2009年11月29日日曜日

ロバート・J・バーバラ 資本主義のコスト

菊地正俊訳

2009.8 株式会社洋泉社


今回の世界的な経済危機は戦後最大の不況となりそうであるが、中程度の危機は10年に1回程度は起こっている。
過去25年間、自由市場資本主義には誤りがないことを前提にした政策がとられてきた。レーガン革命と旧ソ連邦の崩壊が、自由市場主義に対する信奉と称賛をもたらした。アダム・スミスの「見えざる手」は、市場の「誤りのない手」に対する熱狂にとって代わられた。
今回も、ヘッジファンドや投資銀行の行動を、政策担当者は黙認し続けた。
事実は、過去数世紀にわたって、景気拡大の後期に、疑わしい投資や向こう見ずな戦略が、世界的な景気後退の主因になってきたのである。
通常の状態では、計画経済と比べれば、資本主義の方が、資源配分について効率的であり、より優れている。
資本主義では、資産市場で儲けたいという人々の欲望が実際に資産価格の高騰につながり、バブルが形成されていく。
多数派の経済予想も、過去の事実を基に予想される傾向がある。
コンセンサス的な経済予想は、状況がさし迫った時になってやっと変わるので、ほどんど役に立たない。
景気拡大が進むと、人々は投機的になり、債務が過剰になり、最後はネズミ講的になる。
景気循環の最終局面では、実体経済での小さな失望が、金融市場での大混乱をまねき、バブルは崩壊する。
最後に政府の救済策が必要になるが、それが、この本のタイトルとなっている「資本主義のコスト」である。
今後、世界経済がどのような資本主義形態に向かうのかは、確かではないが、国家が経済活動で大きな役割を果たし続けることは間違いない。政府の役割を重要視した経済学者に、ハイマン・ミンスキー(1919~1996)がいる。
著者は、中央銀行は物価だけでなく、資産市場に注目して金融政策をするべきであると主張する。

2009年11月28日土曜日

指南役 空気のトリセツ

2008 株式会社ポプラ社

「KY―空気・読めない」、渋谷の女子高生の間で2006年頃からはやりだしたことになっている。
かって、評論家の山本七平は、著書「空気の研究」のなかで、戦艦大和の出撃を決定したのは、会議での「空気」であったと書いた。無謀だとわかっていながら、会議の「空気」が大和を出撃させた。空気の前では、人間の理性は無力である。
最近では、「郵政民営化」という国全体に吹き荒れた空気を見方につけて選挙に大勝した小泉元首相がいる。しかし、国民が選挙のたびに空気に踊らされるとすれば大変危険なことである。
時代の空気のような巨大な空気に逆らうことはできない。だが、時間が経てば消えるのが空気の弱点である。ちょっとした一言や出来事で、空気がガラッと変わることもある。
駅の東口と西口、北口と南口で、まるで空気が違うことがよくある。人は人が集まるところに吸い寄せられる。駅前の空気も歩行者の数や時間に左右される。
会社の上司と直属の部下のように直接の利害関係にある者同士は、時間が経てば経つほど、それを取り巻く空気は悪化する。
田舎では、外出先で知人に会いやすい。都会では街で知人に合わないので、都会の空気のほうが心地よい。
維新の元勲たちは、薩摩や長州という勝ち組の空気のなかにいたからこそ、歴史に名を残すことができた。幕末の世に、彼ら以上に才能のある人間は、いくらでもいた。だが、雄藩という勝ち組の空気に乗れなかったのである。
人が集まると、いたるところ、空気ができる。人は、知らず知らず空気に動かされている。

2009年11月27日金曜日

2009年11月26日木曜日

藤原智美 暴走老人!

2007 株式会社文芸春秋

1955年生まれ 1992年「運転士」で芥川賞受賞

高齢化社会では、経済の活力は失われていくが、成熟した高齢者中心の社会は、 時間はゆったりのんびりとながれ、穏やかでゆとりのある社会になる。こういった高齢者に対するイメージは、けっして経験によるものではなく、むしろ古くからの人生観などに基づくものである。
しかし、現実に進展しているのは「暴走する新老人」という言葉がふさわしい、今まで以上にストレスの多い高齢化社会である。
著者は、こうした社会の変化を、「時間」、「空間」、「感情」という三つのキーワードから描き出している。
まず「時間」では、役所や病院で、時間がいくらでもあるはずの老人が、待たされることにイライラして突然怒鳴りだすのをよく見かける。他人から見ると、いったい何であれほど怒っているのか理解できい。
私たちは、「待つこと」になぜイライラするのか、なぜ待ち時間はムダだと感じるのだろうか。
つぎに、「空間」では、かって高度成長期に郊外にマイホームを手に入れた世代も、いまや高齢者となり、郊外住宅地は一人暮らしの老人世帯が点在する空間となった。孤独とは、静かなばかりではなく、ときに孤独感にかられた反社会的な行為にもつながる。隣人同士の摩擦、全国化するゴミ屋敷問題などの背景には孤独感が漂っている。
「感情」というキーワードでは、社会にじわじわと浸透している「丁寧化」という現象をとりあげている。
もともと、サービス産業から始まった表情、言葉づかい、態度さらに内面的な感情にまで達する「丁寧化」が社会全体に行き渡ろうとしている。
病院や学校も、サービス産業化し、患者や生徒も、お客様扱いされるようになった。力のバランスが崩れたことによって、従来では信じられないようなトラブルや苦情が増えた。サービス産業では、サービスだけでなく、笑顔などに象徴される心の領域まで労働として提供させられる。それを社会学者のアーリー・ラッセル・ホックシールドは「管理される心」という本のなかで「感情労働」という言葉で表した。感情を労働として提供するとき、人は、自分の人格とは別のものとして扱おうとする。そのため、彼らが発する声は、個性のない裏声のような独特の音声になる。
あらゆる場所で、感情の切り売りがされているが、ほどんどは見せかけであり、見せかけであるからこそ継続することができる。
「ディズニーランドや航空機の機内という閉鎖された空間で始まった笑顔のサービスは、労働や消費という現場をこえて、生活の細部に入りこんでいる。病院や学校でも丁寧化と笑顔の表情管理が進んでいる。いまや感情労働は労働をこえて、ひとつの生活規範になりつつある。
そのとき、いつのまにか変化した社会に、戸惑いを覚えている人々がいるとすれば、それはかっての若者、現在の老人たちではないだろうか。」(p202)
「こうした感情労働的な丁寧化された秩序を読みとれないとき、その人間はたちまち排除すべき存在、トラブルメーカーとなる。そのトップランナーに新老人がいる。」(p208)
著者によれば、「丁寧化社会」の笑顔の背後には、かってなかったようなピリピリとした気分が覆い隠されているという。
いまや、政治家や経営者まで、「誠意が感じられない」とか「まるで、ひとごとみたいだ」とか言われて批難されているのを見ると、「人の内面にまで達する丁寧化」がジワジワと社会に浸透しているのかもしれない。
会社でも、黙々と仕事をこなしたり、じっくり考えるタイプより、「明るい」とか「テンションが高い」とか、「お笑いタレント」タイプのほうが好まれるらしい。
私は、この本を読んでから、たまたま工事現場で、下のような看板を見かけました。

2009年11月25日水曜日

野口悠紀雄 超「超」整理法

2008 株式会社講談社

1940年生まれ

著者は「『超』整理法」を1993年に刊行したが、いまや「新しい時代が到来した」と実感している。この間、ワープロの進歩、インターネットの利用などのIT化が進み、かっては不可能と思われていた「デジタル・オフィス」が可能になった。
著者が注目しているのは、グーグルが主導して進めている「クラウド・コンピューティング」である。「クラウド・コンピューティング」では、ユーザーの手許からアプリケーションソフトやデータがなくなってしまうという。
デジタルオフィスは簡単にできるようになったので、それを使うノウハウが「検索」である。組織や財力に頼らなくても、知りたいと望んで検索力を磨けば、個人でも、ぼう大な情報を手にすることができるようになった。
それでも、実際に知的作業を遂行するためには、自分の頭で考え抜くことが必要である。
知的作業を助けるため、具体的には1)とにかく始めること、2)歩くこと、3)寝ている間に考えが進むのを期待すること、ただし、歩いたり寝たりする前に、材料を仕込んでおくことといった昔から変わらぬ方法が効果的である。
年齢を感じさせない仕事ぶりの著者であるが、つねに新しい知識を増やし、考えることを続けているとのこと。
「脳に対する負担を軽くする」のではなく「脳を極限まで酷使すること」が仕事に関して「現役」であるためには必要だという。

2009年11月24日火曜日

総持寺

曹洞宗大本山総持寺(鶴見)


2009年11月23日月曜日

小峰隆夫他著 データで斬る世界不況

2009.4 日経BP社

著者は経済企画庁経済研究所長などを勤めたいわゆる官庁エコノミストである。
サブプライム危機後の世界的な経済不況の分析とその対応にどう取り組むかは、エコノミスト冥利に尽きるという。
いま、世界金融危機が世の中の経済についての考え方や枠組みを大きく変えていくという「パラダイム転換」とか「時代の転機」という壮大な議論が盛んである。しかし、著者は、パラダイム転換論には相当の誇張があると考えている。
まず、「市場原理主義」が今回の危機をもたらしたという説に対しては、著者はもともと存在しなかった主張を対象に批判を展開していると言い、市場が本来持っている利点を発揮できないような社会では国民の福祉水準は、かえって低下してしまうと言う。「金融資本主義の時代は終わった」とか「金融工学が諸悪の根源だ」という説に対しても、そもそも金融業はサービス業の一種であり、モノ作りと、とりわけ区別する必要はない、サービス業と製造業はどちらも必要な存在であると言う。金融工学もひとつの技術であり、使い方をコントロールすることが重要なのである。
今回の不況は、もともと世界経済の大きな落ち込みで始まった。したがって、世界経済の回復がなければ、日本経済も回復に向かうことは難しい。世界経済の落ち込みを日本の景気対策だけでカバーするのは不可能である。
著者は2009年2月に二つのモラトリアムを提案したことがある。すなわち、第一に政治抗争のモラトリアムであり、危機的な経済状況のなかで、与野党が足の引っ張り合いをしていたのでは国民が被害を受ける。超党派での経済対策の立案と実施が必要である。
第二に長期プランのモラトリアムであり、この際、財政の健全化、年金制度の立て直しなど長期的な課題は一時棚上げするべきである。 世界経済、アジア経済そして日本経済の当面の先行きは大変厳しいため、とりあえずは雇用の安定などで超党派的な政策が必要である。
かって経済官僚であった著者の視点は、穏健で良識的である。

2009年11月20日金曜日

榊原英資 強い円は日本の国益

2008.9 東洋経済新報社

1941年生まれ

「世界は今、大航海時代に匹敵する大転換の時代、パラダイムシフトの時代に入ってきています。1990年半ばから急速に進展したIT革命とそれを駆使するグローバリゼーションが、世界経済システムを一変させつつあるのです。」(まえがきより)

かっての大航海時代からの流れは、ヨーロッパの強国がアジアやアフリカを支配下において、安価で大量に資源を手に入れ、自分たちの工業化に利用していた。しかし今では中国やインドのような巨大な人口を持つ国が工業化をなしとげたため、それらの国のエネルギーや食糧などの需要はやはり巨大になった。かっては、安易に大量に市場で調達できた資源が、今や稀少になり、逆にかっては稀少だったハイテク製品が安くなっている。一種の価格革命が起こりつつあり、この流れは今後とも続いていくと思われる。
高騰し、稀少品化するエネルギーや食糧といった資源をいかに買うか、そうした資源開発にいかに投資するかが重要になっている今、強い通貨は重要な武器になる。円高になれば、製造業の輸出競争力を弱めるのはたしかであるが、原材料はほどんど海外から輸入しているので調達コストは低下する。本書では従来の「売るシステム」から「買うシステム」への移行の必要性を分析し、円高政策への転換の必要性を説いている。
著者は、現在(2008年)の為替レートは、円安バブルであると言う。
それは、2002年からの長期間にわたるゼロ金利政策によってつくられたもので経済力を反映した為替レートではない。長すぎたゼロ金利の維持が、日本からの資本の流出を加速し、円キャリートレードを生み、円安バブルを作り出していった。
いずれ円安バブルははじける。これからは円高を背景にして、日本の金融資産をどう有効に投資していくかを考える時期になる。
19世紀から20世紀は製造業の時代であり、20世紀後半はハイテク製品の時代であったが、21世紀は天然資源の時代になりそうである。

2009年11月18日水曜日

大原隧道

昭和3年に作られた横浜市の土木遺産です(南区)


2009年11月17日火曜日

久我勝利 分類する技術が仕事を変える!

2004 株式会社日本実業出版社

1955年生まれ

「分類するという行為は、人間が知的活動をするときに必要とされる、最も基本的な能力である。
どんな分野でも、プロフェッショナルとは、素人が見分けられないようなわずかな違いを見抜く能力を持っている者をさす。」(p16)
分類することは、考えることと同じである。私たちは、何かを考えるとき無意識のうちに分類しながら考えている。 だが、何かのプロを目指すなら、意識的に分類することが必要だ。
分類の最も顕著な効用のひとつは、複雑で乱雑な物事に秩序を与え、単純化することだ。 百貨店やスーパーで多種類の商品がなんの秩序もなく、ただ並んでいるだけだとしたら、どれだけ混乱をまねくことだろう。
分類法は、一通りではなく基準を見直すことによって新しい発見をもたらすことができる。
プロの営業マンは、人を見分け、人を分類する達人であり、自身も場合により服装、表情、言葉づかいを使い分けるのがうまい。
いくつもの仕事を抱えているとき、仕事を重要度、緊急度で分類することで頭が整理され、自分が最初にすべき仕事が見えてくる。
独自の分類が独創性を生むことがある。音楽業界では、新しい分類を生み出すことで市場が活性化される。
経験や知識を積み重ねることにより、分類作業を早く、適切に行うことができるようになり、判断力がきたえられる。
「分類法」のなかにもいろいろな分類がある。最初に似たもの同士を小さくまとめ、それをさらに合わせて大きな分類をつくる「上昇的 分類」と、最初に大きく分けてから細かく分類する「下降的分類」がある。また、「階層構造」を持つ分類様式と「多次元構造」を持つ分類様式にわけることもできる。
分類には最低限のルールがある。つまり、①必ずどこかに分類する②一つの分類項目だけに入れることである。
分類は、何かのための手段であって、目的ではない。分類の目的を忘れないためにも、必要以上に複雑化してはならない。
情報を収集して分類し、分類したものを並べ替えることによって新しいアイデアを導こうとする発想法がKJ法である。
分類できないものに出会ったときには、分類することがムダと考えるのではなく、 従来の分類法に当てはまらない新しいものが生まれているか、 あるいは分類の枠組みが間違っている可能性があると考えれば、何かのチャンスにつながるかもしれない。

2009年11月16日月曜日

本吉正雄 その「経済ニュース」には裏がある!

2008.4 株式会社青春出版社

1971年生まれ

著者は、日銀に勤めて広報などを担当していたことがある。
本書は、「元日銀マンが教える」というサブタイトルのようにニュースの「裏を読み取る楽しさ」を教えてくれる。
一般の人は、経済記事を読むときに、経済専門の新聞記者が書いていると思う。
そのため、大新聞の記事は、正しいものだと思い込みがちである。
ところが、著者によると、新聞記者は素人のサラリーマンで、配置転換によって移動している。新聞記者は、たとえば「日銀記者クラブ」や企業の広報からの情報に頼って記事を書いている。そのため、日銀や政府、大企業などがある種の情報操作を行って自分たちに都合のいい記事を流すこともできるのである。
それぞれの新聞社によって傾向があり、新聞記者も、なかなか思い切ったことは書けないらしい。始めのうちは、目立たない隅のほうの記事や、投書のような形で、新聞記者の本音が表れるのである。
しばしば、世間で騒がれるようになって、善悪がはっきりし、攻撃しても平気であることが分かってから悪事を追求することも多い。新聞記者も素人である場合が多いので自分で正しい判断をする自信がないのである。
そのことを、「時代劇でいえば、8時45分過ぎの水戸黄門です。印籠がでて、悪人が平伏してから、悪代官を縛り上げる役人と同じです。」とおもしろい表現を使っている。
また、新聞の一面で大々的に報道されるころには、すでに知れ渡っていることが多い。
最近では、新聞を無料のインターネット版の情報だけで済ます人も増えてきた。
しかし、ウェブ版では確実な事実しか載っていないことが多く、たしかに事実は重要ではあるが、記者の予想や見込みまでは載っていない。物事の真相、隠された事実、本質といったものを知るためには、有料の新聞も活用するのが賢明である。
それに、インターネットの情報は、あんがい情報量が限られているし、それほど早いわけでもない。
本当の情報を得ようと思ったならば、ただ待っているのではなく、自分から積極的に動いて手に入れることが必要である。たんに情報を受け取るだけでなく、裏から、横から、斜めから自分の目で見てみるのである。インターネットを活用して、いろいろな新聞社のサイト、情報の発信元、掲示板のうわさ話などを見ると本当の情報に触れることができる。

2009年11月13日金曜日

2009年11月10日火曜日

高橋昌一郎 科学哲学のすすめ

2002 丸善株式会社

1959年生まれ

「科学」について、わからないことを、あれこれ考えるのが「科学哲学」であるらしい。
現代では、「科学」というと、世間では絶対的な真実であるかのように思われているが、じつは科学それ自体の内容が昔から大きく変化し、進化している。
昔の科学者の考えることと今の科学者の考えることは違っている。
この点では、クーンという学者の「パラダイム論」は有名で、科学者集団の考えることは大きく変化しながら発展していくという。さらに、ファイヤーベントという哲学者は、あらゆる科学理論を相対的なものだと見なした。
科学理論は相対的なものだとしても、人類の歴史を通じて科学は累積的に発展してきた。アリストテレスは偉大な哲学者であることには変わりはないが、現代人は彼よりも多くのことを知っている。
一般に科学理論は、ソフトウエアが不具合を修正しながらバージョンアップしていくように更新されていく。このような特徴は、たとえば芸術のような他の人間の営みには、ほとんど見られない。
「哲学者カール・ポパーの『進化論的科学論』によれば、環境に適応できない生物が自然淘汰されるのと同じように、『古い』科学理論も観測や実験データによって排除されなければならない。この意味で、今日の科学における諸概念も、時間の経過ととも古くなってゆく。科学においては、常に、最新バージョンが求められているわけである。」(p12)
残念なことに、科学者は一般に「哲学的」議論を行わず、「科学哲学」への嫌悪感を表明している科学者もいる。たとえば、物理学者のファインマンは、「科学にとっての科学哲学者は、鳥にとっての鳥類学者と同じようなものだ」と皮肉っている。
自然科学の法則は、何らかの意味で帰納法を用いて発見されてきた。そして、自然科学は驚異的な成功を収めてきた。
しかし、哲学者は、それだからといって帰納法に論理的必然性はないなどと言うのである。

2009年11月9日月曜日

布施克彦 24時間戦いました

―団塊ビジネスマンの退職後設計

2004 株式会社筑摩書房

1947年生まれ

「こんなはずではなかったのだ。団塊の世代はどこかで読み違いをしてしまった。若い頃安月給で一生懸命働いたのに、24時間戦ったのに、税金もしっかり払って国民としての義務も果たしたのに、どうして今社会のお荷物呼ばわりされるようになってしまったのか。」(表紙より)

「わたしは一昨年(2002年)サラリーマンを辞めたが、同世代の友人のほどんどはいまだにサラリーマンをやっている。社長や役員になって、会社を引っ張っているのもいる。窓際で燻っているのもいる。転職先で要領よくやっているヤツ。転職先の社風に馴染めず苦労しているヤツ。何度も転職を繰り返しているヤツ。
誰もが必死に生きているのだが、総じて苦労している。前向きにギンギラギンで、時代の先頭を走っていると思えるような人はいない。
全体に暗ぁい感じが漂っている。わたしの周囲にいるのが、たまたまそういった連中ばかりなのか。それならまだいいのだが。どうもそうではなさそうだ。だから社会のお荷物と言われてしまう。」(p92)

著者は1970年に総合商社に入社後、のべ15年間の海外勤務を経験し、文字通り「24時間戦った」。
団塊の世代全体が暗い雰囲気に包まれているのは、ゆゆしき社会問題であると著者は言うが、集まっては将来の年金減額の話ばかりでは、それも道理である。
団塊の世代は、このままでは、社会のお荷物になってしまう。それでは、どうしたら良いのか。

「用意されたコースを一斉横並びで走ってきた団塊の世代は、サラリーマン生活の終盤を迎えた今、前の世代とは違った生き方を求められている。新しい生き方とは何か、正解はまだない。実践中のわたし自身、暗中模索状態から抜け出せていない。」(p202)

大きな目で見れば、経済の停滞と不振という暗雲が、団塊の世代を含めて国全体を覆っている。
「団塊の世代」は、もはやマイナスイメージの言葉になってしまった。
これからは「年齢に関係ない」という社会にすべきだと思うのだが。

2009年11月8日日曜日

東急多摩川

多摩川台公園
丸子橋

2009年11月7日土曜日

小林幹男 貸せない金融

個人を追い込む金融行政

2009.5 株式会社角川コミュニケーションズ


1961年生まれ

著者は、世界同時恐慌とは別に、日本国内発の不況要因があると言う。すなわち、たとえば消費者保護とか弱者救済が、何をおいても最優先という日本の社会を覆っている「空気」である。
その結果、規制が強化され、消費者金融、事業者金融、信販会社という日本経済のなかで一定の役割を果たしてきたノンバンクが 、いまや崩壊の危機にある。著者は、むやみに規制強化をすればいいというわけではなく、規制強化によって、産業が衰退すれば、経済を圧迫し、けっきょく消費者にとって不利益になると言う。
これらの規制が日本経済に与える影響については、たとえば次のようなものがある。
①改正貸金業法の成立により、消費者金融が衰退、倒産に追い込まれ、個人消費が減退する。
②おなじように、中小零細企業専門に貸出を行っているノンバンクが破たんに追い込まれている。
③割賦販売法の改正により、割賦販売をになっている信販会社の経営を圧迫することになる。
④耐震偽装事件によって建築基準法が改正されたことにより不動産不況を招いた。
経済危機とは、ただひとつだけの要素だけが原因ではなく、様々な要素が複雑に絡み合って起こるものである。
著者は、そのため、「きっかけ」になったものが、いつの間にか、うやむやになって問題の本質がみえなくなってしまうことがよくあると言う。
多重債務者問題、ヤミ金被害の増加、悪質な訪問販売業者の被害にあう一人暮らしの老人、姉歯耐震偽装事件などに関連して、規制や取り締まりが強化されれば、ひつつひとつは善意と正義に基づくものでも、一方では経済不況の原因にもなるのである。

2009年11月6日金曜日

堺屋太一編著 日本 米国 中国 団塊の世代

2009.3 株式会社出版文化社

1935年生まれ
 
著者は「団塊の世代」という言葉を作ったが、今ではすっかり定着している。
単に数が多いだけでなく独特の経験と集団性を持つ世代と認識したのである。
同時期に、世界の各国、特にアメリカや中国でも他とは異なる人生経験を持った世代ができていたという。
日本の団塊世代は、戦後の高度成長期に育ち、自分たちが豊かになり、豊かになり続ける夢を見ることができた。
この世代が、夢からさめ、未来に対する不安を感じだすのは、ごく最近、日本の国力と国際的地位に翳りが見えだしたころである。
それでも、過去の人生のほとんどを通じて、先輩たちの築いた体制と価値観とに安住することができた。
それに比べると、諸外国の同世代は、より劇的な人生を過ごした。
とりわけ、中国の戦後っ子は、彼らが少年から青年になる10年間、「文化大革命」という「空白」を過ごさねばならなかった。
日本の団塊の世代が物心ついた1950年代後半には、日本の戦後体制はすでに出来上がっていた。
それは、①日米同盟を基軸として、経済大国・軍事小国を目指すという外交コンセプト②官僚主導で規格大量生産型の近代工業社会を築くという経済コンセプトである。これを定めたのは、明治生れの世代である。
その後、日本はこの路線を走り続け、平和と繁栄を享受することができた。
しかし、1990年代初頭のバブル景気の崩壊以来、日本は経済の不振と社会の弛緩に苦しんでいる。
団塊の世代は、あたかも永遠であるかのように信じてきた戦後体制の崩壊に驚いた。そればかりではなく、 自分たちが60代を迎えた今、世界的な大不況が襲ってきた。
このような世の中を生き抜くためには、変化に対応する知恵と想定外の出来事に動じない覚悟が必要だ。
著者は以上のように述べたうえで、「団塊よ、諦めるな!君たちにはまだ未来がある」とエールを送るのである。

2009年11月5日木曜日

白川方明 現代の金融政策

理論と実際

2008.3 日本経済新聞社

1949年生まれ
 
本書は、言ってみれば、日本銀行を代表する見解である。
まず、日本銀行については、1998年に施行された日本銀行法第1条では、「日本銀行は、我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うことを目的とする」と規定したうえで、第2条では「日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする」と規定している。
日本銀行は独立して金融政策を決定するが、具体的には「金融政策決定会合」で意思決定が行われる。
「金融政策決定会合」のメンバーは総裁、2名の副総裁、6名の審議委員の合計9名である。
金融政策委員会では、金利や通貨量に関する具体的な運営方針を公表する。
例えば、「無担保コールレート(オーバーナイト物)を0.5%前後で推移するよう促す」などと公表している。
その判断の根拠になるのは、経済の現状判断と予測である。
日本銀行は、専門家としての高い能力にもとづいて、適切な金融政策を運用することが期待されている。
さらに、金融政策運営の独立性を与えられている条件として、意思決定の内容および過程を国民に明らかにしなければならない。
このように見ると、日本銀行は独立して金融政策を決定するとはいっても、選択の余地は、限られている。
したがって、日銀の役割は大きいのだが、景気の不振やバブルの発生をすべて日銀の失敗のみに結びつけるのは、わかりやすい一面で、かえって事実を誤らせる考え方だと言わねばならない。
本書からは、日銀の金融政策は、選択の余地が少ないなかでは、おおむね適切であったのではないかと思えてくる。
よく議論されている「インフレターゲット政策」については、そもそも「インフレ・ターゲット」という言葉の意味する内容が論者によって異なるとし、今のところ欧米の中央銀行でも、はっきりとこの政策を採用しているところはないと言っている。
バブル経済と金融政策については、著者はバブルの発生は完全には防止できないと言う。バブルであったかどうかは、後になってみなければわからないことが多いのである。

2009年11月4日水曜日

大森


     大森貝塚遺跡庭園とモース像




2009年11月3日火曜日

尾崎弘之 投資銀行は本当に死んだのか

米国型資本主義敗北の真相

2009.2 日本経済新聞出版社


著者は1984年野村証券入社後、モルガンスタンレー証券、ゴールドマン・サックス投信などに勤務した。
本書は「投資銀行は本当に死んだのか」と題するが、著者は、そうは考えておらず、従来とは異なった形で役割をになっていくと考えている。
むしろ、米国型資本主義の「真の問題点」は、投資銀行にあるのではなく、実体経済に潜んでいるというのが著者の考えである。
なぜなら、実体経済がなければ金融産業は成立しないからである。
では、実体経済の抱える問題とは何か。それは、企業経営者が「無理な成長」を、ひたすら追い求め続けなければならないことである。
企業経営者は、決算のたびに、来期の高い業績予想を提示しつづけなければならない。
高い成長が、高い株価を実現し、これによって経営者の能力が評価されるという仕組みがアメリカに広がっている。
このような構造的な原因があるので、ひとつの金融危機が去れば、また次のバブルと金融危機とが、やってくるのである。
著者は今回の危機も、「グリーンスパン」と「ウォール街の投資銀行」だけを犯人とするような偏った意見には疑問を感じている。

「あとがき」では、つぎのように述べている。
「1990年の日本のバブル崩壊と2008年金融危機の共通点は、①株式市場や不動産市場が崩壊しても、それが即、実体経済に悪影響を与えるわけではないこと、②人々がバブルの崩壊に気がつくのは、ピークからある程度時間が経ってからであること、③バブルは金融機関だけでなく、実体経済の心理状態によって作られることの三点である。
2009年初頭は、暗い経済見通しのオンパレードである。まるで、将来への明るい希望など無いようにさえ思える。
しかし、振り返ってみると、ブラックマンデー以降、大きな危機の到来の度に人々は同じような心理状態に陥った。しかし、危機が去ると、危機の存在すらも忘れ去られてしまう。これが危機の本質なのであろう。」

2009年11月2日月曜日

東谷暁 世界と日本経済30のデタラメ

2008.11 株式会社幻冬社

1953年生まれ
 
サブプライム問題とか金融危機とかが騒がれている時期には、多くの噂や風評が飛び乱れ、一般の人々の心理を掻き乱し、普段なら考えてもみないような妄説が社会に蔓延しがちであるという。
危機的な時期こそ、目の前の出来事にとらわれることなく、冷静に個々の事実を正確に把握しなければならないのだが、かえってそれができなくなる。さまざまな説を唱えている人たち自身が、自分たちの誤った説のとりこになってしまうことも多い。それどころか、その説が社会全体におよんでしまうと、その説が一人歩きすることになってしまう。
こうした現象は「自己実現的予言」と呼ばれていて、多くの社会現象に見られるという。
現代のような情報社会では、情報がまんべんなく行き渡ることによって間違いが矯正されるのではないかというと、その逆で、情報の過剰集中によって、かえって特定情報の自己増殖現象が起こりやすくなる。インターネットの検索で上位に並んでいるからといって、それが正しいという保証はない。

そういうわけで、現在世間に流布している経済情報についても、まず疑ってかかることから始めなくてはならない。
著者が言う「デタラメ」と著者の反論は、たとえば、次のようである。

「アメリカの金融資本主義は崩壊する」という説があるが、アメリカはこれまで何度も「崩壊した」と言われつづけてきた。2001年ITバブルが崩壊したときもアメリカ資本主義が終わったと言われていた。
「ムダな支出を減らせば増税は必要ない」という説にたいしては、日本は国債残高がきわめて大きいので、これ以上財政赤字が増えないようにするだけでも困難な状態であるという。
「公務員が多いせいで日本経済はだめになった」という説にたいしては、日本の公務員の数は国際比較すると、けっして多くないらしい。
「ドルはほどなく基軸通貨から転落する」という説があるが、著者は2050年ごろまではドルの基軸通貨からの転落は完了しないという。

「あとがき」では、著者は「日本の公務員は少なすぎるために不祥事が生まれている可能性すらあるのに、その解決策が公務員の削減にねじ曲げられてしまっている。しかし、公務員削減のやりすぎで公的サービスの低下が生じ、さらに不祥事が増えたら損をするのは私たち国民なのである。同じような『常識』が経済問題には実に多く存在するのだ。」と述べている。
こうなると、著者の言うことも疑ってかからねばならないことになるが、とかく社会や経済のことは、渦中にいるとなかなかわかりにくいものである。

2009年11月1日日曜日

川崎

川崎チネ・チッタ