2009年6月9日火曜日

高橋源一郎 もっとも危険な読書

2001 朝日新聞社

p391より

”だが、観客Bはこういう。「私はコンピューター・ディスプレイで読む本を、今はまだ本と感じていない。しかし、すでに私は映画館という出口で見る映画(フィルム)のほかに、自宅のテレビというもう一つの出口で見る映画(ビデオやDVD)をも映画と感じるようになっている。映画には二つの出口が存在するという現実を承認している。・・・・わたしもまた、インターネットにアクセスし、その茫洋とした海の中を彷徨う。そこでは書くことと読むことの垣根がついに消失しようとしている。そして、それがどこにたどり着くのか誰も知らないのである。”

p399 より

”そこにあるのはただの一冊の本、あるいはノート。手を伸ばし、頁を開き、視線を走らせる。読書はただそれだけの単純な行為にすぎない。けれども、その小さな紙の塊が異様なものに見える時が、近づくと火傷をするような、こちらの何もかもが危険に晒されるような気がする時がある。手招きされた店の裏側にひっそりと隠されていた発禁本、あらゆるタブーに挑戦しているため決して表面に浮かび上がってくることのない小さなカルト雑誌、ほんとうは読むべきではないのにどうしても頁をめくる欲望を抑えられない最も近い人間の日記・・・・・。 スリル、緊張、集中、ほとんど恐怖に近い感情の揺れ。やがて私たちの前で世界が一変する。静かで単調な表面の裏に、そんな何かを隠した本を読んでみたい。 私たちに必要なのは危険な読書だ。いや、あらゆる読書は危険でなければならないのである。”

この本には実にたくさんの種類の本があるのだということ、私がまだ読んでいないジャンルの本も限りなくあるということ、そして、著者の驚くべき多読と博識とが伝わってくる。いやー、 実にいろいろな本があるものですね。
ところで、私にはもうそんなにたくさんの本を読む時間も余裕もなさそうな気がする。この本一冊ですら全部は読めなかったくらいだから。でも、それでかまわない。本は全部読む必要はない。たった一行でも自分に伝わってくる何かがあればいい。読者は、ぼう大な量の石の山から、それぞれ自分の好みの石を選ぶのである。

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