2013年9月26日木曜日

宮本常一 旅の手帖<村里の風物>

2010 (株)八坂書房

昔の人は、よく旅をした。
旅と言っても、今のような旅行ではない。
農家が農閑期によその土地へ行ってモノを売ったり、あるいは一所に留まることなく移動している人たちもいた。
こういう旅人たちのなかには、話のうまい人も多かった。
見知らぬ遠い土地の話を聞くのも人々の楽しみであった。
おもしろく、生き生きとした話を聞くと、すっかり信じ込んでしまうのであるが、じつは、そのほとんどは、作り話かウソであったらしい。
今でも、宮崎駿のアニメや水木しげるの漫画に出てくる妖怪は、元の話よりずっと生き生きとしているようなものであろう。
彼らの旅は、苦労にみちたもので、泊るところなどなく、祠や野原で寝ることもあったらしい。
野宿するとき、どういう姿勢で寝たのかということであるが、今のように手足を伸ばして寝るだけではなかったらしい。
多くは、座ったままで、膝をかかえ、うつむいて眠ったのであろう。
著者が、各地を歩いてみると、へき地で貧しい地方ほど、布団の大きさは小さかった。
おそらく、横になって寝るときでも、小さな布団に丸くなって寝たのではないだろうか。
著者は、過去の老人に腰の曲がった人が多かったのは、長い間の寝姿が、そのまま身についてしまったのも原因の一つではないかと思っている。

2013年9月9日月曜日

おちまさと 人間関係は浅くていい。

2012 株式会社扶桑社

人間関係は浅くていいと言われると、日ごろから人間関係に悩んでいる人にとっては、救われるような気になりそうである。
東日本大震災以来、何かというと「絆」とか「縁」とかいう言葉がもてはやされ、人間関係を大切にしなければならないという雰囲気がいきわたっているが、何か鬱陶しく感じることも事実である。
被災地の仮設住宅に住んで、感謝ばかりさせられていたのでは、たまったものではないだろう。
だが、この本で言っている人間関係は浅くていいという意味は、人間関係を気にしなくていいという意味ではなく、反対に人間関係には気をつかうべきだということらしい。
たとえば、何か面白そうなものを売っていそうな店に入った途端に店員が近よってきて付きまとわれたのでは、早々に出たくなってしまう。ここで、ある程度店内を見て何か聞きたいなと思った時に店員に声を掛けられれば、いろいろ聞いて、何か買おうかという気にもなる。
居酒屋やバーにはカウンターというものがあり、居酒屋の主人やバーテンダーとは、カウンター越しに接することになる。居酒屋の主人は、客同士の会話に入っていくことはないが、それでも聞いていないようで聞いていて、さりげなく会話に加わったり、客の注文を受けたりする。ここでは、カウンターという物理的な隔たりが、主人と客との関係を居心地よいものにしている。
店員や居酒屋の主人と客との関係も、人間関係の一種であるが、べったりと密着するのではなく、ある程度距離を置いて、客が必要とするときにさりげなく接してくるのが、うまくいくこつである。
人間関係は大事だと言っても、四六時中、接していたのでは、お互いにストレスがたまって疲れてしまう。
居酒屋の主人が客と接するときのように、必要なときだけさりげなく付き合ってくれるような人間関係は、深い人間関係ではなく、浅い人間関係である。
浅い人間関係だからといって、相手に気を使わないということではなく、じつは、いつも相手を気にかけていると言うこともできる。こういう人間関係は、べったりと付き合っているような人間関係よりも、居心地がいい。
マラソンというスポーツは、孤独なスポーツである。人生は、しばしば、マラソンに例えられることがあるが、人生というのも、ひとりひとりにとっては、孤独である。
それでも、逆説的であるが、マラソンランナーは、孤独でありながら、孤独ではない。みんなと同じ競技に参加しているという一体感があるからである。それと同じで、人生も孤独ではあるが、ほかの人も、皆同じように走っているという意味では、孤独ではない。
何事も見方を変えれば、孤独であったものが孤独でなくなり、何でもないことが幸福にもなる。