2010年11月29日月曜日

2010年11月26日金曜日

半藤一利 昭和史 1926-1945

2004 株式会社平凡社

1930年生まれ

「昭和史の根底には”赤い夕陽の満州”があった」、つまり、日本は日露戦争以来、ロシアからの報復を恐れ、日本を守るためには、当時は「満州」と言われていた中国東北部を確保することが絶対に必要だと見なされた。
満州に派兵されていた日本軍は、関東軍と呼ばれていたが、関東軍は日本の満州での地位を確固としたものにするため、満州国という傀儡政権を作るべく、満州事変を起こした。満州事変は、一部の軍人が勝手に起こしたもので、本来、厳罰に処せられるべきであったにもかかわらず、何のとがめもなかった。国際世論は、満州国を認めず、日本は国際連盟を脱退した。
その後、二・二六事件は、天皇の命令によって鎮圧されたが、これ以降、軍人によって政治が操られるようになった。中国にいた日本軍は、自分たちの手柄をたてようとして、ますます軍事作戦を拡大させていった。たとえば、憂国の青年将校の議論は、ソ連をたたくか、それとも中国が先かといったことで、とにかく、戦争がしたくてしかたがなかったのである。これに、マスコミも便乗して、ますます国中が、戦争一色になっていった。
アメリカと戦って勝つと思う人は、さすがにいなかったにもかかわらず、いずれはアメリカと戦わざるを得ないという空気が支配的となっていった。アメリカとの交渉が行きづまって、ついに戦争せざるを得なくなったが、アメリカも、また、日本を挑発したのかもしれない。
昭和天皇は、戦争をしたくなかったにもかかわらず、軍人の暴走を止めることはできなかった。しかし、最後に日本が降伏することになったのは、天皇の決断によるものであった。
この戦争では、三百万人以上の犠牲者を出した。それにしても、何とアホな戦争をしたものだと、著者は嘆いている。
昭和のはじめの20年間の教訓は、第一に国民的熱狂を作って、それに流されてはいけないということである。そうなると理性的な考え方が押しやられてしまい、アメリカと戦うなどという、してはならないことをしてしまう。
マスコミに煽られると同時に、自らも望んで、「ニッポン、ニッポン」と熱狂してしまうところが日本人の国民性にはあるらしい。

2010年11月20日土曜日

渋谷


金王八幡宮(渋谷館のあったところ)
 
鎌倉道

並木橋


2010年11月18日木曜日

瀬島龍三 日本の証言

2003 株式会社扶桑社

1911~2007

2002年に放送された「新・平成日本のよふけ」の内容を中心に構成したもの。
瀬島氏は、陸軍士官学校、陸軍大学を主席で卒業し、大本営参謀部員となり、その後関東軍参謀となる。敗戦後、ソ連の捕虜となり、シベリアに11年間抑留される。
帰国後、伊藤忠商事に入社、手腕を発揮して、伊藤忠を繊維商社から総合商社へと脱皮させた。
81年には、臨時行政調査会委員に就任した。

氏は、90歳でも、頭脳は明晰で、記憶もはっきりしている。
日米戦争のとき、参謀本部にいた氏の立場は一貫して明確で、あの戦争は、日本が特定の目的を持って米英に戦争をしかけたのではなく、在外資産凍結を受けたための「自存自衛の受動戦争」であったという。
日本は、経済封鎖を受けて石油が輸入できなくなった。
それによって陸海軍の戦闘力は失われ、工業生産も衰退して、日本の国力はどんどん落ちていき、一年後には戦争することなど不可能になっていただろう。
「窮鼠猫を噛む」という戦争だったから、はじめから勝てる見込みなどあるわけではなかった。
そのほかにも、氏は自身の戦争責任のようなことについては認めていない。
参謀だから、計画は作ったが、決めたのは上部だというわけである。

終戦のとき、全関東軍は、天皇の命令によって、一糸乱れず停戦した。
停戦交渉でのソ連との約束は守られず、スターリンの命令によって、60万人の兵士がシベリアに連れていかれた。
このとき、関東軍の了解があったのではないかと疑われたが、そうではなかったことは、後にソ連のペレストロイカによって証明された。
氏は、浄土真宗の信心の厚い家庭に育ったので、抑留中に自分の精神が不安定になって混乱しそうになると、念仏を三回唱えると、精神が安定したという。

昭和31年に、帰国して、翌年、伊藤忠に入社した。
昭和34年に正社員になってから、昭和38年には、常務になった。
昭和53年に会長になってから、その年には、日本商工会議所の特別顧問になった。
昭和55年、請われて、臨時行政調査会の委員になった。

氏は語らないが、商社や臨時行政調査会での活躍の裏には、陸軍士官学校や参謀本部での人とのつながりがあったのではないだろうか。

2010年11月17日水曜日

野中広務 老兵は死なず

2005 株式会社文芸春秋

1925年生まれ

小渕政権の官房長官、森政権の自民党幹事長を務めた。2003年、議員を引退するが、その後も政界に強い影響力を持っている。
「戦後保守政治の良識」を代表する著者は、小泉政権を阻止するため奮闘したが、敗れて、政界から身を引いた。

「小泉政権以降の経済政策をひとことで言うと、緊縮財政による焦土作戦ということになるだろう。
小泉さんの、『自民党をぶっこわす』は、まったくそのとおりのことをやっており、それは、とりもなおさず、中小企業、農家、商店といった自民党の旧来の支持基盤を、文字どおりぶっこわしながら、アメリカの巨大資本、日本のいくつかの有力資本、オリックスなどの新興金融コングロマリットを中心として経済の再編をすすめるということになる。
その際には、古いシステムはハードランディングで破壊するということになる。
その経済政策のイデオローグ的象徴となったのが、竹中平蔵氏である。」(p252)

「小泉さんの地元の横須賀には米軍基地があり、基地交付金や基地周辺事業でお金が落ちてくるので、財政面での不安がなく、陳情の必要もない。
小泉さんはいわば地方財政の苦しみ、痛みを知らない政治家で、だからこそ公共事業の縮小と言われても、何も感じずに自分の意見のように口にできるのだろう。
責任をとる立場にない民間有識者を集めて首相直属の審議会で政策を作らせ、選挙で信任を得ていない民間人を大臣に起用してそれを実施させるというのが、小泉さんのやり方だった。
しかし、この行き着くところはとても危ういと私は見ていた。」(p255)

著者は、このほかにも、小泉批判をいくらでも繰り広げている。
著者から見ると、郵政も道路も民間にまかせてしまえばいいという姿勢は、政治の放棄としか思えない。
今から見ると、「郵政民営化」が、そんなに重要なことだったのだろうかという気がするが、小泉首相は、「刺客候補者」をつぎつぎに擁立して、長年自民党に貢献した政治家を追いつめ、政治生命を奪っていった。
小泉首相は、「改革」を強調したが、おもいつきの発想を瞬発的に行っているだけで、その先にどのような日本があるのか示すことはできず、日本の屋台骨をつぶしてしまったという。
小泉首相は、「自民党をぶっこわす」と気勢をあげ、そのとおりになって、民主党の政権が誕生した。
まだ小泉政権の評価は定まっていないにしても、戦後政治の大きな節目であった。

2010年11月8日月曜日

加藤典洋 聖戦日記 抄

1999 日本の名随筆 昭和Ⅱ 株式会社作品社

1948年生まれ

「・・・先生は、黙ってうなずいていた。しばらくして、こう言われた。
たしかにドイツや日本は周辺国を併合したり、カイライ政権を樹立したりしようとした。しかしそれだって今回のクウェート進攻とは違う。クウェートの大半の住民がイラク軍を歓迎した。貧しければ貧しいほど、クウェート解放を喜んだ。ここには正義がある。ヒットラーにもヒロヒトにも、正義はない、と。
アッラーは民族を超えている。イスラムはゲルマン民族神話とも極東の異端の民族宗教とも全く違う。原爆が落ち、イラクが滅んでも、アッラーには何の関わりもない、と。
・・・サダム・フセイン大統領は日本人に言ったそうだ。
『アラブは一つの国ではない。一つが滅びれば別の国が立ち上がり、アラブの十九の国が反乱を起こす。世界十億のイスラムの人々が聖戦的殉教者としてイラクとともに戦うだろう』。
ぼくはブッシュもサダムも、好きではない。でも、戦う。誰だって、自分の住んでいるところに敵が攻めてきたら、そして友達や家族が死んだら、戦う。」
(p236)

イラクには、このような考えをもった若者がいるのかもしれない。
「自爆テロ」とか「テロとの戦い」というような単純な言葉だけでは相手を理解することはできない。
このような人たちと、どう接したらよいのか、極めて難しい問題である。

2010年11月6日土曜日

折口信夫 神道の新しい方向

1999 加藤典洋編 日本の名随筆 昭和Ⅱ 株式会社作品社

1887~1953 国文学者・歌人

「昭和二十年の夏のことでした。
まさか、終戦のみじめな事実が、日々刻々に近寄ってゐようとは考へもつきませんでしたが、その或日、ふっと或啓示が胸に浮かんで来るような気持ちがして、愕然と致しました。それは、あめりかの青年たちがひょっとすると、あのえるされむを回復するためにあれだけの努力を費した、十字軍における彼らの祖先の情熱をもつて、この戦争に努力してゐるのではなからうか、もしさうだつたら、われわれは、この戦争に勝ち目があるだらうかといふ、静かな反省が起つて来ました。」(p11)(1946年の話)

そして、著者は、日本の国に、果たしてそれだけの宗教的情熱を持った若者がいるだろうかと考え、不安でならなかった。
日本の敗色が、日に日に濃くなっていくなかで、著者は、アメリカ人の宗教的情熱のほうが、日本人のそれより強いのではないかと思い到って愕然としたのであろう。
私は神道の教義については浅薄な知識しか持っていないが、日本だけが「神」によって守られているわけはなく、ましてや、「神風」が吹くはずもない。
他方では、イスラム教徒やキリスト教徒は、民俗も国も超えて、しつこく終わりのない戦いをしつづけてきた。
日本人は、宗教心が足りないと言う人もいるが、宗教が争いの原因にならないのであれば、むしろ好ましいことである。