2012年8月8日水曜日

田原総一朗 ジャーナリズムの陥し穴


2011 株式会社筑摩書房

著者は、好奇心が強く、ひとつの分野を深く掘り進めて、その分野で大成するというタイプではない。無知呼ばわりされ馬鹿にされても、新しい穴を掘るのが好きである。つねに新しい穴、標的に挑戦してきたし、これからもそうしていくつもりである。

1934年生まれだから、戦争が終わったときは11歳であった。
この世代には、大人たちが一夜にして、「天皇陛下のために死ね」から「日本は侵略戦争を起こした」に早変わりするのを見て、大人にたいする不信感を持ったという人が多い。「大人や、偉い人の言うことは信用できない」というわけである。うがって考えれば、そうした大人の態度を、なるほどと真似たのが彼らである。
なまじ「信念」などは持たず、長いものには巻かれろと、その時の権力者に迎合するのがもっとも安全なやり方である。
戦争が終わって、軍部の検閲はなくなったかわりに、今度はGHQの検閲が行われたが、そんなことを気にする人もあまりいなかった。
ジャーナリズムが権力に弱いのは、今も変わらない。
情報の出所は、権力の側が握っており、権力者に嫌われては、情報が手にはいらないことも、その原因のひとつである。
ジャーナリズムが政治的圧力に屈したり、偏った報道を強いられたりするのもよくある話である。
自分を守るためには、強いものに従っておくのが賢明だからである。
とはいえ、権力の側も圧倒的に強いというわけでもなく、権力の中枢であるはずの総理大臣でさえ、ジャーナリズムにはげしく追求されると、簡単に辞めてしまうことがある。
検察の捜査によって社会的に葬られた大物も多い。たとえば、田中角栄、江副浩正などである。
その場合も、検察の裏に、「国家権力」というようなものや、「陰謀」といったものがあるかというと、どうも、そういうわけでもなさそうである。
「権力」や「政権」といっても、けっこう中身はないものらしい。
なんらかの原因で、その地位についた、けっして全能でない人間が「権力」を動かしているのである。
「権力」や「政権」の中身がないのであれば、マスコミも政府を叩いてばかりいればいいというわけにはいかない。マスコミが、対案を用意し、提案をすることも必要である。

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