2009年7月8日水曜日

野口悠紀雄 戦後日本経済史

2008.1 株式会社新潮社

「はじめに」より

「標準的な見解によれば、戦後の日本は、占領軍によって導入された経済民主化改革―農地改革、財閥解体、労働立法―によって出発した。軍事国家から平和国家に転換した日本は、生産能力を軍備の増強ではなく経済成長に集中した。さらに、追放によって戦時中の指導者が一掃されたため、若い世代の人々が指導的な立場についた。こうして、日本は世界でも稀に見る高度成長経済を実現した。これに対して本書は、まったく異なる歴史観を提示する。それは、『戦後の日本経済は、戦時期に確立された経済制度の上に築かれた』とする考えである」

p19より

「戦時期において指導的な立場にあった官庁が、そのままの人事構成で戦後の日本経済を指導することになったのだ。つまり、日本に本当の意味での『終戦』はなく、戦時期と戦後は連続的につながっていた。・・・連合軍は、その後さまざまの『経済民主化改革』を実施し、それらは日本経済の姿を戦時期から一変させることになった。しかし、それは表面上のことである。経済運営の根幹は、大蔵省、日本銀行、通産省などによってコントロールされ続けたのだ。しかも、戦時期に確立された制度的枠組みを利用してそれがなされた」

著者が大蔵省に入省したとき、大蔵省に限らず中央官庁の人事がすべて戦前から切れ目なくつながっていることを実感したという。中央官庁だけでなく、主要企業や銀行などもすべて名前だけが変わっただけで、戦時中の組織が生き残った。それゆえ、著者は戦後に引き継がれた戦時体制としての経済体制を「1940年体制」と名づけた。
著者は、戦後日本の高度成長の実現に本質的な役割を果たしたのは戦後の経済民主化改革によってもたらされたものではなく、戦時体制の継続によってもたらされたのであると述べている。

著者によると銀行制度もまた戦時経済体制の産物である。戦時経済の中で、軍需産業に資金を集中させるために銀行が産業資金供給をになう間接金融の仕組みが確立された。戦時金融体制の中心になったのが、日本興業銀行である。また、一県一行主義によって中小銀行が整理統合された。

家計の貯蓄は銀行預金となり、銀行貸付けになって企業に流れる。このシステムを統御するのは大蔵省と日本銀行である。

「戦時体制の維持がバブルの基本原因」では、1980年代には、企業は銀行借入ではなく、株式の発行によって容易に資金を調達できるようになった。大企業は株式市場から簡単に資金を調達できるので「銀行離れ」が進んだため、銀行は資金運用難に陥った。企業の設備投資を銀行融資によってまかなう仕組みである「戦時金融体制」は、この時点で、その使命を終えたのである。とりわけ長期信用銀行三行は都銀以上の役割喪失に直面した。

しかし、銀行は生き残ろうとした。本来の役割を離れて、中小企業や不動産向け融資にのめりこんでいった。退場を宣告されながら必死に生き延びようとした。このような無理が、のちにさまざまの不祥事を産むことになった。

バブル時代の最後には、いくつかの銀行の破綻があり、公的資金の注入によって生き延びた銀行も合併を繰り返して巨大化し、潰れにくくなった。しかし、それによって日本の金融システムが本当に生まれ変わったわけではなく、銀行の名前が変わっただけのことである。

日本企業の体質は、依然として戦時型企業のままであるが、多くの日本人はこの日本型経済システムに対して強い愛着をもっており、それに執着している。

著者は、「戦時経済体制」システムが崩壊した後に、どのような経済システムが可能か解答を提示することはできないという。「本書の役割は、以上の認識を読者に示し、われわれが抱える問題の深刻さについて理解を求めることである」と述べている。

たしかに、アメリカの占領によって日本は大きく変わったように見えた。だが、実際に仕事をしていたのは戦前からの同じ役人である。本書では、終戦後わずか10日あまりで、「軍需省」が元の「商工省」と名前を変え、連合軍が東京に進駐してきたときには「軍需省」という名前はすでに消滅していたこと。そして、1949年に「通商産業省」と名称を変更したことが紹介されている。軍人を除く人事構成は「軍需省」時代のままであったという。

人が同じであれば、名前や組織が変わっても本質は変わらない。
しかも、元へより戻そうとする力が働くものである。

今でも役人が主導していくシステムは変わらないどころか、ますます強くなっている。

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