融資についても、景気低迷が続いているため、企業倒産や業績不振が相次ぎ、不良債権を増やすくらいなら貸さないほうがいいという態度になってしまっている。
融資をしない代わりに、資金を運用する先が、「日本国債」ということになる。
預金を国債で運用しても、たいした利益にはならない。そこで、銀行が頼りにするのは、手数料収入である。決済あるいは為替は、銀行の本業であり、ATM利用料、振込手数料、口座振替手数料などの手数料収入は大きい。
このほか、大手の銀行では、国際業務による収入が大きい。さらに、最近では、銀行で証券や保険も取り扱うようになっている。
こうしてみると、中小企業の成長を手助けするという本来の銀行の役割を果たしていないという批判にも一理ある。
日本では、地方銀行や信用金庫といった地域の金融機関の数が多すぎると以前から言われてきた。おそらく、こうした地域の金融機関は、地元の資産家層に支えられているのであろう。
そうでなければ、わざわざ専門でない銀行で証券や保険を買う理由はないはずである。
地元の産業が衰退するとか、国債価格が暴落するとかいうことでもないかぎり、地方銀行や信用金庫は数が多すぎると言われながらも生き残りそうである。

2012年7月10日火曜日

渋谷

渋谷ヒカリエ8Fより


宮益御嶽神社

2012年7月5日木曜日

佐高信 小沢一郎の功罪


2010 毎日新聞社


「タレント文化人筆刀両断」というタイトルで「タレント文化人」をこきおろしている。
大前研一にあこがれてマッキンゼーに入社した勝間和代は「おんな大前研一」であるという。
「マッキンゼー病」とは、根本的な構造や体質を変えようとはせず、一時しのぎの解決策めいたものでごまかすことである。
二人とも、大勢のファンに囲まれているが、大学を出て大企業に入るような一部の人たちである。
マッキンゼーがコンサルタントを引き受けるのも、大企業である。
そういう意味では、二人とも、おのずから限界があることは認めなければならない。
逆に、限られたフィールドのなかで特化したことで成功したということではないだろうか。

京セラの稲盛和夫は、京都府八幡市円福寺に「京セラ従業員の墓」を建てるなど、オウム真理教も顔負けのマインドコントロールを社員に強いるので、著者は京セラならぬ狂セラと呼んでいる。
たいていの企業では、社員を会社色の「カラー」に染めようとしている。
「名経営者」といわれる人ほど、「神がかり」になる傾向はあるのかもしれない。

「浅草のフランス座というストリップ劇場で漫才をやっていたたけしもずいぶんエラクなったものである。」とは、「ビートたけし」のことである。過去になにをやっていたかとかいうのはどうかと思うが、ビートたけしの毒舌ぶりも人気のヒミツであろう。
ビートたけしの「たけし菌」が増殖していて、東国原秀夫、橋本徹もその保菌者であるという。
そういえば、宮崎県では、口蹄疫の大流行で大騒ぎになっていたのが悪夢であったかのように忘れられ、東北地方の風評被害の影響で、宮崎や鹿児島県の農産物や畜産物の人気が高くなっているようだ。