2009年11月9日月曜日

布施克彦 24時間戦いました

―団塊ビジネスマンの退職後設計

2004 株式会社筑摩書房

1947年生まれ

「こんなはずではなかったのだ。団塊の世代はどこかで読み違いをしてしまった。若い頃安月給で一生懸命働いたのに、24時間戦ったのに、税金もしっかり払って国民としての義務も果たしたのに、どうして今社会のお荷物呼ばわりされるようになってしまったのか。」(表紙より)

「わたしは一昨年(2002年)サラリーマンを辞めたが、同世代の友人のほどんどはいまだにサラリーマンをやっている。社長や役員になって、会社を引っ張っているのもいる。窓際で燻っているのもいる。転職先で要領よくやっているヤツ。転職先の社風に馴染めず苦労しているヤツ。何度も転職を繰り返しているヤツ。
誰もが必死に生きているのだが、総じて苦労している。前向きにギンギラギンで、時代の先頭を走っていると思えるような人はいない。
全体に暗ぁい感じが漂っている。わたしの周囲にいるのが、たまたまそういった連中ばかりなのか。それならまだいいのだが。どうもそうではなさそうだ。だから社会のお荷物と言われてしまう。」(p92)

著者は1970年に総合商社に入社後、のべ15年間の海外勤務を経験し、文字通り「24時間戦った」。
団塊の世代全体が暗い雰囲気に包まれているのは、ゆゆしき社会問題であると著者は言うが、集まっては将来の年金減額の話ばかりでは、それも道理である。
団塊の世代は、このままでは、社会のお荷物になってしまう。それでは、どうしたら良いのか。

「用意されたコースを一斉横並びで走ってきた団塊の世代は、サラリーマン生活の終盤を迎えた今、前の世代とは違った生き方を求められている。新しい生き方とは何か、正解はまだない。実践中のわたし自身、暗中模索状態から抜け出せていない。」(p202)

大きな目で見れば、経済の停滞と不振という暗雲が、団塊の世代を含めて国全体を覆っている。
「団塊の世代」は、もはやマイナスイメージの言葉になってしまった。
これからは「年齢に関係ない」という社会にすべきだと思うのだが。

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