2011年2月22日火曜日

鎌田東二 神と仏の出逢う国

2009 株式会社角川学芸出版

1951年生まれ

著者は、40年以上にわたって、国内外の聖地を参拝して回っている。
著者は、日本文化の主流は「神仏習合」だが、それが成立する基盤として、さらに「神神習合」があったと言う。
「神道」という語は、「日本書紀」において初めてあらわれ、「仏法」に対置するものとして使われている。したがって、この時代には、すでに共同体ないし国家の伝統的基幹宗教文化として生活習慣化していたと考えられている。
神道は、「カミ」と呼ばれてきた聖なる存在に対する畏怖・畏敬の念に基づく祈りと祭りの信仰体系であり、生活体系である。
神道は、日本の風土のなかで自然発生的に生まれ、外来思想や外来文化の影響を受けながら形成され、洗練されてきた。

6世紀には、仏教が伝来し、蘇我氏と物部氏が争ったが、仏教は受け入れられ定着していく。
聖徳太子は、日本を仏教精神に基づく中央集権的な統一平和国家にしようとした。
この路線は、その後も長く続き、仏教と儒教と神道の三つは、相互に影響しあいながら共存し、今日にいたっている。

明治の初めには、神仏分離令によって神社は神祇官に所属することになるが、ほどなく神祇官は廃止された。
新政府の宗教政策は、新たな国家再編を試行錯誤しながら進められたため、一貫したポリシーはなく、目まぐるしく変わっていった。
平田派の国学者や神主は、日本は神道の国になると夢見ていたが、文明開化のなかで、かえって信教の自由が進み、時代遅れになった平田派は、どんどん政府から出されていった。
明治政府は、西欧列強に対抗するため、富国強兵政策を強力に進めるとともに、天皇を神格化し、明治憲法では、天皇は神聖にして侵すべからずと定められた。
古代においても、天皇をこれほどまでに神格化したことはなかった。
明治の指導者は、日本という国家を精神的に統合し強力に支えていくためには、八百万の神を祀る神社神道を中核にするのではだめで、天皇を中心にしなければならないと考えたのである。
「国家神道」については、神道が国教化されたというイメージをもつ人が多いが、正確には、国家が管理しやすく、統制しやすいように骨抜きにされた神社体制であった。

著者によれば、昭和20年の敗戦後、神仏分離の方向性は一度終わり、将来は新神仏習合ないし「神仏共働」の時代へと進んでいくという。
以上のように、本書では、宗教的な立場から神仏習合を論じている。
いっぽう、俗っぽく見れば、多くの日本人は昔から功利的かつ享楽的で、御利益がありさえすれば、神でも仏でも、かまわず信心してきたという面もあるのではないだろうか。

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