2009年8月31日月曜日

小林秀雄 徒然草

真贋
2000 株式会社世界文化社

1902~1983 批評家

本書は、著者の文集であるが、そのなかから。

「徒然草」(1942)より

40歳の時、書かれたもので、比較的短い文章である。著者は、「徒然草」を絶賛しており、兼好法師は、物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを「怪しうこそ物狂ほしけれ」と表現したのだという。
「徒然草」のなかに「よき細工は、少し鈍き刀を使う、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」(第二百二十九段)という文があり、著者はこれを兼好法師が自らを形容したのであって、物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、そこに「徒然草」の文体の精髄があると解釈している。

「鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう。これは全文である。『因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容美しと聞きて、人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(第四十段)これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」

世の中には、美人で多くの男から言い寄られるにもかかわらず、決して結婚できない女がいるという内容である。地上の男と結婚するわけにはいかず、月に帰っていった竹取物語の「かぐや姫」を思いおこさせる。

一見したところ、特にどうということもないような話であるが、それでは、著者は、なぜ、「徒然草」の数多い文章のなかで、これを取り上げたのであろうか。著者の身近にこのような女性がいて、しかも、著者こそ多くの男のひとりだったとすれば、この文の意味はまるで違ってくる。こう考えると、やはりそういう女性はいたらしい。白洲正子が「銀座に生き銀座に死す」に書いている「ムーちゃん」という人で、あまたの文士のあこがれの的であったという。私は、著者が「徒然草」の文に出会ったとき、まるで自分のことを書かれているような感銘を受けたのではないかと思う。

はたして、鈍刀の話といい、娘の話といい、兼好法師が、どこまで考えていたのか知ることはできない。ただ、「どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」、著者が言うとおりであろう。この娘も、兼好法師が若いころの想い出の人かもしれないと考えるとおもしろいが、それ以上想像をふくらませることはできない。

「徳利と盃」(1967)より
「晩酌は、長い間の私の習慣である。もう量はひどく減って了ったが、やはり一合半か二合の晩酌は、思わぬ異変がない限り欠かした事はない。自然、徳利と盃とには愛着を持つようになっている」
著者は、骨董品の徳利と盃で、毎日、晩酌をしていたらしい。酒を飲むと、ひとはしばしば饒舌になるものだが、文章の達人である著者も、ときには、ほろ酔いで書いたこともあったかもしれない。
こんな見方も、私が歳を取ってから氏の著作を読んで感じることで、若いころだったら、思いつかなかっただろう。

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