2009年6月26日金曜日

世阿弥 風姿花伝

1958 野上豊一郎 西尾実 校訂 岩波文庫

花伝書ともいう。子や孫に自分が受け継いだ能の真髄について伝える書である。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という言葉は有名である。私は、能を鑑賞する機会がないので、芸能としての能についてあれこれ言うことはできない。それでも、窮屈な装束にしばられ、能面に視界を制限されるという不自由さのなかで人を感動させるのは並大抵のことではなかろうと想像する。

「第一 年来稽古条々」の部分は、今では、人生論としての読み方がされている。そのうち、五十有余の年齢について、世阿弥は、麒麟も老いては駄馬にも劣るという諺があるという。まったく手厳しい言い方である。だがその後で、「誠に得たらん能者ならば・・・花は残るべし」という。そして亡父(観阿弥)についてふれ、52歳の5月19日に死去したが、その月の4日に演じた能はまことに花やかで一同賛美したという。「これ、目のあたり、老骨に残りし花の証拠なり」と書いている。当時は、今とはちがい50歳は老年であった。

老人と花とはイメージに結びつくものがあるようだ。子供の頃、読み聞かされた童話の「はなさかじじいい」の記憶があるからだろうか。老人は枯れ木に花を咲かせる不思議な力を持っていると昔から人は考えたのであろうか。枯れ木に灰をまいて満開の花を咲かせるとは、さぞや豪快なながめであろう。

外から見ると枯れ木に花が咲いたように見える。しかし、実は枯れていなかったのである。外見は老いているが、本人は少しも自分を老人とは思っていない。私も今の歳になると、そのような気持ちも以前より解る気がする。誰でも、たとえ地味な花ではあっても、もうひと花咲かせてやりたいと思っているものだ。
ただし、本書でも「花と申すも、去年咲きし種なり」と書いてある。また、「年寄りの冷水」という諺もある。無理はできない。

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