2010年12月26日日曜日

吉村昭 史実を歩く

平成10年 株式会社文芸春秋

昭和2年生まれ

生麦事件の調査

1862年、島津久光の行列が東海道生麦村にさしかかったとき、イギリス人4人が馬に乗って行列のまえに立ちはだかったため、従士が怒り、殺傷したのが生麦事件である。著者は、歴史小説を書くため取材をして、いくつかの事実を知ることができた。
イギリス人は、横浜村在住の商人マーシャル、クラーク、リチャードソンと女性のマーガレットで、川崎大師を見物しようとしていた。
4人は、日本の風俗習慣に通じておらず、大名行列に敬意を払わねばならないことを知らなかった。日本人の外国人にたいする敵意についても十分に理解していなかった。
行列は、4百人あまりの従士によって組まれ、先導組、久光の乗り物を警護する本隊、後続組が一定の間隔を置いて進んでいた。
一行が出会った生麦村は、江戸湾の魚介類が豊富に揚げられる土地で、商店や茶屋、質屋、医者の家などが街道の両側に建ち並んでいた。
マーシャルたちは、先導組の険しい視線をやりすごすことはできたが、つづいてやって来た本隊は、左右に大きくひろがった規模の大きな集団であった。
マーシャルたちは道の左側に馬を寄せて通り過ぎようとしたが、興奮した馬が行列の中に踏み込んでしまった。
激昂した藩士たちは抜刀し、警護を指揮していた奈良原喜左衛門が、リチャードソンに走りより、左脇腹を斬り上げ、さらに左肩から切り下げた。マーシャル、クラークも他の藩士たちに斬られ、二人は無傷のマーガレットとともに馬で逃げた。
4人が斬られたのは、地元の郷土史家の資料によると、質屋兼豆腐商を営んでいた勘左衛門の家の前であった。
著者は、さらに事件後に生じたすさまじい余波について書きすすめたとき、殺傷についてのある疑念が浮かんできた。
奈良原は、リチャードソンの左脇腹を深く斬り上げ、返す刀で肩から斬り下げているという。
当時のイギリス人記者が書いた記事によると、リチャードソンの乗っていた馬は、アラブ系の馬である。
大型の馬に乗ってたリチャードソンの体は、奈良原よりかなり高い位置にあり、はたして肩から斬り下げることができたのであろうか。
そこで、薩摩の剣術について取材したところ、奈良原の剣は、野太刀自顕流という流派で、長大な大太刀を使うものであった。
著者は、鹿児島に行き、実物の太刀と「抜」という自顕流の技を目にして、はじめて実感することができた。
この事件ののち、イギリスと薩摩の間で、薩英戦争がくりひろげられ、両者が互いの実力を認めあって親交をむすぶようになった。
イギリスから最新の兵器を手に入れた薩摩は、戊辰戦争で旧式の武器しか持たない旧幕府側の大兵力を蹴ちらした。
もし、この事件がなければ、日本の近代史も、また違ったものになっていたことであろう。

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