2009年7月11日土曜日

わたしの知的生産の技術 「知的生産の技術」研究会編

1978 株式会社講談社

序文より(梅棹忠夫)(p5)

「もう一つ、技術である限り、目的があるという点である。何か具体的な目的がないと、技術というものは機能しない。言いかえれば、生産の意図なくして技術は無いのである。無目的にカードをいくらこしらえても、なんにも出てこない。必要なものは、知的生産の技術を駆使して偉大なる生産をやってやろうという、知的情熱なのである。この点は、全く意外なことだったが、かなり広く誤解があるようだ。」

「知的生産の技術」という言葉をひろめた梅棹氏が、カードをいくら作っても出てこないと言っている。
それでは、情熱はどこから生まれる?

真実があるとしたら知りたいが、どこかに転がっているものでもないし、ある本の中に書いてあるとは限らない。芋づる式にたどっていって、自分で探すしかないことがある。それが自分でする研究というものになるのだろう。
それで何が得られるのかも分からない。
無駄骨に終わることのほうが、はるかに多い。

「知的生産の技術」という本を読んだら知的生産ができるようになるというのは、たしかに考えが甘い。この手の本を読んでみても、出てこないものは出てこないとしか言いようがない。

本書の扉に出ている加藤秀俊氏の文には、「砂金堀りが川底をさらっていると、ほどんどが砂ですが、たまに金を見つけるわけです。つまり、その気にさえなってみれば、きわめて雑然とした情報の中からでも、砂金を見つけ出すことができるということなのです」とある。
無駄な努力と思っても、それでもあきらめずやってみるしかないらしい。

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