2010年5月19日水曜日

脇田成 日本経済のパースペクティブ

構造と変動のメカニズム

2008 株式会社有斐閣

1961年生まれ

「失われた10年」とはどんな時期だったのかを抜きに、日本経済を語ることはできない。そこで、この時期から振り返ってみたい。

90年代初頭
銀行の不動産向け融資の急増により地価の暴騰を招いた「バブル」が崩壊した。
当時、銀行はきわめて多額の含み資産を持ち、地価神話も崩壊していなかったので、今から見ると深刻には受け止められることがなかった。

90年代中頃の「追い貸し」と「先送り」
いずれ地価が上昇すれば、損失は回収できるという楽観的な期待のもとで、銀行による「追い貸し」とともに、超低金利政策と大判振る舞いの財政政策が始まった。

97年金融危機
北海道拓殖銀行、山一証券などが破綻し、銀行部門の不良債権問題の深刻さが、誰の目にも明らかになった。

小泉構造改革
竹中金融行政は、大銀行へ経営統合を迫るなどの強硬策をとり、不良債権の処理にめどをつけた。

2003年以降
好調な輸出に支えられて、日本経済は、ゆっくりと浮上し始めた。

2008年以降
アメリカから始まった金融危機による世界同時不況によって、輸出に依存していた日本経済は再び落ちこんでいる。

経済の担い手を、家計・企業・政府に分けることができる。
この間ずっと、家計部門は負担を強いられてきた。
そのルートは、①家計の所有する土地や株などの資産価値が下落した、②銀行・企業の不良債権処理の過程で給与所得にしわよせが及んだ、③超低金利政策が長く続いたため、利子所得が失われた、④輸出が伸びることで企業は不振を脱したが、給与所得にまでは恩恵が回らなかった。
このため、消費は伸びず、内需が不振なため、ますます外需頼みの経済になっている。

今後の日本経済を考えるうえで差し迫った問題は、財政悪化、社会保障維持、少子高齢化である。このうち、少子化があるために残りの二つの問題はさらに困難になっている。
そこで、著者は、思い切って子供への現金給付をすべきであると提案している。
じっさい、民主党政権のもとで、子供手当が導入された。
たしかに、経済学者の見方では、「子供手当」は少子化対策としては理にかなっている。
はたして、これが国民に受け入れられて定着し子供が増えるのかどうかはまだ分からない。

2010年5月16日日曜日

中井浩之 グローバル化経済の転換点

「アリとキリギリス」で読み解く世界・アジア・日本

2009 中央公論新社

1967年生まれ

「アリとキリギリス」は、イソップ寓話である。
グローバル経済は、経済成長を輸出で維持してきたアリ諸国と、内需主導で維持してきたキリギリス諸国との相互依存によって拡大してきた。アリ諸国の代表である日本は、優秀さと勤勉さを自賛してきたにもかかわらず、いっこうに豊かになれない。いっぽう、アメリカ人は、豪華な家に住み高価な車を乗り回してきた。

寓話では、冬になると、キリギリスは困って、アリは暖かく暮らすのであるが、グローバル経済のように両者に交易があると、アリも困ることになる。夏の間に、いっしょうけんめい働いてアリがキリギリスから得たものは、ドルという紙切れにすぎなかったので、アリに豊かな蓄えは残らなかったのである。

このようなたとえが適切かどうかは別としても、一国だけで経済を語ることはできず、グローバルな視点で考えなければならない。

日本経済の現状と今後についてどう考えたらよいのだろうか。
1990年代から2000年代の日本経済を形容して、「失われた15年」という表現が使われている。著者は、その間、日本経済が失ったものは三つあると考えている。
すなわち、①経済成長、②モノ作りの拠点としての優位性、そして③主体的に経済構造の改革に取り組む意思、である。

それでは、今後の日本経済は、どうあるべきか。
著者は、①主体的に経済の構造改革に取り組む意思と姿勢の重要性、②対外的には、「慈善的・大国主義的アプローチ」から脱却する必要性を示唆している。

「失われた15年」の停滞を経て、日本はもはや東アジアで唯一の経済大国ではなくなった。この事実を冷静に認識したうえで、主体的に構造改革に取り組みながら、東アジアの中での共生を図るしか日本経済の進む道はないという。

「日本経済」の衰退は、以前から指摘されてきたが、いよいよ確かになったきた。
政治家は経済に無関心、日銀は、これ以上やれることはないというのが現実である。
さらに、日本人は自分たちをアリだと思ってきたのだが、アジアの他の国々から見れば実はキリギリスであったのかもしれない。

2010年5月15日土曜日

鎌倉道を歩く

保土ヶ谷から菊名までの鎌倉道らしき道を歩きました。

保土ヶ谷区神戸町の古東海道の道標

    神奈川区神大寺の丘に残る農地

岸根公園

 篠原池

2010年5月12日水曜日

2010年5月11日火曜日

今井照 図解よくわかる地方自治のしくみ

2007 学陽書房

1953年生まれ

法律では、「地方公共団体」ということばが使われているが、一般には「地方自治体」が使われている。自治体は、普通地方公共団体と特別地方公共団体に分けられる。

普通地方公共団体は、都道府県と市町村である。特別地方公共団体には、東京都の特別区、地方公共団体の組合などがある。市町村は、さらに人口50万人以上の指定都市、人口30万人以上の中核市、人口20万人以上の特例市、人口5万人以上のその他の市という区別がある。指定都市には、その区域を分ける「区」が置かれている。

東京都では、戦時中の1943年に東京市が廃止され、東京都に吸収された。
現在では、東京都の区は特別地方公共団体として独立の扱いがされているが、横浜市のような区は、たんなる行政上の区域にすぎない。東京都の区は、市のようなもので、区には区会議員がおり、区長は選挙によって選ばれている。

もっとも、最高裁の判決では、東京都の特別区は「地方公共団体」とは言えないとして、区長の公選制を廃止しても違憲ではないとした。(昭和38年)

その後、特別区長の公選制は復活し、地方自治法でも東京都の区は特別地方公共団体となった。
最高裁の判例はあっても、地方自治法が変わったので、東京都の区は、憲法上も、地方公共団体である。

地方自治のしくみは、「2000年分権改革」によって、国の自治体への「関与」が大幅に制限されるなど、それまでとは、大きく変わっている。

2010年5月10日月曜日

半藤一利ほか 零戦と戦艦大和

2008 株式会社文芸春秋

「文芸春秋」の座談会を収録したもの。
戦艦大和は、日本が誇る巨大戦艦である。
しかし、建造当時から、すでに大艦巨砲よりも航空の時代だといわれており、山本五十六は、大和の建造に反対したという。
それでも大艦巨砲にこだわったのには、政治と利権がからんでおり、艦船建造予算に付随する人やポストが多く、簡単に舵をきれなかったこともある。
海軍を退役したあと、造船会社に天下る軍人も多かった。
ちなみに、半藤一利によれば、大正11年にワシントン海軍軍縮条約が結ばれて、新しい艦船の建造が制限されたので、造船会社の仕事がなくなったため、永代橋、勝どき橋など隅田川にかかる多くの橋を造船会社に造らせたのだという。

戦艦大和は、沈んでしまったが、戦後、呉海軍工廠は、アメリカの海運会社が、設備を借り受け、船舶の建造を始めた。
大和を建造した技術や設備は、戦後も健在で、昭和31年には、日本は造船量で世界一になった。

呉の造船所の運営を任されていたのが、後にNTTの社長になり、リクルートの未公開株事件で失脚した真藤恒である。
真藤恒は、石川島播磨重工の社長から、民営化される電電公社へ送り込まれた。
彼を推したのは、同じく石川島から東芝の社長になった土光敏夫である。

こうして見ると、世の中で何かが決定がされるのは、合理的な理屈ばかりではなく、むしろ偶然や、金とか人間関係によるところが大きいのではないかと思う。

2010年5月7日金曜日

東急沼部

六郷用水跡

桜坂(中原街道旧道)