2011年3月18日金曜日

石川真澄・山口二郎 戦後政治史 第三版

2010 株式会社岩波書店

1945年、日本政府はポツダム宣言の受諾を決め、無条件降伏した。
降伏は、「国体の護持」だけを条件として天皇の決断によって決められた。
このとき、議会は、政府・軍部に全面的に協力する「翼賛議会」と呼ばれる形ばかりのものであった。

連合国による日本の統治は、GHQが日本政府を通して間接的に統治する形をとった。GHQは、日本軍国主義を徹底的に破壊するため、戦前の指導者を公職追放し、民主化のための施策を押し進め、財閥解体や農地解放など経済構造の改革を行った。
日本の民主化を目的とする占領政策は、憲法改正で一応完成する。
新憲法は、GHQ案を、ほぼそのまま受け入れたもので、国民主権であるが、天皇を「象徴」として残し、戦争と軍備を放棄した。

戦後初の総選挙は、46年4月に行われた。
戦前からの議員が公職追放されたため、新人が8割を占めたにもかかわらず、戦前の支配政党の系譜にある人が多数当選した。
社会・共産党系の人が100人近く当選し、その後、半世紀近く続く「保守対革新」という枠組みが形作られた。

48年から6年続いた吉田内閣は、経済の復興に力をそそぎ、サンフランシスコ講和条約を締結した。

次の鳩山内閣は、憲法を改正して自衛軍を創設することをめざした。
分裂していた社会党は統一して「平和憲法擁護」をスローガンにして、これに対抗した。いっぽう自由党と日本民主党は、合同して自民党を結成した。
鳩山内閣は、日ソ国交回復、国連加盟をなしとげた。

追放解除から復帰した岸信介は、鳩山と同じく、憲法九条を改めて日本が相応の軍備をもつべきだという考えであった。
岸内閣は、日米安保条約を、日本にとって対等の内容にするための改定をしようとしたが、社会党などの反対勢力は、戦前の軍事国家に復帰する道につながっているのではないかと疑って猛反対した。条約の批准は、強行採決によって可決され、全国的なストが行われて、全学連のデモ隊が国会構内に突入した。

後を継いだ池田勇人は、はじめから「低姿勢」で、「寛容と忍耐」を掲げ、10年で所得を2倍にするという所得倍増計画を立てた。国民の目は、おのずと、経済のほうに向けられることになったが、経済成長率は十分高く、目標に掲げなくても、達成できるものであった。

池田が、ガンのため辞任し、佐藤栄作があとを継いだ。7年以上続いた佐藤内閣のなかで、沖縄が本土に復帰することになり、70年には万博が開催された。

佐藤のあとを田中角栄と福田赳夫が争い、田中が戦後最年少の首相となった。田中は、「庶民宰相」「今太閤」などという呼び名で、国民の期待も大きく、その著書「日本列島改造論」は、ベストセラーにもなった。
田中は、日中国交回復を実現し、実行力を示した。
田中は、「狂乱物価」「石油ショック」と呼ばれた経済問題と金権政治に国民が幻滅したことによって、74年に辞任した。

後継争いには、大平正芳、福田赳夫、三木武夫の3人が名乗りをあげたが、「椎名裁定」の結果、三木が首相となった。「ロッキード事件」が発覚し、田中角栄が逮捕された。田中派は怨念を三木に向け、「三木降ろし」に動いた。

76年には、福田が首相になったが、78年には田中派の支援を受けた大平が首相になった。

大平が安定政権をめざした79年の解散・総選挙では、自民党は逆に大敗した。
大平が、「一般消費税」の導入に熱意を示したのが原因であると見られている。
この選挙の後、自民党では、「40日抗争」と言われる熾烈な権力闘争が燃え上がった。80年には、内閣不信任案が可決され、衆参同日選挙となったが、大平は、心筋梗塞のため、その直前に、死去した。

大平のあと、党内派閥抗争に疲れた自民党が選んだのが鈴木善幸である。鈴木は、大きなミスがあったわけではないが、82年秋に自ら辞任した。

鈴木のあとは、やはり田中派の支持を得た中曽根康弘であった。
中曽根は、就任当初、日本列島を浮沈空母にするという発言などで支持率を落としたが、その後は、平和と軍縮、行政改革、教育改革などを強調するようになり、支持率を回復させた。
その政治手法は、「審議会政治」と名付けられた。中曽根は87年まで首相を務めた。

中曽根のあとをついだのが、「経世会」をつくって田中派から独立した竹下登である。
竹下内閣は、「消費税」を創設したが、「リクルート事件」に絡んで退陣した。

次に選ばれたのが、竹下派の強い支持を受けた宇野宗佑である。宇野は、醜聞と選挙敗北の責任をとって、在職わずか86日で退陣した。

宇野のあとは、竹下派の推した海部俊樹が首相となる。海部内閣のとき、湾岸戦争が発生し、日本の「国際貢献」が問題となった。

91年には、やはり竹下派の支持を受けた宮沢喜一が首相になった。
宮沢内閣のとき、自衛隊が国連PKOのためカンボジアに派遣された。
バブル経済が崩壊し、株価や地価が下落したため、景気対策が打たれたが、不良債権問題に対する危機感は、まだ希薄であった。
92年には「佐川急便事件」が竹下派を直撃し、羽田派と小渕派に分裂した。
93年には金丸信が逮捕され、内閣不信任案が可決された。

総選挙では、社会党が大きく議席を減らし、自民党はあまり変わらず、新生党、日本新党、新党さきがけが議席をのばした。
自民党から出た「新生党」、社会、公明、民社、社民連などが、非自民・非共産の連立政権樹立をめざし、日本新党の細川護煕を首相とする内閣が誕生した。このとき、自民党は55年以来、はじめて野党となった。
細川は、国民の人気は高かったが、突然消費税を廃止して「国民福祉税」を新設することを表明して撤回するなど、背後にいる大蔵省や小沢一郎の力の強さを印象づけた。細川は、94年に金銭疑惑が出てきたことを理由に辞任した。

4月には、連立政権は、新生党の羽田孜を首相にするが、連立から離脱した社会党と、新党さきがけ、自民党によって内閣総辞職に追い込まれた。

6月には、意表を突いて、自民、社会、さきがけ三党連立で、しかも社会党の村山富市を首相とする内閣ができた。
村山は、日米安保体制の堅持、自衛隊の合憲、日の丸・君が代の容認など、これまでの社会党の主張を大きく転換する見解を表明した。いっぽう、日本の戦争責任を認め、従軍慰安婦へ見舞金を支給し、水俣病の未認定患者を救済するなど過去の政権が積み残した負の遺産を精算することにも取り組んだ。
12月には、多くの野党議員が合同して「新進党」が結成された。

95年の参議院選挙では社会党は大敗し、村山も意欲を失って、96年1月退陣し、自民党の橋本龍太郎にかわった。
橋本は、96年9月に衆議院を解散し、消費税の3%から5%へのアップ、それと引き替えに抜本的な行政改革を行うことを掲げて総選挙が行われた。自民党は議席を確保したが、社民党とさきがけは大幅に議席を減らした。
橋本は、中央省庁の再編成、内閣機能の強化、独立行政法人制度の導入などの行政改革、および地方分権改革を行った。さらに、国民負担を増やす形での財政や社会保障改革が始まった。
97年には、北海道拓殖銀行や山一証券が破綻するなど、日本経済にとって衝撃的な年となった。この危機にたいして、橋本政権は経済対策をとるのに遅れ、国民の不信を招き、98年参議院選挙で自民党は敗北し、橋本は退陣した。

98年、自民党総裁に選ばれた小渕恵三は地味な性格で当初は世論の期待も小さかった。国会運営でも大きな困難に直面した自民党は、公明党との提携に動き、公明党の地域振興券の配布という景気対策を受け入れた。
自民党は、伝統的な支持基盤が崩れていくなかで、公明党の組織票を頼り、公明党は与党としての政策実現党を志向した。

2000年、小渕が脳梗塞のため死去し、森喜朗が後継となったが、自民党の一部指導者によって密室で決められたと批判された。森は6月に衆議院を解散し、総選挙を実施した。自民党は議席を大きく減らしたが、公明党との連立で政権を維持することは容易であった。森は、自民党内での「加藤の乱」などの批判や失言によって内閣支持率が史上最低を記録するなど政権維持が困難となり、2001年、退陣する。

自民党総裁に選ばれた小泉純一郎は、自民党に受け継がれている利権政治と官僚の二つを標的として、構造改革を掲げた。閣僚人事でも、派閥の均衡や当選回数を無視し、若手や民間人の起用を進めた。郵政事業民営化、道路特定財源の見直しなど新しい課題を次々と打ち出して、国民の支持を得た。
小泉人気の源泉は、自民党のなかから自民党を否定したことである。その結果、地方選出議員や業界団体の支援を受けて当選した議員は支持者との板挟みになった。そこで、道路公団や郵政民営化など、改革の具体化過程においては、改革派と抵抗勢力との駆け引きが展開された。
小泉内閣のもとで、不景気は深刻化し、金融機関の破綻も続いたが、小泉は景気刺激策への転換をかたくなに拒んだ。
外交・安全保障政策の面では、自衛隊をインド洋やイラクに派遣し、日米の軍事的緊密化を一層加速させた。
2003年には、小泉は総裁に再選され、衆議院を解散して総選挙を行った。
この選挙で、自民党は引き続き政権を維持した。他方、自由党と合併した民主党は、野党としては戦後最大の勢力となった。
小泉は、世論の高い支持を背景に経済財政諮問会議や規制改革会議などを活用して構造改革を進めた。
2005年、小泉は、かねて持論であった郵政民政化を通常国会の最大のテーマとし、衆議院では可決されたが、参議院では自民党からも反対が出て、否決された。
小泉は、ただちに衆議院を解散して、総選挙を断行した。この選挙では、自民党改革派対抵抗勢力という構図がメディアで定着し、野党の存在は霞んでしまった。自民党が圧勝し、小泉の威光は揺るぎないものとなった。

2006年の自民党総裁選には、小泉は勇退し、安倍晋三が後継となった。
安倍は、憲法改正に強い意欲を示し、「戦後レジームからの脱却」を唱え、教育基本法の改正、憲法改正のための国民投票法の制定を実現した。
閣僚の政治資金収支報告をめぐる虚偽記載が続出し、政権を揺さぶった。
「消えた年金記録」問題は、国民の不満を高め、内閣支持率は低下した。
2007年の参議院選挙では、小沢一郎の率いる民主党は、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げて大勝し、自民党は大敗した。この結果、民主党は参議院で第一党になり、自民・公明の与党は過半数を失った。

安倍は退陣し、福田康夫が後継に選ばれた。与党が参議院で過半数を失ったことにより、政権運営は多くの困難に直面することとなった。インド洋における自衛隊の給油活動の継続が不可能になり、揮発油税の暫定税率の根拠法は衆議院の再議決によって成立した。

2008年、政権運営に行き詰まりを感じた福田は退陣し、麻生太郎が後継に選ばれた。
麻生は、政権発足早々の早い時期に解散総選挙を考えていたが、9月以降の世界的な金融危機への緊急対策を行わなければならないことなどを理由にして解散を先延ばしにした。
2009年、小沢一郎の政治資金をめぐって公設秘書が逮捕され、鳩山由紀夫が民主党の代表に選ばれた。

7月に衆議院解散、8月に総選挙が行われ、民主党が308議席を獲得して、戦後の日本では初めて、選挙による明確な政権交代が起こった。
この選挙戦では、自民党政権の継続か、民主党を中心とした政権への交代かが最大の争点となった。
9月、民主党、社民党、国民新党の連立による鳩山内閣が誕生した。新政権は政治主導を掲げ、政策決定や政権運営において官僚を排除する方針を明確にした。
政策面では、マニュフェストで打ち出された子ども手当の創設、高校授業料の無償化、農家に対する戸別所得補償などが実現した。
国家戦略、行政刷新の両大臣が新設され、事業仕分けが行われた。
いっぽうで、高速道路の無料化はきわめて限定的にしか実施されず、マニュフェストが十分な詰めを欠いていたことも明らかになった。
鳩山内閣は、鳩山や小沢の政治資金をめぐる疑惑によって、支持率は低下していった。アメリカ軍の沖縄普天間基地の移設をめぐって、鳩山の指導力の欠如が浮き彫りになり、鳩山は、2010年5月末までに決着することで問題を先送りにした。
国会では、野党側が、鳩山、小沢の資金疑惑を追求し、自民党政権時代のスキャンダルをめぐる攻防がそのまま裏返しになる展開となった。
普天間基地移設の期限が近づくにつれて、鳩山内閣は苦境に陥り、支持率も低下の一途をたどった。鳩山は、普天間移設についての日米合意を結び、これに反対する社民党は連立を離脱した。

6月、政権運営に行き詰まった鳩山は、退陣し、同時に小沢にも幹事長を辞任するよう求めた。菅直人が後継首相に選ばれ、民主党および内閣支持率は急回復した。
首相になった菅直人は、財政健全化と社会保障の拡充を両立させるために消費税率の引き上げを含む税制改革が必要であると表明した。
菅の増税路線は、野党から攻撃をうけ、7月の参議院選挙で与党は過半数を失った。この結果、ふたたび衆参のねじれ状態が生じた。
連立政権は、衆議院で3分の2の多数をもっておらず、参議院で否決された法案を再議決により成立させることはできない。
その意味で、菅内閣は厳しい政策運営を余儀なくされることとなった。
参議院選の敗北の後、民主党の代表選挙が行われ、マニュフェストの修正と現実的な政権運営を強調した菅が小沢を破って勝利した。
菅は、代表選は乗り切ったが、財政難とねじれ国会のもとで、多くの難問に直面することとなっている。

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