2010年11月18日木曜日

瀬島龍三 日本の証言

2003 株式会社扶桑社

1911~2007

2002年に放送された「新・平成日本のよふけ」の内容を中心に構成したもの。
瀬島氏は、陸軍士官学校、陸軍大学を主席で卒業し、大本営参謀部員となり、その後関東軍参謀となる。敗戦後、ソ連の捕虜となり、シベリアに11年間抑留される。
帰国後、伊藤忠商事に入社、手腕を発揮して、伊藤忠を繊維商社から総合商社へと脱皮させた。
81年には、臨時行政調査会委員に就任した。

氏は、90歳でも、頭脳は明晰で、記憶もはっきりしている。
日米戦争のとき、参謀本部にいた氏の立場は一貫して明確で、あの戦争は、日本が特定の目的を持って米英に戦争をしかけたのではなく、在外資産凍結を受けたための「自存自衛の受動戦争」であったという。
日本は、経済封鎖を受けて石油が輸入できなくなった。
それによって陸海軍の戦闘力は失われ、工業生産も衰退して、日本の国力はどんどん落ちていき、一年後には戦争することなど不可能になっていただろう。
「窮鼠猫を噛む」という戦争だったから、はじめから勝てる見込みなどあるわけではなかった。
そのほかにも、氏は自身の戦争責任のようなことについては認めていない。
参謀だから、計画は作ったが、決めたのは上部だというわけである。

終戦のとき、全関東軍は、天皇の命令によって、一糸乱れず停戦した。
停戦交渉でのソ連との約束は守られず、スターリンの命令によって、60万人の兵士がシベリアに連れていかれた。
このとき、関東軍の了解があったのではないかと疑われたが、そうではなかったことは、後にソ連のペレストロイカによって証明された。
氏は、浄土真宗の信心の厚い家庭に育ったので、抑留中に自分の精神が不安定になって混乱しそうになると、念仏を三回唱えると、精神が安定したという。

昭和31年に、帰国して、翌年、伊藤忠に入社した。
昭和34年に正社員になってから、昭和38年には、常務になった。
昭和53年に会長になってから、その年には、日本商工会議所の特別顧問になった。
昭和55年、請われて、臨時行政調査会の委員になった。

氏は語らないが、商社や臨時行政調査会での活躍の裏には、陸軍士官学校や参謀本部での人とのつながりがあったのではないだろうか。

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