2011年5月30日月曜日

森見登美彦 宵山万華鏡

2009 株式会社集英社

1979年生まれ

京都の夏は、祇園祭の季節である。
そのなかで、山鉾という山車を目当てに、大勢の観光客が訪れる。
山鉾が市街を巡行する前夜の祭を宵山という。
本書は、著者の、一連の京都を舞台にした小説のうちのひとつである。
京都を舞台とした小説は多いが、じっさいに生活している(と思われる)著者の生活感が出ているようだ。
登場人物も、誰が何の役割なのかもはっきりしないし、何が言いたいのかも定かではなく、特に意味もない。
しかし、本を読んでいるうちは、著者独自の空想世界に遊ぶことができる。
現実逃避の妄想世界かもしれないが、独特の文体の文章を味わうのも楽しみである。

「奥州斎川孫太郎虫」という虫のネーミングは、たしかにインパクトがあり、じっさいに漢方薬(というより日本固有の民間薬)として売られていたらしい。
この虫が祇園祭宵山の隠れた風物詩となりつつあると書かれているが、本当だろうか。

本書を通じて、巨大な化け物のような金魚や、金魚すくいで売られているような可憐な金魚など、赤い金魚のイメージが繰り返し現れる。金魚は著者の育った奈良の特産で、夏の言葉でもある。

本書を読んで、今の若者は、あえて高のぞみなどせず、彼らなりに楽しんでいる人も多いのではと思う。
戦後世代は、土地や家、自動車を欲しがったが、これからは、そういうモノを欲しがる人も、減っていくことだろう。

2011年5月27日金曜日

荘司雅彦 最短で結果が出る超勉強法

2007 株式会社講談社

1958年生まれ

著者は、東京大学法学部を卒業後、日本長期信用銀行に入行、二十代後半に一度転職した後、司法試験の勉強を始め、独自の勉強法を考案して、当時としては最短で司法試験に合格した。
抜群の成果を上げてきた勉強法を公開したのが本書であるという。
今では、一生懸命勉強して、いわゆる一流大学を卒業すれば一生安泰という時代ではなくなっている。著者の知っている範囲でも、東大を出ているのに、かなり厳しい経済状況にいる人や、定職につけない人がかなりいる。
弁護士も、もはや肩書きだけで安泰というわけではなくなっている。
学歴や資格を持っているだけでは、極端な話、生きていくことさえ困難な時代になったと考えるべきである。
ただ、学歴や資格は、持っていないよりも、持っていたほうがマシである。
学歴や資格がないと、せっかくのチャンスを逃してしまうことも少なくない。
だから、人生の可能性を高めるためには、勉強に自己投資して、できることなら学歴や資格を持っていたほうがいいという。

著者の言い分が正しいとすると、今では東大を出ていても安心できないらしい。
日本の企業では、学校で何を勉強してきたかとは関係なく、企業では新卒者を独自に育成して、定年まで雇用してきた。
中途採用はしない村社会なので、定年前に辞めると裏切り者扱いにされる。
このような企業の雇用慣行を考えると、たとえ、東大を出ていても、転職は難しく、条件も不利になる。

ちかごろでは、新卒の就職も厳しくなっているらしい。
法学部のばあい、さらに、法科大学院へ進まなければ、司法試験に合格できず、それも、全員が合格できるわけではない。
法科大学院を出た学生を採用する企業は少ないから、学歴はあるのに就職できない若者をつくりだしているようなものである。
昔は、大学が主で大学院まで行く人はごくわずかだったが、今では、大学院がやたらと増えている。
大学院まで出て就職先が見つからないのが大きな社会問題になっている。

2011年5月25日水曜日

ハーブ・コーエン FBIアカデミーで教える心理交渉術

川勝久訳

2008 日本経済新聞出版社

交渉とは、何かをもらいたい相手から恩恵を施してもらえるように、知識を活用して努力することである。
社会は、巨大な交渉の場である。そこでは、優秀な人が報われるとはかぎらず、有能であるだけでなく、自分の欲しいものに向かって突き進んでいく「交渉能力」をかねそなえた人が勝利をおさめる。
人生を変えられるか否かは、自分の交渉能力しだいである。交渉能力とは、信じて疑わない相手をだましたり、おどしたりする能力のことではない。情報、時間、力を分析して相手の行動に影響を与える能力のことであり、相手側と自分側の双方の要求をかなえて、ことを思い通りに運ぶ能力のことである。

自分自身にかかわる交渉でも、あまり深刻に考えるのはよくない。自分のことを心配しすぎるので、プレッシャーと緊張感にあえぐことになる。他人のために交渉するときは、ずっと気が楽で、客観的になっている。たいして心配もしない。事態を遊びかゲームのようにとらえている。どんな状況にあっても、まるでゲームのように、幻覚の世界のように、努めて思うべきである。ベストを尽くすべきだが、思いつめてはならない。

多くの人にとって、この世は競争社会である。人生を絶え間のない勝負の連続だと思っている人もいる。このような競争型(ウィン・ルーズ)の交渉者は、この世を勝ち負けの連続とみなしている。
こういう関係がずっと続けば、交渉の結果は、後々の相互関係に後遺症を残すことになる。
これに対して、協調的なウィン・ウィン型の交渉では、相手を倒すのではなく、「問題を倒す」ことに焦点をあてる。関係者全員に満足のいく利益をもたらそうと努力することによって、交渉者がともに勝利する道をさがすのである。

交渉に入る時は、いつもソフトな物腰でなくてはならない。自分の立場を温和に述べ、頭をかき、自分がまちがっているかもしれないことを認め、嫌な相手にも、つねに如才なく敬意を払い、相手の身になって考えよう。
こうして、相手との信頼に根ざした関係を発展させながら、相手の真の要求を見出だし、それを満たす方法を考えると同時に、自分の欲しいものを手に入れるのである。

2011年5月24日火曜日

辛坊治郎 辛坊正記 日本経済の真実

2010 株式会社幻冬舎

辛坊治郎 1956年生まれ
辛坊正記 1949年生まれ

現在の日本経済の低迷ぶりを嘆き、戦後復興期の日本は、とても元気だったと、昔をふりかえる人は多い。
完成間近の東京タワーを背景に「三丁目の夕日」が日常で、誰もが明日は今日よりきっと豊かで幸せになれると信じていた。東京タワーは1958年に完成し、1960年には池田内閣が「国民所得倍増計画」を打ち上げ、洗濯機、冷蔵庫、テレビという「三種の神器」が家庭に普及し、1964年の東京オリンピックを控えて首都高速道路、東海道新幹線が開通した。
1968年には、日本はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国となり、1970年の大阪万博には大勢の入場者が列をなした。
「モーレツ社員」や「企業戦士」という言葉がはやり、「受験戦争」のなかで、日本の学生の学力は世界一だと自慢した。
「高度成長時代」には、国民は、自信と向上心にあふれていた。

しかし、同時に、この時代は、国鉄、電々公社など、民営化されておらず、仕事は不効率で、サービスも悪かった。
労働組合が強く、労働組合に支持されていた社会党は、社会主義を目指していた。
1960年の「安保闘争」から1970年頃まで、今では死語となってしまった「全学連」や「全共闘」の「学生運動」の嵐が、全国の大学を吹き荒れた。
大蔵省、通産省などの官僚の力は、今よりずっと強く、事実上、統制経済、計画経済であった。
日銀はもちろん、「日本興業銀行」などに入るのは超エリートであった。
このころの日本は、1ドル360円の固定為替レートで、日本人には、輸入品は高級な「舶来品」で、めったに買えず、ひたすら輸出に励んでいた。海外では、中国は、いまの北朝鮮のように、はるかに遠い国であったし、アラブ諸国も砂漠の遊牧民にすぎなかった。
このように、今になると、あの時代を美化しがちであるが、その当時の国民は、不満が多く、けっして満足していたわけではない。

その後、あまりにも多くのことが変わってしまったにもかかわらず、当時の気分や考え方は、いまだに残っている。
「経済の豊かさより心の豊かさのほうが大切」と言う人は、これからも日本を豊かな国でありつづけると思っている。
「外資に日本が乗っ取られる」と言う人は、外国人の日本たいする投資によって日本の雇用が生まれ、消費が増えることを理解しない。
とりわけ人数の多い「団塊の世代」は、若い頃、もてはやされた記憶が消えず、いまだに自分たちを、世の中の中心だと思っている。
「団塊の世代」が退場するころには、日本は、かなり違った国になっていることであろう。

2011年5月18日水曜日

雨宮処凛 右翼と左翼はどうちがう?

2007 株式会社河出書房新社

1975年生まれ

右翼は、日本の伝統を守り、国を愛する体育系、左翼は、反権力で、自由と平等を唱えるインテリといったイメージがある。
天皇にたいする意見では、右翼は天皇を中心とした日本を愛し、左翼は、天皇制に反対する。
憲法については、右翼は憲法を改正して軍隊を持とうとし、左翼は憲法を護り反戦平和をスローガンとする。
左翼は、共産主義や社会主義をめざし、右翼は、徹底的に反共である。
右翼は、靖国神社に参拝に行き、左翼は、靖国神社を「戦争に行かせる装置」として反対する。
前回の戦争については、右翼は被害者的、左翼は加害者的な見方をしている。

左翼の運動は、明治時代に、日本が近代的な資本主義国家になり、資本家と労働者の区別ができたころに始まる。左翼には、社会主義者、共産主義者、無政府主義者がいるが、いずれも政府によって厳しく弾圧された。それに対して、右翼は、現状には反対だが、徹底的に反共という特徴がある。
戦後、左翼にとって華々しい時代がやってきたように見えた。労働組合がつくられ、共産党が解放され、中国では共産党による革命が成功した。しかし、共産党や社会党は、選挙では多数を獲得することはできなかった。
これにたいして、選挙ではなく、直接行動に訴えようとする新左翼が現れた。
新左翼は、60年の日米安保条約改定に反対し、激しい闘いを繰り広げた。
その後、70年安保を前に、ベトナム戦争反対、成田空港反対など、闘いを激化させていった。その頂点は、1968年の国際反戦デーで、この日、いたるところで学生と機動隊が乱闘を繰り返し、さながら市街戦のようであった。
全国の大学では、全共闘がバリケードを築いて無期限ストを行い、東大安田講堂を占拠して機動隊と攻防戦を繰り広げた。
最後に、過激な「赤軍」が登場し、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件を引き起こした。
世間から見放された左翼運動は、一気に下火になり、いろいろな左翼組織内部で「内ゲバ」が繰り返された。

1990年代にはいり、ソ連が崩壊して、社会主義圏の国が消え去ると、左翼は急激に勢いを無くしていった。
左翼の勢いが弱くなると、敵をなくした右翼の存在も、それほど目立たなくなり、国全体が、それまで右翼が主張していたような方向に動きつつある。

今の若者は、「高学歴ワーキングプア」と言われているように、一生懸命勉強して高い学歴を身につけても、社会では、かならずしも報われない。
従来の左翼や右翼は、そのような問題に対する答えを持っていない。
かって右翼に属していた著者は、右翼とか左翼とかと分類されたくないと考えている。右翼とか左翼とかいうレッテルがついた時点で、自分の考えかたがしばられてしまう気がするからである。

2011年5月14日土曜日

安田佳生 採用の超プロが教えるできる人できない人

2003 株式会社サンマーク出版

1965年生まれ

発明王エジソンの言葉に、「1パーセントの才能と、99パーセントの努力」というものがある。
この言葉を、大部分の人は、「エジソンでさえも、99パーセントは努力によって成り立っていた。大事なのは努力だ」と考える。エジソンもそう言いたかったのかもしれない。しかし、人材採用コンサルタントの著者としては、どうしても「1パーセントの才能」のほうに目が向いてしまう。と言うのは、どれほど努力しても、才能がなくて開花しなかった人が大部分だからである。つまり、成功するには「人一倍の努力」と「少しの才能」の両方が必要不可欠なのである。
才能がなくては、努力も無駄になるだけで、せめて、1パーセントぐらいの才能がなければ発明はできない。残念なことに、現実には、この両方を兼ね備えている人材は、数百人に一人ぐらいである。
だから、企業がほんとうに優秀な人材を採用するのは非常に難しい。採用しても、育てるのはさらに難しい。

そこへいくと、大企業では、一度に数百人も採用して競争させるので、さぞかし優秀な人材が残りそうなものである。

いっぽう、本書では、ダーウィンの話も紹介されている。生き残るのは「強い種」ではない。「優秀な種」でもない。「変化した種」だけが生き残ったのである。
それでは、企業で生き残ったのは、なによりも変わり身が早く、適応力があった人で、かならずしも才能があって優秀な人ではなかったのだろうか。

いまや、日本人のレベルは、世界をリードできるほど優秀ではなく、世界には日本より勤勉で優秀な人材はたくさんいる。
かっての「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた日本はどこへいってしまったのか。
人材の育成に問題があったことも、ひとつの要因ではないだろうか。

2011年5月10日火曜日

田中均 プロフェッショナルの交渉力

2009 株式会社講談社

1947年生まれ

著者は、外交官として、アメリカや北朝鮮を相手に厳しい交渉にあたってきた。
交渉力とは、たんなる交渉術ではなく、交渉によって、自分にも相手にも、利益を生み出すには、どうしたらいいかという基本が必要である。双方にとって利益にならないのであれば、交渉は成立しない。
日本とアメリカとの交渉、日本と北朝鮮との交渉においても同じであり、相手が何を求めているのか知らなければならない。
一方的に沖縄の基地を返せと要求したり、拉致被害者を返せと要求しても交渉は進展しない。
個別の問題は、おおきな枠組みに乗せることによって、同時に解決することができる。

交渉には、裏付けとなる権力を必要とする、決定権を持っている人物が関わらなければ、交渉はまとまらない。
国の場合は、総理大臣が最終的な権力を持っているので、最後には、総理大臣の決断が交渉がうまくいくかどうかを決める。
そのため、黒子である外交官という官僚は、確信ができあがるまで十分に関係者に報告し、説明しなければならない。

著者は、日本が普通の国になるためには、将来、憲法を改正して、軍備をもつことをはっきりと明示すべきであると考えている。外交という場において、過去に、湾岸戦争で多額の資金を出させられたあげく、ろくに評価されなかったという、にがい経験をもっているからである。憲法を改正したからといって、日本が戦争に巻き込まれるというわけではなく、普通の国はどこでも、軍隊を持つことを認めていると著者は言う。日本は、憲法を改正しないまま、憲法解釈によって、軍備を拡大し、自衛隊を事実上の軍隊にしてきた。しかし、外交交渉という場においては、自衛隊を正々堂々と軍隊として認めなければならないということなのであろう。

北朝鮮との交渉では、小泉首相の訪朝によって拉致被害者のうち、何人かは帰国することができた。
しかし、著者は、評価されたのではなく、逆に、各方面から熾烈なバッシングを受けた。
北朝鮮と合意した日朝平壌宣言に北朝鮮に迎合する部分があったとか、ウソの死亡情報が発表されたためであろう。
それでも、著者は、職業的満足感を感じているという。

2011年5月6日金曜日

中村隆英 昭和経済史

1986 株式会社岩波書店

1925年生まれ

東京電力は、戦時中の国家統制時代を経由して、戦後できた会社である。
東日本大震災による原子力発電所の事故により、東京電力には、巨額の賠償責任が生じている。
巨額の賠償を、一民間企業だけでまかなえるのか、また、国の政策として原子力発電が推進され、許可されたのだから、企業の経営責任だけの問題ではないのではないか。

今の電力会社は、戦時中に国家総動員法により、電力が国家によって管理されるようになったことに始まる。
戦前には、多くの電力会社があって競争していたが、国全体として電力業が統制となり、各電力会社の持っている発電設備、発電所と長距離送電線を、日本発送電という一社が経営して、電力会社はそれを地方で配電するだけとなった。
さらに、昭和16年になると、個々の電力会社は全部解散させられ、地域別の配電会社がつくられた。

戦後、日本発送電は解散し、当時の配電会社が、地域別の電力会社となり、発電、送電設備まで持って、現在のような東京電力や関西電力などの九電力会社になった。

このように、今の電力会社は戦争当時の政策によってできたもので、民間企業ではあるが、独占企業で、役所との結びつきが強く、役人の天下り先になっていた。

原子力発電所の事故が起きるまえは、東京電力は、巨額の広告費を使って、原子力発電は環境にやさしいクリーンエネルギーであることをアピールし、「オール電化」は庶民のあこがれで、東京電力のイメージは非常に良いものであった。

しかし、これからもこのままで、続けていかなければならないというわけではない。
太陽光発電、バイオマス発電といった小規模な発電を自由化すれば、地方での投資も生れ、電力の供給が増えることが見込まれる。
原子力発電所の事故による賠償負担のために、同じ電気なのに、東京電力だけ値上げになったり、計画停電になったりというのも、利用者にとっては、納得できにくい。送電は全国を統一したほうがいいという意見もある。