2010年3月30日火曜日

鴻上尚史 「空気」と「世間」

2009 株式会社講談社

1958年生まれ

「空気」を読もうとして、慎重になり、焦ったり、怯えたりしている人は多いらしい。
「空気」とは何かを知らないで、ただ「読み方」だけを習得しようとしても意味はない。
著者は、「空気」とは「世間」が流動化したものだと考えている。

「世間」のことを研究した学者に、歴史学者の阿部謹也がいる。例えば「世間」とは、「自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人々の全体の総称」である。「世間」は、政党の派閥、大学の同窓会、趣味の会、会社内部の人脈、近所づきあいなど極めて多様な範囲にわたっている。基本的には同質な人間からなり、外国人を含まず、排他的で差別的な性格を持っている。

日本では、かって、村落共同体という「世間」が、根強く残っていた。
「世間」は、そのまま会社という共同体に引き継がれ、村落共同体から会社に移行するとき、同じルールが、そのまま移しかえられた。「終身雇用」と「年功序列」は、「世間」の特徴を会社用語で言い換えたものである。

20世紀の後半、村落共同体は都市化の進展で崩壊し、日本的経営は経済のグローバル化によって維持できなくなっていく。

ここ数年、個人を束縛するとともに支えていた「世間」が急速に壊れている。
そのため、日本人は、より不安定になり、自分を支えてくれる「何か」を求めている。
このところ、「空気」という言葉が乱発されるのは、壊れてしまった「世間」に代わって、人々が、不安になった自分を支えてくれるものを「空気」に求めるようになったためである。「世間」という強固な共同体はもはやなく、あるのは「空気」という「共同体の匂い」である。

かっての「世間」は壊れたが、今また、別の形で、復活しつつある。
「世間」の復活を後押ししているのは、マスコミとインターネットである。学校裏サイトに書き込まれた悪口は、エスカレートして、ときには、中学生の自殺という悲劇を呼ぶことがある。そのいっぽうでは、秋葉原の連続殺人事件の犯人は、いくら掲示板に書き込んでも、なんの反応もないのを恨んで凶行に走った。

「空気」という「共同体の匂い」に敏感になることは、つねに多数派を意識しなければならないので、一瞬たりとも安心できない。それでは、「空気」とか「世間」に振り回されないためには、どうしたらいいだろうか。
著者が勧めているのは、つぎのように考えることである。
ネット上の「世間」も、いじめられ役が順ぐりに変わるテレビ番組のようなもので、さほど強力ではないことを知ること。
また、一つの「共同体」だけを頼りにして、支えを求めようとするのではなく、複数の「共同体」とゆるやかな関係を作りながら、自分自身も、その「共同体」の人たちを支えるという気持ちを持つことである。

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