2009年9月8日火曜日

中野孝次 自足して生きる喜び

―本当に幸福になるための二十三章

2002 朝日新聞社

作家 1925~2004

本書は、著者が76歳のときに書かれた。

「人が生きるという最も大事なところに目を向ければ、人が生きてゆく上でそんなもの(過度の情報のこと)が必要かどうか、大いに疑問がある。現にわたしは、テレビは見ず、電話に出ず、パソコンもワープロもケータイも所持せず、およそ流行に無縁な人間だが、それで生きる上で支障を感じたことは一度もない。そんなものは無くてもなんらさしつかえないのだ」(p20)

「あれもしたい、これもしたいとあっちこっちに気が散っていては、ついにはそのどの一つにも物の上手にならず、自分が夢みていたような身の上にもなれないで、身はすでに老いにかかり後悔しても取り返せる歳月ではなく、輪っかが坂を下るように衰えてゆく」(p53)

「わたしは六十を過ぎたころから、自分はもう社会への義務は果たした、これからは自分のために生きよう、と決心し、老の身の衰えを自覚するとともにますます自分の好きなように生きることにした。その時『徒然草』の言う所が一番ぴったりきたが、そのある段に、『吾生、既に蹉跎たり、諸縁を放下すべき時なり』とある言葉を真にとって、自分の人生はもう見究めがついた、これからは世の中との縁を棄てるべき時だ、と自分に言いきかせた」(p94)

「目標を立て、それを実現するために今を犠牲にして全力で働く人は、努力の人に違いないが、いつまでたってもそれでは人生のすべての段階が次の目標のための手段になってしまう。そういう人は結局一生楽しむことを知らずに終わるだろう」(p195)

「足るを知るとは、あれも欲しいこれも欲しいとむやみに物欲をつのらせることの反対で、衣食住すべてにおいて人が生きてゆくに必要なだけのものがあればそれでよしとし、物欲に心を労せず、心をそれ以外のもっとたのしくなることに使うようにすることだ」
(「あとがき」)

著者は、自足して生きた人たちとして、老子や中国の詩人、日本の隠遁者、あるいは現代でもそういう生き方をしている人をあげている。

「幸福とはひたすら心の持ちようのみにかかわることで、物のゆたかさとは直接関係はない、と知った」というが、もっともなことである。

著者の「生き方」についての著作は、きわめて多数にのぼり、その中には、「清貧の思想」などのベストセラーも含まれている。
これだけ本が売れていれば、けっして貧乏ではなかったようで、ぜいたくをするところには金をかけていたようである。

ひとつひとつはもっともな人生論ではあっても、何度も聞かされているとうっとうしくなることもあるものだ。
もっともらしいことばかり言っていると、逆に、「何様のつもりだ」と反発されてしまうのだから世の中は難しい。

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