2010年12月7日火曜日

半籐一利 昭和史 戦後編 1945-1989

2006 株式会社平凡社

1930年生まれ

1945年8月15日の天皇による放送によって、国民は日本が降伏したことを知らされた。
鈴木内閣は総辞職し、東久邇宮内閣があとを受けた。マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは、8月28日である。
その日、東久邇宮は記者会見して、有名な「一億総懺悔」という言葉を使った。
敗戦の原因は、政府だけでなく、国民の道義がすたれたのも原因のひとつであると言い、国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならないと言った。
そして、この言葉に皆がなんとなしに「そういうもんか」と、納得し責任を追求しなくなったようだという。
戦争中は、新聞やラジオはもちろん、町会、隣組といった身近な組織が、お互いに監視しあい、「国賊」だとか「非国民」だとか言いあって、自分たちの立場の強化につとめていたことも事実である。
戦争責任を追求する「東京裁判」は、アメリカをはじめとする連合国によって行われ、日本人自身による戦争責任の追及はなされなかった。
戦後の改革は、ほどんどすべて占領軍が日本政府に指令を出し、日本がこれらを唯々諾々と受け入れることによって行われた。
つまり、戦後日本の骨組みをつくったのは、マッカーサーと吉田茂であった。
このように、戦後の主な改革は、アメリカによって行われ、日本は、それに従っていただけで、政府の中身は変わらなかった。
鳩山一郎とか岸信介などの戦前からの政治家が活躍し、それだけみると、あたかも戦争などなかったかのようである。
重要な決定は外国頼みで、責任を取る人がいないというスタイルは、その後も続いているようである。

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