2011年9月27日火曜日

高橋典幸 源頼朝

2010 株式会社山川出版社

1970年生まれ

源頼朝は鎌倉幕府の創始者であり、生涯鎌倉を離れなかった。
しかし、それは、頼朝、東国武士、朝廷という三者に緊張関係があったからである。
源頼朝は、1147年、源義朝を父、熱田大宮司季範の娘を母として生まれ、京都で育った。
1159年、平治の乱で父義朝は平清盛に敗れ、東国をめざす途中で殺された。
頼朝は捕らえられたが、清盛の継母池禅尼の働きかけにより処刑を免れ、伊豆に流された。
長じて政子と結婚してからは、北条氏の館で暮らすようになった。
そこへ、1180年、東国の源氏に平家打倒を呼びかける以仁王の令旨がもたらされた。
頼朝は、これに応じて挙兵し、相模の三浦氏との合流をめざした。
しかし、石橋山で敗れ、海路安房へ向かい、ここで再起をはかった。
挙兵当初、頼朝に従ったのは、伊豆や相模の武士が中心であった。
再起を決定づけたのは、房総半島の大豪族上総広常と千葉常胤が帰順したことである。
石橋山の惨敗からわずか40日で鎌倉に入ったときには、頼朝の軍勢は5万に膨れ上がっていた。
頼朝挙兵の知らせを受けた朝廷は、平維盛を追討使として東国に派遣するが、富士川の合戦で、平家軍はあっけなく壊滅した。
頼朝は、逃げる維盛を追って京都に攻め上ろうとしたが、三浦義澄、千葉常胤、上総広常らに反対されて断念せざるを得なかった。
頼朝は、強いリーダーシップを発揮して、東国武士を統率したが、その資質もさることながら、以仁王の令旨を掲げたことにもうかがえるように、より上位の権威を利用しようとした。東国は、平氏系の豪族が多く、源氏の棟梁だからといって誰もがついてくるわけではない。行動するには、大義名分が必要だったからである。
頼朝は、朝廷には反逆するつもりのないことをアピールするとともに、朝廷と東国武士とが直接接触することを嫌い、御家人たちが頼朝の許可なく朝廷の官職に任じられることを禁じようとした。
頼朝は、戦場で功績をあげた御家人には、地頭職として所領を与えることによって、主従関係をより強固なものにしていった。
いっぽうでは、長女大姫を御鳥羽天皇に入内させようとしたり、朝廷との関係を深めようと画策した。
東国には実力があり独立心が強い御家人が居並んでいて、自分の武士団を持たない頼朝にとっては気が抜けなかった。
頼朝が鎌倉を離れなかったのも、東国武士にたいする警戒心を緩められなかったためかもしれない。
頼朝は、もともと京都育ちの貴族であり、鎌倉に住みながらも、心の半分は、京都にあったのであろう。
話は変わるが、こうして守護とか地頭に任じられた東国武士は、全国に散らばった。
なかでも、薩摩の島津氏は、頼朝の子孫であると称している。鎌倉にある頼朝の墓は、江戸時代に島津家が建てたものである。
また、日露戦争の英雄東郷平八郎は薩摩の出身だが、その先祖は相模の渋谷氏だという。
鎌倉時代といっても、そう古い昔ではないような気がしてくる。

2011年9月15日木曜日

司馬遼太郎 街道をゆく42 三浦半島記

1996 朝日新聞社

三浦半島は、中世以来、日本史上の重要な出来事が起きた場所である。
この地の豪族であった三浦氏は、鎌倉幕府の成立に功があった。
江戸の幕末期には、幕府によって横須賀に軍港設備がつくられ、それをひきついだ明治政府によって海軍の本拠地となった。

その昔、平安時代は、文字通り平和な時代で、死刑が行われなかったという。
そのころ、関東地方は、碓井と足柄の坂より東なので、坂東と呼ばれていた。
都の貴族にとっては、ともかく遠いところであった。中央からの支配が弱かったので、農民は独力で自分たちを守るしかなく、勇猛果敢な坂東武者が歴史に登場するようになった。
1180年、伊豆に流されていた源頼朝は石橋山で平家追討の兵をあげたが、敗れて相模湾に逃れた。そのとき、海上で三浦氏の軍勢と合流して、房総半島に上陸し、東京湾を一周して鎌倉に入ったときには、坂東各地から集まった多数の武士で、強力な軍団ができていた。それからわずか五年で、平氏は滅亡した。しかし、源氏の運命は、平氏以上に血なまぐさく、頼朝とその子の代しか続かなかった。
鎌倉幕府が安定したのは、北条執権政治の時代になってからである。鎌倉幕府によって始められた武家の政権は、それから数百年続いた。

明治時代には、横須賀に海軍鎮守府がおかれ、横須賀は海軍の町になった。海軍がもっともはなばなしい活躍をしたのは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破ったときである。
海軍は陸軍と違って合理的に考える伝統があり、アメリカと戦争しても勝つみこみのないのは十分わかっていた。それでも、山本五十六は、一年か二年だったら暴れて見せますと言った。軍人だから、負けますとは言わなかったが、負けると言ったのも同然である。負けるとわかっている戦で、勇猛果敢に戦って、みごとに散ってみせるという精神は、ことによると、坂東武者のものかもしれない。千年近くの時間を経て、坂東武者のDNAが、日本人のなかに残っていたとしても不思議ではない。

2011年9月12日月曜日

南武線平間


ガス橋付近からの多摩川上流

吉田就彦 アイデアをカタチにする仕事術

2010 東洋経済新報社

1957年生まれ

世の中、停滞していると言われつづけているけれども、「ヒット」は生れている。
映画「相棒」とか、スタジオ・ジブリのアニメとか、AKB48などの音楽もそうである。
ビジネスの世界でも、毎年、ヒット商品が生まれている。
これらのヒットを生み出すためには、宮崎駿のような「クリエイター」が、無から有を生み出しているだけではない。
「プロデューサー」と呼ばれる職業の人が、それをさらに育て、大きくしている。
さまざまなメディアを使ってヒットを生み出そうとしているのが、「コンテンツ・プロデューサー」だとすれば、会社の経営にかかわるのが、「ビジネス・プロデューサー」である。
著者によると、優れたプロデューサーには、次のような多様な能力が求められる。
1.ヒットの芽や人財を見つける「発見力」
2.世の中の動きや物事の本質がわかる「理解力」
3.ビジョンを描きゴールをイメージできる「目標力」
4.さまざまな資源を活用できる「組織力」
5.人や組織を励まし、力を発揮させる「働きかけ力」
6.トラブルや環境変化に対応できる「柔軟力」
7.実行し、達成して、次への蓄財とする「完結力」
「ヒット・プロデューサー」という達人になるためには、これらの能力を鍛え高めることが必要である。
自然発生的に「ヒット」が生まれることもないわけではないが、多くの「ヒット」は、「プロデューサー」がさまざまな資源を組み合わせてつくりだしている。
たとえば、テレビドラマでは、視聴者の目を引くのは俳優であるが、その裏では、キャラクターをつくったり、筋書きを考えたり、さまざまな役割の人がいて、さらに全体を差配しているのが「プロデューサー」になるらしい。
ただ、私にはあまり聞きなれない「コンテンツ業界」や「プロデューサー」という言葉には、まだピンとこないものがあった。

2011年9月2日金曜日

滝の川(神奈川区)


川辺の居酒屋





2011年9月1日木曜日

上横手雅敬 源平の盛衰

1997 株式会社講談社

源氏と平氏のことを「平家物語」から学ぶ人は多いのではないだろうか。
「徒然草」によれば、「平家物語」は、信濃前司行長という下級貴族が出家して比叡山に入り、生仏という盲目の法師に教えて語らせたものである。
盲目の法師が琵琶をベンベンと弾きながら語ったもので、説教、歴史、文学、芸能が入り混じっているのである。
そうなると、どうしても、おもしろおかしく聞こえるように工夫するのが当然であろう。
そこで、「平家物語」では、善玉と悪玉とがはっきりしており、平氏は悪玉扱いにされている。
奢れる平家は久しからずというわけで、平清盛は、いかにも悪者であるかのように書かれている。
しかし、平清盛が娘を高倉天皇の皇后とし、安徳天皇の祖父になるまでには、その前半生で、いかに才覚を発揮したのかは書かれていない。平清盛も、スケールの大きな人間的魅力に富んだ人物であったのかもしれない。
また、合戦の模様も、まるで絵巻物を見るように優雅にさえ感じさせるが、じっさいの戦というのは、ずっと殺伐としたものであったに違いない。こうした点でも、日本人の歴史観や戦争観に影響を与えてきたのであろう。
「平家物語」は、文学作品としてすぐれているために、かえって歴史の一面しか見えなくさせてしまうという可能性がある。
歴史上の出来事は、一度しか起こらない真実があるにしても、あとになって残されたものから解釈したり、類推したりするものだから、歴史の意味それ自体は変わっていく。

源平の陰に隠れているが、奥州藤原氏の栄華は特筆すべきである。当時、東北では、豊富に金を産出し、その富を背景にして、藤原氏は一大仏教王国を築きあげていた。このころ、日宋貿易が始まっていたので、海外にまで「黄金の島」日本の噂が広まった。
藤原氏を滅ぼして東北を征服した源頼朝は、平泉の仏教文化の壮大さに影響を受け、鎌倉を京都にならって整備し、大寺院を建設したという。