2015年11月8日日曜日

高田里恵子 失われたものを数えて 

東大大学院のドイツ文学科に面接に行くと、あなたはいったいどうやって生活していくつもりかと質問されるらしい。
大学のドイツ語教員の募集は少ないし、ドイツ文学にたいする需要も限られている。
こうした状況は、今に始まったわけではなく、明治時代からのことであった。
そもそも、日本人がドイツ文学を研究するというのは、いかにも居心地のよくなさそうなことである。
なかなか学術論文など書けるものでもなさそうである。
翻訳の仕事はいくらでもあるのだろうが、完璧にできるものでもないし、ヨコのものをタテにするだけのようなむなしさを感じるかもしれない。
けっきょく、有り余る語学力を持て余して、ただひたすらドイツ語の原書を読むだけということになりがちである。夏目漱石の小説には、そうした人物が出てくるが、じっさいに漱石の周りには、そのような人物がいたらしい。漱石自身も大学での英文学研究にいきづまって、大学をやめて小説を書くようになったらしい。
文学部への進学は、就職先がないというリスクをともなう。そのため、裕福な家の子供か、さもなければ就職をしなくてもいい女性が進学することになる。家が裕福で、頭もよく、多少不良という人が文学部へすすみ、小説家になって女性にもてるというのが長い間続いたパターンであった。たとえば、太宰治は、女性にもてたが、心中の相手にされて若いうちに死んでしまった。渋澤龍彦は、胡散臭い西洋文化の紹介を女性雑誌に連載していた。また、戦時中は、ニーチェなどを読みふけっていた学生が本など捨ててしまい、特攻隊に志願したということもあったという。
今では、ドイツ文学やドイツ哲学が話題にのぼることもほとんどなくなっているが、それが青春であった時代も、たしかにあったのである。

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