2015 株式会社文芸春秋
高度成長期の日本では、終身雇用と年功序列が日本的雇用の特徴であると言われていた。
終身雇用と年功序列はセットになっていて、愛社精神は美徳と見なされていた。
若年齢層が多く高年齢層が少なかったので、会社にとっても労働コストを低くすることができた。
若いころは低い給料でも、後になって給料は上がることになっていた。
その後、日本経済は低成長期に入り、年功序列は会社にとって重荷になっていく。
会社は、コストを減らすため、工場を海外に移転したり、正社員のかわりに派遣社員を使うようになる。
社宅、保養所、病院も売りに出さざるをえなくなる。
正社員の給料も減らし、人員削減もするようになる。
所得が増えず、したがって消費も増えないこともあって、経済の停滞は長引いた。
就職できない新卒者が増え、正社員と非正社員の待遇の格差が耐えられなくなり、「過労死」が社会問題になっている。
政府は、民営化や規制緩和をすれば民間活力を引き出せるのではと考えたが、それでも経済の停滞をぬけだせない。
そこで、いよいよ終身雇用と年功序列に手をつけざるをえなくなってきた。
終身雇用と年功序列は、制度的にも守られているが、政府は「働き方改革」を口にするようになった。
今度は、「同一労働同一賃金」、「適材適所」がスローガンになる。
「同一労働同一賃金」とは、正社員と非正社員の賃金が同じということだとすれば、年功によって高くなっている正社員の賃金が、労働市場での公正価格とされる非正社員の賃金にあわせて低くなる。
さらに、同じ仕事であれば会社ごとの差もなくなるのではないだろうか。
成果主義の賃金体系が導入され、どのような仕事でどのような成果があったのかが評価される。
裁量労働制では、労働時間と給料との結びつきがなくなる。
こうなると、中高年の男性より若い女性のほうが高給という場合もでてくるし、家庭にいた主婦も働きに出なければならなくなる。
退職金や年金の支払額も減ってしまうので、高齢者も働かなければならなくなる。
これが、「女性が輝く社会」、「終身現役社会」、「一億総活躍社会」の内容である。
この結果、効率化や活性化がすすみ、労働生産性が向上して余暇が増えるとか、転職が容易になって会社に囲われていた人材が開放され、まったく新しい産業ができるかもしれない。
一方で、正社員と非正社員の賃金が同じになるなかで、各種手当や賞与が減額されるとか、解雇が容易になって雇用が不安定になるかもしれない。
将来、給料や賃金が上がるかどうかは一概には言えないが、労働人口が減少すれば上がるかもしれない。
ただ、家族を養うという理由で高かった中高年男性の所得は下がることになるだろう。
2018年2月26日月曜日
2018年2月20日火曜日
日本資本主義の正体 中野雅至
2015 幻冬舎新書
資本主義経済では、価格は自由な市場における需要と供給とのバランスによって決まる。
労働の価格である賃金も同様である。仮に賃金が時給1000円だとすると、労働者は、1日8時間、月に20日働けば16万円、1年で192万円の賃金を得る。
資本家は、資金を投入し、労働者を雇用する。事業が失敗したら全責任を負うが、成功すれば利益を手に入れる。
これが続くと、労働者はいつまでたっても富を蓄えることができないが、資本家は富を蓄積する。
マルクス経済学では、これを、労働者が資本家に搾取されていると考えている。
労働者のほうが人数では圧倒的に多いから、組織された労働者階級は革命を起こして資本主義は終焉する。
日本では、政権は選挙により決まるから、革命を起こさなくても、労働者階級の政党である革新政党が選挙で勝ち、政権を取りそうである。ところが、現実には自民党保守政権がずっと続いている。
それはなぜかというと、日本の資本主義は、会社中心でやってきたからである。
上記の同じ労働者が、会社に所属して長く働くとすると、事情が変わってくる。
仕事は同じでも、毎年昇給する。そのほか、各種の手当てが加算され、ボーナスが給料と変わらないくらい支給される。
福利厚生もととのっており、保養所、病院もある。長年勤務すれば多額の退職金が支給される。さらに、退職後も年金が支払われる。
労働者は、会社に所属して働けば、そうでない場合の何倍もの利益を得る。
会社では、社長などの経営者も下から昇進し、労働者に比べて極端に高額の報酬を得ているわけでもない。
本来の資本家である株主には、わずかな配当金しか払わない。
このような場合には、労働者は搾取されているとは思わない。
労働者は会社に保護されていると思い、会社を愛し、会社を誇りに思う。
このような会社中心の資本主義が日本資本主義の特徴である。
一時は、一億総中流とも言われ、自民党は資本家階級の政党ではなく、国民の政党のように振舞っている。
会社中心資本主義の場合、会社にはいれないか、会社からしめだされたらみじめである。
最近、「格差」が問題になっているが、資本家と労働者の間の格差のことだけではない。
会社の正社員と非正社員との待遇の違いや、アルバイトで働く場合とか、労働者間での経済的格差のことを言うことが多い。
会社や役所にはいれないと、大学の奨学金を返すこともできない。
そのため、会社の内部にいるものは、会社にしがみつこうとし、サービス残業でも喜んでする。
会社が苦しくなれば、労働組合は、給与の減額さえ受け入れる。
会社という村社会の一員であることを確認して安心するのである。
資本主義経済では、価格は自由な市場における需要と供給とのバランスによって決まる。
労働の価格である賃金も同様である。仮に賃金が時給1000円だとすると、労働者は、1日8時間、月に20日働けば16万円、1年で192万円の賃金を得る。
資本家は、資金を投入し、労働者を雇用する。事業が失敗したら全責任を負うが、成功すれば利益を手に入れる。
これが続くと、労働者はいつまでたっても富を蓄えることができないが、資本家は富を蓄積する。
マルクス経済学では、これを、労働者が資本家に搾取されていると考えている。
労働者のほうが人数では圧倒的に多いから、組織された労働者階級は革命を起こして資本主義は終焉する。
日本では、政権は選挙により決まるから、革命を起こさなくても、労働者階級の政党である革新政党が選挙で勝ち、政権を取りそうである。ところが、現実には自民党保守政権がずっと続いている。
それはなぜかというと、日本の資本主義は、会社中心でやってきたからである。
上記の同じ労働者が、会社に所属して長く働くとすると、事情が変わってくる。
仕事は同じでも、毎年昇給する。そのほか、各種の手当てが加算され、ボーナスが給料と変わらないくらい支給される。
福利厚生もととのっており、保養所、病院もある。長年勤務すれば多額の退職金が支給される。さらに、退職後も年金が支払われる。
労働者は、会社に所属して働けば、そうでない場合の何倍もの利益を得る。
会社では、社長などの経営者も下から昇進し、労働者に比べて極端に高額の報酬を得ているわけでもない。
本来の資本家である株主には、わずかな配当金しか払わない。
このような場合には、労働者は搾取されているとは思わない。
労働者は会社に保護されていると思い、会社を愛し、会社を誇りに思う。
このような会社中心の資本主義が日本資本主義の特徴である。
一時は、一億総中流とも言われ、自民党は資本家階級の政党ではなく、国民の政党のように振舞っている。
会社中心資本主義の場合、会社にはいれないか、会社からしめだされたらみじめである。
最近、「格差」が問題になっているが、資本家と労働者の間の格差のことだけではない。
会社の正社員と非正社員との待遇の違いや、アルバイトで働く場合とか、労働者間での経済的格差のことを言うことが多い。
会社や役所にはいれないと、大学の奨学金を返すこともできない。
そのため、会社の内部にいるものは、会社にしがみつこうとし、サービス残業でも喜んでする。
会社が苦しくなれば、労働組合は、給与の減額さえ受け入れる。
会社という村社会の一員であることを確認して安心するのである。
2017年11月27日月曜日
日の名残り カズオ・イシグロ
土屋政雄訳 2001 早川書房
訳者は、「イシグロは大家になったものだと思う」と書いている。
そのとおりで、カズオ・イシグロはノーベル文学賞を受賞した。
作家にとってノーベル賞を受賞するというのは、どういう意味があるのだろう。
川端康成は暗く淫靡な作品が多いから、あまりうれしくなかったのではないだろうか。
永井荷風は、文化勲章を受賞してから、浅草のストリップ劇場に通うこともできなくなり、天丼を食べて帰るだけになった。
村上春樹にノーベル賞をという期待もあるようだが、ファンを楽しませる作品を書くのには余計なことかもしれない。
小説は、情報の伝達手段としては、とりわけ冗長で曖昧である。
逆に言えば、一つの言葉や表現が様々な含意を持つところに、小説のおもしろさやだいご味があるような気もする。
この小説でも、「日の名残り」とは、夕方の日没時のことらしいが、それだけでなく、人生の老年と、そして、「大英帝国」の落日とに重ねあわされているという。
「しばらく前までこのベンチにすわり、私と奇妙な問答を交わしていったその男は、私に向かい、夕方こそ一日でいちばんいい時間だ、と断言したのです。たしかに、そう考えている人は多いのかもしれません。」
海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っており、桟橋の色付き電球が点燈する。そのとき、多くの群衆が集まって歓声をあげる。
そんな美しい夕暮れのような老年を迎えることは可能なのだろうか。
訳者は、「イシグロは大家になったものだと思う」と書いている。
そのとおりで、カズオ・イシグロはノーベル文学賞を受賞した。
作家にとってノーベル賞を受賞するというのは、どういう意味があるのだろう。
川端康成は暗く淫靡な作品が多いから、あまりうれしくなかったのではないだろうか。
永井荷風は、文化勲章を受賞してから、浅草のストリップ劇場に通うこともできなくなり、天丼を食べて帰るだけになった。
村上春樹にノーベル賞をという期待もあるようだが、ファンを楽しませる作品を書くのには余計なことかもしれない。
小説は、情報の伝達手段としては、とりわけ冗長で曖昧である。
逆に言えば、一つの言葉や表現が様々な含意を持つところに、小説のおもしろさやだいご味があるような気もする。
この小説でも、「日の名残り」とは、夕方の日没時のことらしいが、それだけでなく、人生の老年と、そして、「大英帝国」の落日とに重ねあわされているという。
「しばらく前までこのベンチにすわり、私と奇妙な問答を交わしていったその男は、私に向かい、夕方こそ一日でいちばんいい時間だ、と断言したのです。たしかに、そう考えている人は多いのかもしれません。」
海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っており、桟橋の色付き電球が点燈する。そのとき、多くの群衆が集まって歓声をあげる。
そんな美しい夕暮れのような老年を迎えることは可能なのだろうか。
2017年9月30日土曜日
話のもと 宇野信夫
1981 中公文庫
ある時、蘭丸がみかんを積んだ台を持って、信長の前に出た。
信長は、「そんなに積んだらいまに倒れるぞよ」と言った。
その言葉のとおり、蘭丸はころんで、みかんを座敷に散らかしてしまった。
信長は「それ見い、余の言った通りだ」と、笑った。
その後、朋輩が「あの時は御前でしくじって気の毒だったな」と言うと、
蘭丸は「気の毒がるには及ばないよ。わざところんだんだ」と言った。
大岡越前守が、新参の下男にみかんを十個持参せよと言いつけた。
下男が盆にみかんをのせて持ってきたところ、越前守は、「十個持参しろと言ったのに、九個ではないか」と言った。
下男が十個持ってきましたと言うと、越前守は、持ってくる途中で一個食したであろうと責め、下役二人に言いつけて、下男を庭の木にしばりつけて、したたかに打った。下男は、たまらず、涙を流しながら「くったくったくった」。そこへ、越前が出てきて、袂から、みかんを一つ取り出して、下役に向かって、「拷問はよせよ」と言った。
ある時、町の酒場で若い者が喧嘩をはじめて手が付けられないので、ご隠居に仲裁を頼んだ。ご隠居がそこへ行ってみると、若者がわめき、荒れ狂っている。
ご隠居は男の手をつかみ、「馬鹿野郎、早く退散しろ」と怒鳴りつけた。
すると男はその威勢におそれたのか、急に猫の子のようになって、平伏した。
見ている者は、さすがご隠居だと、ことごとく感服した。
後になって聞くところによると、ご隠居は喧嘩を知らせに来たものにわけをきくと、僅かの金の貸し借りからはじまったことだという。そこで、金を持って行って、荒れ狂う男の手をつかむ時、そっとその手に金を握らせたので、男はすぐに屈服したのだという。
ある時、蘭丸がみかんを積んだ台を持って、信長の前に出た。
信長は、「そんなに積んだらいまに倒れるぞよ」と言った。
その言葉のとおり、蘭丸はころんで、みかんを座敷に散らかしてしまった。
信長は「それ見い、余の言った通りだ」と、笑った。
その後、朋輩が「あの時は御前でしくじって気の毒だったな」と言うと、
蘭丸は「気の毒がるには及ばないよ。わざところんだんだ」と言った。
大岡越前守が、新参の下男にみかんを十個持参せよと言いつけた。
下男が盆にみかんをのせて持ってきたところ、越前守は、「十個持参しろと言ったのに、九個ではないか」と言った。
下男が十個持ってきましたと言うと、越前守は、持ってくる途中で一個食したであろうと責め、下役二人に言いつけて、下男を庭の木にしばりつけて、したたかに打った。下男は、たまらず、涙を流しながら「くったくったくった」。そこへ、越前が出てきて、袂から、みかんを一つ取り出して、下役に向かって、「拷問はよせよ」と言った。
ある時、町の酒場で若い者が喧嘩をはじめて手が付けられないので、ご隠居に仲裁を頼んだ。ご隠居がそこへ行ってみると、若者がわめき、荒れ狂っている。
ご隠居は男の手をつかみ、「馬鹿野郎、早く退散しろ」と怒鳴りつけた。
すると男はその威勢におそれたのか、急に猫の子のようになって、平伏した。
見ている者は、さすがご隠居だと、ことごとく感服した。
後になって聞くところによると、ご隠居は喧嘩を知らせに来たものにわけをきくと、僅かの金の貸し借りからはじまったことだという。そこで、金を持って行って、荒れ狂う男の手をつかむ時、そっとその手に金を握らせたので、男はすぐに屈服したのだという。
2017年6月20日火曜日
「老い」の作法 渋谷昌三
2011 成美堂出版
無理をすることなく人生を楽しみ、自分にできることを積み重ねていく。それが、老いの作法である。
年を取ると、体力も衰え、弱っていくことはたしかである。
その一方では、経験を積み重ねて豊かになっていくという一面もある。
近頃では「熟年」という言葉があまり良い意味では使われないが、年々成熟していくということである。
それでも老化によって、能力が衰えていくことは認めざるを得ない。
そこで、老後をすごすためには、考え方を変えなければならない。
能力の衰えによって失われたものにこだわるのではなく、今できることから工夫して努力してみる。
そうしたことを通じて、失われたものを補っていくことによって、人生を豊かにしていく。
孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」と言ったという。
老後に能力が衰えても、それなりに何ができるか工夫することにより、人生を楽しみたいものである。
無理をすることなく人生を楽しみ、自分にできることを積み重ねていく。それが、老いの作法である。
年を取ると、体力も衰え、弱っていくことはたしかである。
その一方では、経験を積み重ねて豊かになっていくという一面もある。
近頃では「熟年」という言葉があまり良い意味では使われないが、年々成熟していくということである。
それでも老化によって、能力が衰えていくことは認めざるを得ない。
そこで、老後をすごすためには、考え方を変えなければならない。
能力の衰えによって失われたものにこだわるのではなく、今できることから工夫して努力してみる。
そうしたことを通じて、失われたものを補っていくことによって、人生を豊かにしていく。
孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」と言ったという。
老後に能力が衰えても、それなりに何ができるか工夫することにより、人生を楽しみたいものである。
2017年4月23日日曜日
山に生きる人々 宮本常一
2011 河出文庫
日本では、かなりの山奥へ行っても家があるが、そこにはどのような暮らしがあるのだろうか。
日本の歴史は古いとはいえ、まさか弥生人に追われた縄文人が山に逃げたとも考えられない。
ただ、山奥に暮らすには、何らかの理由があって平地に居られなくなった人たちもいたのである。
山で暮らす人のうちで、やはり多いのは、杣(木こり)である。すでに奈良時代には東大寺の大仏殿、諸国の国分寺に見られるように、巨大な材木が切り出されていた。
同様に鉄や銅のような鉱山を探す人たちも多かった。鉄は、天然に産出する砂鉄を川の水を利用して集め踏鞴(たたら)で熱するが、そのときに大量の木炭を必要とする。中国山中では、鉄山師と炭焼きが多かったという。
木を加工する仕事には、木地師(または木地屋)というのもあり、ろくろを用いて椀などを製造していた。
東北地方のこけしは、木地師が半端な材木を利用して作ったものである。
サンカの集団は、箕作り、竹細工などを業としていて各地の山野を放浪していた。
マタギという狩人は、イノシシ、シカ、クマなどの野生の動物をとっていた。
そのほか、高い山で焼き畑などの農業をしている部落では、平家の落人村という伝説を持っているところがある。
これらの山奥に住む人たちの間でも互いに行き来があった。海岸から塩を山へ運ぶ塩の道があり、山岳信仰の担い手である山伏は、かなり遠くから熊野や出羽まで歩いていた。
また、木地師は、すべて近江の蛭谷と君ヶ畑を根拠地としており、惟喬親王を精神的祖としている。
何にしろ、山での生活は、概してたいへん厳しくつらいものである。
そのため、昔も気候のいいときだけ山で暮らし、冬場は行商や労働をして平地で過ごす人が多かった。
近年は、若者は、ほどんど都会へ出て行ったので、今でも山に暮らしているのは、取り残された高齢者が多い。
ただ、今は日本中どこでも道路が整備されており、どんな遠くの農林水産物でも、一両日中には東京の店頭に並ぶような時代である。
もはや、日本に「秘境」は無いのであろう。
日本では、かなりの山奥へ行っても家があるが、そこにはどのような暮らしがあるのだろうか。
日本の歴史は古いとはいえ、まさか弥生人に追われた縄文人が山に逃げたとも考えられない。
ただ、山奥に暮らすには、何らかの理由があって平地に居られなくなった人たちもいたのである。
山で暮らす人のうちで、やはり多いのは、杣(木こり)である。すでに奈良時代には東大寺の大仏殿、諸国の国分寺に見られるように、巨大な材木が切り出されていた。
同様に鉄や銅のような鉱山を探す人たちも多かった。鉄は、天然に産出する砂鉄を川の水を利用して集め踏鞴(たたら)で熱するが、そのときに大量の木炭を必要とする。中国山中では、鉄山師と炭焼きが多かったという。
木を加工する仕事には、木地師(または木地屋)というのもあり、ろくろを用いて椀などを製造していた。
東北地方のこけしは、木地師が半端な材木を利用して作ったものである。
サンカの集団は、箕作り、竹細工などを業としていて各地の山野を放浪していた。
マタギという狩人は、イノシシ、シカ、クマなどの野生の動物をとっていた。
そのほか、高い山で焼き畑などの農業をしている部落では、平家の落人村という伝説を持っているところがある。
これらの山奥に住む人たちの間でも互いに行き来があった。海岸から塩を山へ運ぶ塩の道があり、山岳信仰の担い手である山伏は、かなり遠くから熊野や出羽まで歩いていた。
また、木地師は、すべて近江の蛭谷と君ヶ畑を根拠地としており、惟喬親王を精神的祖としている。
何にしろ、山での生活は、概してたいへん厳しくつらいものである。
そのため、昔も気候のいいときだけ山で暮らし、冬場は行商や労働をして平地で過ごす人が多かった。
近年は、若者は、ほどんど都会へ出て行ったので、今でも山に暮らしているのは、取り残された高齢者が多い。
ただ、今は日本中どこでも道路が整備されており、どんな遠くの農林水産物でも、一両日中には東京の店頭に並ぶような時代である。
もはや、日本に「秘境」は無いのであろう。
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