2011年12月5日月曜日

ドナルド・キーン 日本人の戦争

作家の日記を読む

2009 株式会社文芸春秋  角地幸男 訳

1922年生まれ

戦争中は、警察や憲兵の目が怖かったこともあるが、ほどんどの作家は、むしろ自分から進んで戦争に協力した。作家の多くは、戦争初期の勝利に熱狂し、戦争末期の日本の窮状に絶望した。
敗戦後、アメリカ軍に占領されてからの日本人の変わり身の早さは、作家といえども同じであったらしい。
昭和21年に専売局が新しい煙草の図案と名称を募集し、一等に当選したのが、「ピース」であった。
これについて、高見順(1907~1965)は、つぎのように書いた。

「戦争中英語全廃で、私たちに馴染の深かった『バット』や『チェリー』が姿を消しましたが、今度はまた英語国に負けたので英語の名が復活。日本名だってよさそうなものに、極端から極端へ。日本の浅薄さがこんなところにも窺えるというものです。『コロナ』はまあいいとして、『ピース』(平和)なんて、ちょっと浅間しいじゃありませんか。滑稽小説ものですね。好戦国が戦争に負けるとたちまち、平和、平和!」(「高見順日記」)

敗戦後の日本人の豹変ぶりに、日本人自身があきれているのである。
なぜ、こういうことになるのか考えてみると、日本人に限らないのかもしれないが、人は、へたに自分の頭で考えたりせず、流れに乗って、あるいは、空気に動かされて行動しているからである。
たとえ風にそよぐ葦のようだとけなされても、それがもっとも安全なやり方だと思っている。
流れや空気を、いち早く察して、それに自分を合わせようとする。
だから、皆が同じような行動をとることになる。それが、良いとか悪いとかというより、ともかく、人の動きというのはそういうものらしい。
ちいさな魚や弱い動物が群れをつくってあっちへ行ったり、こっちへ行ったりするようなものなのだろう。

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