2009年8月31日月曜日

小林秀雄 徒然草

真贋
2000 株式会社世界文化社

1902~1983 批評家

本書は、著者の文集であるが、そのなかから。

「徒然草」(1942)より

40歳の時、書かれたもので、比較的短い文章である。著者は、「徒然草」を絶賛しており、兼好法師は、物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さを「怪しうこそ物狂ほしけれ」と表現したのだという。
「徒然草」のなかに「よき細工は、少し鈍き刀を使う、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」(第二百二十九段)という文があり、著者はこれを兼好法師が自らを形容したのであって、物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、そこに「徒然草」の文体の精髄があると解釈している。

「鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう。これは全文である。『因幡の国に、何の入道とかやいふ者の娘容美しと聞きて、人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、斯る異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」(第四十段)これは珍談ではない。徒然なる心がどんなに沢山な事を感じ、どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」

世の中には、美人で多くの男から言い寄られるにもかかわらず、決して結婚できない女がいるという内容である。地上の男と結婚するわけにはいかず、月に帰っていった竹取物語の「かぐや姫」を思いおこさせる。

一見したところ、特にどうということもないような話であるが、それでは、著者は、なぜ、「徒然草」の数多い文章のなかで、これを取り上げたのであろうか。著者の身近にこのような女性がいて、しかも、著者こそ多くの男のひとりだったとすれば、この文の意味はまるで違ってくる。こう考えると、やはりそういう女性はいたらしい。白洲正子が「銀座に生き銀座に死す」に書いている「ムーちゃん」という人で、あまたの文士のあこがれの的であったという。私は、著者が「徒然草」の文に出会ったとき、まるで自分のことを書かれているような感銘を受けたのではないかと思う。

はたして、鈍刀の話といい、娘の話といい、兼好法師が、どこまで考えていたのか知ることはできない。ただ、「どんなに沢山な事を言わずに我慢したか」、著者が言うとおりであろう。この娘も、兼好法師が若いころの想い出の人かもしれないと考えるとおもしろいが、それ以上想像をふくらませることはできない。

「徳利と盃」(1967)より
「晩酌は、長い間の私の習慣である。もう量はひどく減って了ったが、やはり一合半か二合の晩酌は、思わぬ異変がない限り欠かした事はない。自然、徳利と盃とには愛着を持つようになっている」
著者は、骨董品の徳利と盃で、毎日、晩酌をしていたらしい。酒を飲むと、ひとはしばしば饒舌になるものだが、文章の達人である著者も、ときには、ほろ酔いで書いたこともあったかもしれない。
こんな見方も、私が歳を取ってから氏の著作を読んで感じることで、若いころだったら、思いつかなかっただろう。

2009年8月28日金曜日

2009年8月27日木曜日

諸井薫 定年で男は終わりなのか

1999 株式会社主婦の友社

1930~2001

サラリーマンは定年後、どのように生きるか。
著者によれば、実は自ら好んでそうなったのではない「一見悠々自適型」のケースがもっとも多いという。「一見悠々自適型」は、そこそこの蓄えを持っているのではないかと他人からは勘ぐられ、働いて収入を得なくともなんとか老後を暮らせそうだというので、嫉妬の対象にすらなりうるという生き方である。
じっさいは、優雅な老後というにはほど遠く「やり場のない鬱屈を抱えての怏々の日々」を過ごしている人が多いのである。社長を勤めた著者の知人ですらこれであるから、おおかたは推して知るべしである。

社内にしろ社外にしろ、会社関係のつきあいは、なかば強制的なものであるから、会社をやめればつきあいにくくなる。OBが元の会社に来ても煙たがれるだけであるのは、会社に勤めたことのある者なら知っている。それでは昔よく通った飲み屋にでもと言われても、これまた行きにくくなるものらしい。「終身雇用制」のもとでは、共同体としての会社は依存心の強いサラリーマンを作り続けてきた。それでも、会社における「定年」は、学校における「卒業式」にあたるから、退職者は忘れられていく。

「『不安』になった自分を自ら慰め、友人知己はもちろんのこと、妻や子でさえ、『余生』の伴走者たり得ないことに気づいたとき男たちは、世の中に背を向け、世を捨てて生きることこそ最も『平穏な余生』であることを思い知るのではあるまいか」(p17)

著者は六十代半ばを過ぎたら、死の覚悟だけはすべきだが、あとは周囲に余分な気遣いをしながらこせこせ生きるのはやめて、諸事、我儘気儘の自然体に徹するべきであると言う。
著者の言う「我儘気儘の自然体」とはどういうことか。せっかく与えられた「長期休暇」を使い、文学、芸術、学問などに打ち込もうというのなら悪い話ではない。このように、若い頃できなかったことにチャレンジするのは、なかなか意味のあることである。しかし、体力、気力が充実し、場合によっては金銭的余裕が無ければ、時間だけあっても動きが取れない。
しばしば言われているのは、「無為の日々」が、生活のリズムを崩して無気力かつ怠惰な生活につながり、老化を早めるということだ。
とは言っても、「無為の日々」をおのずから楽しみ、若いときの良い思い出やにがにがしい後悔に身を任せるというのも老年ならではの生き方であり、それこそ「我儘気儘の自然体」ということになるだろう。
つねに追い立てられるように前ばかり見ている過去の無い人生では、何のために今まで生きてきたのかわからない。
人生において老年期は、総括の時であるとすれば、良い過去も悪い過去も振り返ってみることは老年における仕事であり、その結果、明るくなろうが、暗くなろうがかまわないのではないだろうか。自然体に振舞えば、明るくもなり、暗くもなるのである。

著者自身は、サラリーマン生活引退後も文筆活動を続け、この本が出てから2年後に病気のため亡くなっている。「息絶えるまで書き続けていたいのが、作家の業」という著者であるが、人生最後まで頑張った人であったらしい。

2009年8月26日水曜日

白洲正子 日本の伝統美を訪ねて

2001 株式会社河出書房新社

1910~1998 
本書は著者の対談集で題名と対談の相手は次の通り

工芸に生きる 草柳大蔵(1968)
日本人の心  谷口吉郎(1977)
十一面観音を語る 上原昭一(1978)
大人の女は着物で勝負 原由美子(1980)
骨董極道 秦秀雄(1985)
象徴としての髪 山折哲雄(1986)
西行と芭蕉 目崎徳衛(1989)
能の物語「弱法師」 河合隼雄(1990)
「能」一筋 友枝喜久夫(1990)
日本人の美意識はどこへ行った 鶴見和子(1994)
明治維新の元勲たちを論ず 津本陽(1995)
人間も骨董と同じで一目見たらわかるわ 阿川佐和子(1998)
人の悲しみと言葉の命 車谷長吉(1998)

私にとって、この対談集で、最も意外な相手は、車谷長吉であった。白洲正子といえば、金持ちのイメージが強いのに対し、車谷長吉は貧乏人のイメージがあるからである。車谷の小説「吃りの父が歌った軍歌」を読んで、白洲が車谷に手紙を書いたのが縁である。白洲の手紙には、「車谷さんの文章は一気に読ませる力を持っている」とか「言葉が生きている」とか書いてあったというが、車谷は、すっかり喜んで、その手紙を宝物にしていた。実際に二人が会ったとき、白洲が、「車谷さん、おそろしい、こわい」と言ってくれたのにも感激している。何年かのちに、車谷は直木賞を受賞しているから、白洲正子の見立ては、確かだったのだ。また一方では、白洲の励ましが車谷に小説を書かせたという一面もある。車谷は、高橋順子と結婚したが、それ以前から白洲は二人とも知っていて、二人が結婚すると聞いておどろいたらしい。あらためて考えると、車谷は、慶応大学に学び、文学の素養もなみなみならぬものがあるのであろう。ただ、子供の頃のことまでよく覚えている記憶力を持ち、周りの人は小説の題材にされて私事を暴かれてしまうのでは、なにかと人から敬遠されがちだったとしても無理はない。

西行と芭蕉についての話も興味深い。今では芭蕉を悪く言う人はほとんどいないが、江戸時代には攻撃した人もいた。上田秋成が「こぞのしおり」という随筆で、西行は本物だが、芭蕉は偽物であると言っているとのこと。太平の世の中に、坊さんともつかず、俗人ともつかない芭蕉が、西行を気取って歩くというのは、まやかしであるという。上田秋成の頃は、亜流の俳諧師が各地の素封家を渡り歩き、その好意に甘えていたのが目に余ったという。芭蕉自身も、確かに苦しかったこともある旅ではあったが、各地でいい思いをしたこともあったのに、それはあまり書かれていない。「奥の細道」自体が、ひとつの文学で、単なる記録ではないから、むしろ当然であろう。三木清は「人生論ノート」で、「人生は未知のものへの漂泊である」と書いているが、西行や芭蕉とかかわらせて、人生は終わりのない旅であるというのが結論である。

その他、著者は好奇心旺盛で自分の好きなことだけをやってきたというだけに、おもしろい話が多い。

2009年8月25日火曜日

河合隼雄・白洲正子 縁は異なもの

2001 株式会社河出書房新社

河合隼雄 1928年~2007年 心理療法家 ユング研究所に学ぶ。 
白洲正子 1910年~1998年 幼少時からの能をはじめ日本文化・美術などに造詣が深い。白洲次郎は夫。

「縁は異なもの」とは、専門が異なる二人であるが、明恵上人の夢の話を縁として知り合ったとのこと。本書は二人の対談をまとめたもの。

河合は骨董や美術の話は苦手だが、日本文化や能における心理についての話題では、二人は意気投合しているようだ。白洲は幼いころから能の稽古をしてきただけあって、能については詳しく、能は総合芸術だと言っている。能のシテがなにも動かないのに感動することもあるらしい。その間、地謡や囃子によって舞台は進行しているのである。白洲が心酔している能楽師は友枝喜久夫である。白洲は、能について話すとき、とりわけ熱がこもるように見える。「私の骨董の先生であった青山二郎さんから『六十の手習いというが、それは六十になって、何か新しいことを始めるということではない。いままで一生続けてきたものを、あらためて最初から出直すことだ』といわれたのですが、友枝さんの能との出会いはまさにそのようなものですね」(p72)とのことである。

青山二郎と小林秀雄は骨董を通じて非常に仲が良かった。小林秀雄の名文も青山二郎に鍛えられたおかげであるというが、二人は後には絶交してしまう。河合はこれに関して次のように言っている。「ある一定以上に男同士で仲がいいのは、これはもう同性愛ですよ。そしてそこから非常に強いインスピレイションを受けたりする。・・・夏目漱石の『こころ』なんて西洋人が読むと同性愛の物語だと思うんです。普通日本人はそんな風には決して読まないでしょう。そういった意味で同性愛の問題というのは文化比較やるとむちゃくちゃ面白いねえ」(p123)

青山二郎は、自分では何もせず、他人の書いたものによって自分の存在を際立たせている特異な人物であったという。よほど個性が強い天才肌だったのであろう。河合は白洲の「いまなぜ青山二郎なのか」を読んで、青山の「魂があるんだったら形にでるはずだ」という言葉に感激したという。もっとも、こういう人物と長くつきあっていられた人はかなり少なかったようである。

2009年8月24日月曜日

新子安

一之宮神社


2009年8月21日金曜日

川本三郎 我もまた渚を枕

東京近郊ひとり旅
2004 株式会社晶文社

1944年、東京生まれ。映画・文学・都市を中心に評論活動を続ける。

「背表紙」より
「消えゆく下町を見つめてきた著者が、変化の激しい東京を一歩離れ、『旅』に出た」

「あとがき」より
「雑誌『東京人』に『東京近郊泊まり歩き』と題して連載したものである。千葉県、埼玉県、神奈川県と首都圏の三県にある町に出かけ、気ままに歩き、夕暮れ時に、居酒屋に入り、ビールを飲む。そんな無為な小旅行を約1年間、楽しんだ。・・・知らない町を歩いていて、いちばん心ときめくのは、昭和二、三十年代の古い町並みに出会ったとき。表通りから、一本、路地に入るとそこに銭湯があったり、豆腐屋があったりする。昭和十九年に生まれ、昭和二、三十年代のまだ日本が貧しかった頃に育った人間としては、そんな路地や横丁に出会うと無性に懐かしくなる。自分の町でもないのに、昔、住んだことがあるような町に思えてくる。町歩きとは、記憶のなかにしかないかつての幻の町を探し求める旅なのかもしれない」

三県別の内訳は、つぎのとおり。
千葉県:船橋、我孫子、市川、銚子、千葉
神奈川県:横浜鶴見、横浜本牧、小田原、川崎、横須賀、横浜(寿町・日ノ出町・黄金町)、藤沢・鵠沼、厚木・秦野、三崎
埼玉県:大宮、岩槻

こうして見ると、昔から人が住んでいた地域が多い。こうした町には、はなばなしさとは無縁の置き去られたような場所が今でも少し残っている。
日本では、古い建物を残して使うということをせず、壊して建て替えることが多い。都市計画法とか建築基準法によって、新しく建て替える時は防火建築でなくてはならないとか様々な行政上の規制もある。そのため、古い町並みが、すっかり変わってしまい、特徴のない建物やマンションが建ち並ぶ。残された古い建物も、やがては壊されてしまうと思うと懐かしさを覚えずにはいられない。

著者は、昔の小説や映画の舞台となった場所も探し、訪れている。私も、過去の記憶が印されているような古い町をあてもなく歩いてみたいという気持ちになることがある。

本書が書かれてからわずか5年ほどであるが、町の様子は日々変わっている。かって高齢者がひとりで住んでいたらしい空家も、ちらほら目につくようになった。
古い家は取り壊され、空いた土地は駐車場、建売住宅、アパート、マンションなどに変わっていく。

2009年8月20日木曜日

吉永良正ほか アキレスとカメ

―パラドックスの考察
2008 株式会社講談社


1953年生まれ サイエンスライター

「アキレスとカメ」の話は、2500年前、古代ギリシアの哲学者ゼノンが言ったと伝えられている。足の速いアキレスが、足の遅いカメに追いつけないという話である。
アリストテレスの「自然学」では、つぎのように書かれている。
「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである」(p20)
この話は、数学では無限とか連続とかの概念に到達しなければならないほど奥が深いという。
ここで、この話を聞いた時、いわゆる文系の人と理系の人とでは反応がまるで違うと著者は言う。典型的な文系の人の反応は、「現実的にありえない」、「なんだ、こんなもの」といったところである。「ぐちゃぐちゃこんなもの考えているのか」とあきれて、しまいには怒り出しかねない。
古代ギリシアでは、哲学や数学が盛んであったことが知られている。もっともその頃は今のように両者は分かれていなかったのだが、そのような議論をする人たちを哲学者というならば、ギリシアの哲学者は、おおかた、ろくな死に方をしていないらしい。ピタゴラスは教団に反発する暴徒たちによって焼き殺された。この話の主であるゼノンは、エレアの僭主に反抗したために拷問にあい、処刑されたという。
一般人にとってわけのわからないことを考えている人は、今でもそうだが、反発を受け、攻撃されやすいらしい。
それでも世間の論理ではなく、自分が見出した普遍の論理に従うのが真の哲学者や数学者の態度である。
「アキレスとカメ」のような問題を論理的にまじめに考えた人たちがいたおかげで、今日の数学の発展もあるとのことである。

2009年8月19日水曜日

東神奈川

三井倉庫


2009年8月18日火曜日

スザンナ・ジョーンズ 睡蓮が散るとき

2003 阿尾正子訳 株式会社早川書房

著者は1967年イギリス生まれ 
名古屋の高校、千葉の中学と高校で英語の教師を務めた経験がある。

本書は心理サスペンスで、二人の登場人物が上海行きのフェリーで出逢うとき、恐ろしい結末が待っている。
一人は中高一貫の私立校で英語を教えている女性教師、もう一人はイギリス人男性で理想の結婚相手を探すため日本を訪れている。
女性教師は、現代の日本女性らしく、道徳や倫理感に縛られない行動からスキャンダルを起こし日本を逃れようとする。一方のイギリス人男性は、東洋の女性は、やさしく従順だというふれこみのパンフレットを見て日本に来ていたが、理想の相手は見つからず、こんどはインターネットで知り合った中国人女性に会おうとする。
孤独な若い女性、東洋人女性にあこがれているイギリス人、この二人の心理と行動はかなり自然に描かれているので、いつのまにか読み進んでしまう。
3回と計5年間にわたる日本での経験によって著者の才能が目覚めたのであろう。

2009年8月17日月曜日

サイモン・メイ 日本退屈日記

日本の凋落と再生
2005 中村保男訳 麗澤大学出版会

著者は1956年生まれ 哲学者・実業家 ロンドン大学教授

原書は"Snapshots from Behind the Akamon Gate"、2000年~2001年、東京大学客員教授であったときの話である。

著者の印象では、「日本一の有名大学である東大は、当の日本国を圧殺させつつあるカフカばりの迷宮世界的な官僚制や、その無責任・非能率という小宇宙を私の目の前にさらけ出したのである」(p5)という。

日本を去るにあたり次のような確信を持ったという。「日本に必要なのは、価値観の革命にほかならず、しかもそれは1868年の明治維新に匹敵する抜本的な革命でなくてはならぬのだ。・・・」(p5)

本書には西洋人から見た日本人の日常生活の様々な面が印象深く書かれている。「日本人から教えられるのは、単なる諦めではなく、むしろ歓喜の情をもって自分の宿命を受け入れる態度であり、愛し方であり、受けた傷の忘れ方である」(p5)

著者にとっては法人化される前の東大事務局のあまりの煩瑣な手続きが日本官僚機構の悪夢として記憶されることになった。日本のサラリーマンの場合であれば会社が役所の手続きを本人に代わってするシステムになっているので、煩雑さが意識されないのかもしれない。役所の場合、形式と書類にこだわるが、逆にそれさえあればいいというところが非効率かつ無責任と受け取られることが多い。

著者は鎌倉に住んでいたが、通勤電車での出来事として「人身事故」すなわち自殺による電車の遅延が日常茶飯事であること、電車内で年配の男性が分厚いマンガ雑誌を読んでいること、ほどんどの乗客が、座っているいないにかかわらず、朝からウトウトとするか熟睡していることなどを観察してあもしろく書いている。

学生たちについての印象は「私が学生たちから敬意の表明を受けたのは、初対面の時だけだった。その時は、丁寧なお辞儀をされて『センセイ』と呼ばれたのであるが、その後はどうかと言えば、学生たちは大胆で、ざっくばらんで、要領がいい。講義の最中でも、好きな時に入室したり退室したり、疲れるか飽きるかすれば、居眠りをする。質問の仕方は単刀直入で、その内容もたいがいは質が高いのだが、他方、携帯電話の電源はつけっぱなしで、忍び笑いやひそひそ話にうつつを抜かし、はては、どこの学生とも同じように、いちゃつきあっている男女までいた」(p46)などである。「私は、なぜ日本は異質で不可解な国であると一般的には考えられているのだろうかと首をひねった」という。そのうえ、著者が教授生活を終えた時には、著者の存在は、ほとんど学生たちから忘れられてしまったように感じたと嘆いている。

そのほか、著者の下宿している家の夫婦やその友人や親族との交流を通じてさまざまな日本人の日常生活や日本文化について書かれている。
著者は、哲学者であるから、哲学的な思考や日本人と西洋人との考え方の違いについてかなりつっこんだ議論をしているが、こちらはかなり難解である。
著者の日本文化にたいする愛着は並々ならぬものがあり、京都の石庭、旅館でのもてなし、懐石料理、上等の寿司などを絶賛している。

短期間の滞在であるにもかかわらず、著者の日本および日本文化に対する考察は鋭く、時に辛口である。とうてい全部は書ききれないが、少し引用してみたい。

「自己検閲こそは日本の特技なのである。必要とあれば、日本人ひとりひとりが自分自身を弾圧する圧政者となるわけで、日本という国は独裁者のいない独裁政治国家に似ている場合が多いのだ」(p94)

日本は、中国や朝鮮を侵略したことに対しても十分な陳謝を行うことはないだろうと述べ、「その理由は、日本人の倫理によれば、あの戦争は間違いであって犯罪ではなかったからだ。残虐行為は戦争の副産物であり、いわれのない残虐行為ではなかったというわけなのだ」(p97)

「日本式健忘症」では、「忘れるという粗暴な技術を会得した国ありとすれば、それは日本国である。・・・日本人は、記憶を食い物にする不快な感情―とりわけ怨恨や罪悪や苦悩―から驚くべきほど自由なのである。・・・」(p123)

ただ、著者は日本の将来についてはそれほど悲観的ではないようである。
日本は19世紀このかた、世界のどの国民よりもひんぱんに大変革を行ってきたし、危機に際してそのつど日本人は弾力的に適応してきた。それでも、来るべき十分な改革は最後の土壇場まで先送りされるか、あるいは改革がされない危険も残っている。

「訳者あとがき」では、「日本と西洋との落差・懸隔をこれほど奥深く、しかもさりげなく感動的に語った本は稀である」と書いてあるがその通りだと思う。日本と西洋とでは、同じ言葉の意味することが深いところで違っていることはよくあることらしい。

2009年8月16日日曜日

子安

子安浜


2009年8月15日土曜日

生麦

杉山神社


2009年8月14日金曜日

養老孟司 小説を読みながら考えた

2007 株式会社双葉社

(ようろう たけし)1937年生まれ 解剖学者

元昆虫少年で、今でも昆虫採集をしている。アイロンの蒸気を固くなった虫に当てて柔らかくする。堅くなって脚がまるまっている虫の脚を伸ばす。これを展足という。こういう細かい作業を今でもやっている。
推理小説やファンタジーなども含め読書量も非常に多く、著者にとって読書は現実逃避の手段でもある。本は現実とは別の世界に連れていってくれるから老人でも少年になれる。
いまでは解剖はやっていないが、いろいろなところで活躍しているマルチ人間である。

「昆虫少年と世間」から
(p51)「日本ではどんなグループであれ、ウチソトが分離する。これはじつは世間の構造そのものである。まったく世間の外の人は、だから『外人』になる。世間とはじつは共同体で、日本最大の共同体は日本国である。その家長が天皇だということは、いうまでもあるまい。その意味では、天皇は政治という機能のトップではない。共同体はそもそも機能体ではないからである。だから天皇とは統治という機能のヘッドではない。まさに共同体の『統合の象徴』である」
(p52)「世間という言葉自体が、社会を意味する日本固有の表現である。それならなぜ社会といわないのか。ウチから社会を見たときに成立する表現が世間であり、ソトから見たときに成立するのが社会なのである。日本の世間に、外の世間がじかにぶつかることはなかった。それなら社会という言葉は不要だったはずである。つまりすべての日本人にとって、社会とはウチから見たものだった。だから世間という言葉があって、社会という言葉は明治に入って西欧の文献を翻訳するときの造語なのである。だから社会をひっくり返せば、会社になる。これもその頃の造語である」

著者は世間の構造はきわめて強く、日本の組織が完全な機能体になることは、まずないという。著者は、日本的共同体のひとつである医学という業界から、いつの頃か、外れてしまった。
不安定ではあるが、あいまいなウチとソトの境界である塀の上を歩いているというのが好きなようだ。

2009年8月13日木曜日

小松和彦 阿倍晴明 「闇」の伝承

2000 株式会社桜桃書房

1947年生まれ 文化人類学・民俗学者

阿倍晴明は平安中期に活躍した陰陽師であると言われているが、正式の歴史にはほどんど書かれていない。陰陽道とは、古代中国に起こった陰陽五行説を中心とする思想および技術が日本独自の展開をみせた呪術を中心とした宗教である。平安時代の貴族たちは陰陽道を深く信仰し、それに縛られた日常生活を送っていた。

陰陽道は近代に入ってからはほとんど忘れられていたが、最近になって荒俣宏の「帝都物語」や夢枕獏の「陰陽師」そして岡野玲子のコミック「陰陽師」などによって若い人たちを中心に阿倍晴明への関心が広まっていった。陰陽道は現代人が知らないだけで、長い歴史を持ち、日本文化の形成に大きな役割を果たしてきた。
著者は阿倍晴明ブームの仕掛け人の一人であると目されていて、妖怪、異人、異界といった言葉で表わされる「闇」の文化を研究している。「闇」の文化を研究することによって、昔からの日本人の思考原理と行動原理を明らかにできると考えている。妖怪に対する一般の関心も、水木しげるの妖怪まんがや宮崎駿のアニメなどの影響もあって高まっている。

著者は、高知県の物部村に伝えられてきた民間信仰「いざなぎ流」の研究もしており、「いざなぎ流」が陰陽道の伝統とつながっていることを発見した。「いざなぎ流」は今や後継者もなく消滅寸前の状態にある。陰陽道や阿倍晴明は一種のブームとなってしまったが、著者は、さらなる「闇」の伝承が人知れず眠っていると思っている。
ほとんど絶滅寸前の民俗伝承を調査することはいまや困難をきわめる作業であるが、著者の探究に、おおいに期待したい。

2009年8月12日水曜日

2009年8月11日火曜日

波頭亮 プロフェッショナル原論

2006 株式会社筑摩書房

1957年生まれ 経営コンサルタント

プロフェッショナルとは、「高度な知識と技術によってクライアントの依頼事項を適えるインディペンデントな職業」である。
プロフェッショナルという概念は、古代ギリシアで医学の父と称されるヒポクラテスに始まる。「ヒポクラテスの誓い」には、正当な医者としての掟が7ヶ条にわたって示されている。
そのなかでも、
・患者の利益を第一とする
・男と女、自由人と奴隷とを差別しない
・患者の秘密を守る
という項目などは現在でも同様に尊重されている。このようにプロフェッショナルは厳しい使命感と掟とを背負っている。

プロフェッショナルの仕事は、一口に言えばハードである。「プロフェッショナルの世界は完全な実力主義である故に、年齢がいくつになっても厳しい競争にさらされていることも忘れてはならない。
50代、60代になってからも、最新のノウハウを習得して一人前に育ってきた30代や40代の新進気鋭のプロフェッショナル達と能力を競い合わなければならないのであるから、悠々自適の余裕の生活なぞ望むべくもない。・・・
プロフェッショナルな職業の特性を考えると、強靭な体力と鋭い頭脳の切れ味の両方が必要とされるが、また一方で、経験の蓄積によるスキルの向上という要素も大きい。こうした要素を考え合わせるとプロフェッショナルの職業人としての能力的ピークは40代後半から50代前半といったところだろうか。・・・」(p118)

著者のイメージするプロフェッショナルとは、医師、弁護士、会計士、建築士あるいはコンサルタントなどの自由に自分自身の能力を発揮できる職業である。それでも能力が最大限に発揮できるのは40代から50代であると想定されている。

近年、社会はますます複雑化、高度化しているため、高度な知的サービスを提供するプロフェッショナルに対する社会的要請は高まっている。いっぽうで、プロフェッショナルは一般からは一種のブラックボックスである。そのため、経済合理性またはカネがすべてという現代社会では、プロフェッショナルによる犯罪や不祥事も起きやすい。
著者は、職能をみがき、プロフェッショナリズムの掟を守ることの有効性と合理性を主張している。

私は、今日ではサラリーマンであっても、プロフェッショナルであるべきであるし、そうである場合も多いと思う。会社の仕事も専門化されており、相応の能力を要求される。仕事には、固有のノウハウがあり、仕事を習得し実際に使えるようになるには時間と労力を要する。会社は、地位や収入よりも、自分の仕事に誇りを持ち、自分の仕事を守るというプロフェッショナル意識のある人たちによって支えられている部分が多い。

しかし、時間と労力をかけて社内で獲得したプロフェッショナル的な能力や意欲も、配置転換や移動あるいは子会社や取引先への出向などによって徐々に色あせていく。むしろ、それは会社という共同体のルールである。日本の会社は村社会的共同体であり、能力を持ち自主独立の気概のあるような人は危険な人物とみなされがちである。したがって、そういう人は30代~40代で会社を出た方がいい場合がある。言いかえれば、そういうケースがあるから危険視されるのである。
多くの会社は、ひたすら組織への帰属意識の高い人間をつくって秩序を維持しようとしている。会社は専門家を必要としないし、社内に専門家がいることも認めない。
プロフェッショナルは必要な時には会社の外部に求めることになっている。サラリーマンはプロフェッショナル意識よりも、会社に対する忠誠心をはるかに多く要求されてきた。通常は、そうして最後まで残ったものが会社のトップになるのだから、それも無理のない話である。

2009年8月10日月曜日

中山治 「生き方探し」の勉強法

2002 株式会社筑摩書房

1947年生まれ 心理学者

著者は長年にわたって日本人の国民性を研究してきた社会心理学者。
日本人の国民性を踏まえた「生き方探し」の勉強法を展開する。

今日の日本は多様な生き方が求められている、というより、そうせざるを得ない時代である。著者は「生き方探し」で大事な最初のステップは、いきなり動き出すのではなく、まず「心の体力」を取り戻すことだと説く。「生き方探し」を云々する前に、就職活動やリストラにともなうストレスで「心の体力」を消耗してしまっている人があまりに多い。今日、若者の失業率は高く就職活動での挫折によって「心の体力」を消耗している人は少なくない。また会社でうまく適応できた人にも、キャリア・ショックがある。キャリア・ショックとは自分がいままで築いてきた技術やノウハウがまったく役に立たなくなるような急な方向転換を迫られることである。最後に、リストラや定年後に起きるストレスがある。

このようなときに大事なのは、「心の安静」を保って「心の体力」が回復し「そろそろ何かしたい」「動きたい」という気持ちが体の中から湧いてくるのを待つことである。つぎに、幅広く試行錯誤をしてみる。その後、自分を冷静に格付けし、自分の比較優位を考慮に入れて目標を設定する。目標設定も目標の変更も、最後は自分の直観を信じて自己責任で決める。まったく同感であるが、けっきょく「自分の生き方」とは、人それぞれが悪戦苦闘して探すしかないらしい。

定年退職後の元サラリーマンの場合はどうか。もともとサラリーマンという職業は会社のために働いてきたとはいっても、個人の目標や目的とは別のものであった。他の世界では大家になっていても不思議ではない年齢ではあるが、サラリーマンとしては、もはや用がないのが定年である。これでは、ちょっとやそっとでは「心の体力」は回復しそうにない。会社のストレスが無くなったのはいいが、別のストレスがせまっている。身体の体力も衰えている。無理はしないで、すこしずつ試行錯誤をかさねていくしかないようだ。

2009年8月7日金曜日

鶴見川

新横浜付近の鶴見川
(河口から10キロほど)



2009年8月6日木曜日

原田泰・大和総研 世界経済同時危機

グローバル不況の実態と行方
2009.2 日本経済新聞出版社


今回の金融危機について、著者は「アメリカが危機に陥ると、世界が危機に陥ってしまった。逆説的だが、アメリカ発の金融危機によって、世界はアメリカの力を思い知ることになった。ドルは基軸通貨であり続けるだろうし、アメリカが世界の基軸国であることは変わらない」(p7)「自由な人々の選択が、社会をより良いものにするというアメリカの夢は生きている。政権は交替し、責任者も変わる。チェンジは起こっている。失敗の原因を明らかにしてチェンジの起こせる社会が世界を導くという原則は変わらない」(p7)という。
そして、「アメリカ発の世界金融危機は、当然にアメリカ経済に打撃を与えている。・・・しかし、アメリカ政府、米連邦準備理事会の対応が迅速なことにより、不況は2009年には終わるだろう。回復の足取りは緩やかであるにしても、09年末にはプラス成長を確認できるだろう」(p98)としている。

日本については、サブプライムあるいはその他の証券にかんする直接の損失は、欧米にくらべて大きくないし、金融市場の混乱も少ない。にもかかわらず、日本への影響は欧米以上に大きいと予測されている。IMFの予測によれば日本の実質GDP成長率はアメリカ、ユーロ圏より低い。また、株価指数の下落率も主要国のなかで最も大きかった。

アメリカ発の金融危機の影響が日本での方が大きい理由の最大のものは、日本の輸出がアメリカに依存していることにある。アメリカに直接輸出しているばかりでなく、中国への輸出も、けっきょく最終需要のかなりの部分はアメリカの消費者が担っている。日本はアメリカの豊かな消費者向けの製品を提供してきた。輸出の主流は高級車、SUV(多目的スポーツ車)、大型テレビなど高付加価値製品である。これらの製品をつくっている輸出型の企業が国際優良株としてもてはやされてきたが不況による打撃も大きかった。
「しかし、だからといって、どうすればよかったのだろうか。日本の人口は減少し、一人当たりの所得もたいして増えない。将来のことを考えれば、海外の市場に依存するしかない。高い日本の賃金では安物をつくれないから高付加価値の商品に特化していた。・・・内需を増やせといっても、いまさら無駄な公共事業でもない。これしかない状況の中での戦略だったと言うしかない」(p212)

「日本の不況はアメリカの需要縮小によって起こった。・・・であればアメリカの需要縮小が収まるとともに日本の景気回復も進むだろう」(p227)

アメリカが基軸国である続けるであろうという理由は、ヨーロッパは、今回の危機でアメリカに負けないだけの不良資産をつくってしまった。しかも、その責任も明らかにされていない。また中国のように透明性と説明責任の問われない国には世界をリードする力はないと著者は言う。

けっきょくアメリカの需要は適切な政策により必ず回復するし、世界経済そして日本経済もアメリカに続くというのが著者の結論である。

今回の金融危機により、世界のどの国もグローバリゼーションの進展によって相互に依存しあっていることが明らかになった。そして、いまのところリーダーになれるのはアメリカしかない。

2009年8月5日水曜日

菊地正俊 お金の流れはここまで変わった!

2008.11 株式会社洋泉社

著者は、メリルリンチ日本証券 1986年東京大学農学部卒業

2008年は米国サブプライムローン問題をきっかけに、世界の株式市場は大暴落した。原油や穀物などの価格も史上最高値を更新した後に急落した。いっぽう、家計の所得が伸び悩んでいるのは中国などとの競争激化の影響が大きい。このように経済のグローバル化は、日本の地方で生活している人たちにもけっして無縁ではない。

最近値動きが大きかった原油、食品、株式、債券、不動産などの保有や取引状況を明らかにし、今後どのような投資が望ましいかを指南するのが本書の目的であるという。

株については、外国人投資家の日本株売買シェアは6~7割であり、日本株は外国人投資家の売買次第である。投資信託は、世界的な株価下落や円高によって、基準価格が下落したものが多い。しかし、現在のような混乱期に投資すれば将来報われる可能性は高いと著者は言う。ただ、証券会社の立場からの発言のようで、投資信託で大損した投資家はそれどころではないだろう。

「銀行や保険会社に預けられた資金はどこへ行くのか」では、郵政民営化後もゆうちょもかんぽも国債中心の資産構成である。銀行は貸付金が5割、国債は1割である。生保の運用のうち国債は2割である。
いっぽう2008年3月末で普通国債残高542兆円の所有者別内訳は、銀行等4割、生損保2割、公的年金1割、日本銀行1割、海外7%、家計5%などとなっている。

国の会計は一般会計以外に特別会計があり、特別会計の資産と負債の差額は「埋蔵金」と呼ばれ、その有無や規模が大きな政策論争になっている。埋蔵金論争の火付け役になったのが、東洋大の高橋教授である。

年金制度改革については、経済成長は想定を下回り、少子高齢化ペースは上回っているため、さらなる改革が求められている。2004年の年金制度改革で年金保険料は2017年までに段階的に引き上げられた後、固定化されることになっている。全国民共通の基礎年金(国民年金)の国庫負担割合は、現在3分の1である。2008年5月に社会保障国民会議は、基礎年金を全額税方式に移行した場合、2009年の消費税率は9.5~18%になるとの試算を発表した。麻生首相は、日本経済の景気回復後、消費税率を10%に引き上げて、基礎年金を全額税負担にするのが持論である。

不動産市場も株式同様、外国人投資家の影響度が増している。サブプライムローン問題が深刻化し、海外金融機関が日本向け不動産融資を絞ると、日本の新興不動産企業が相次いで倒産した。もっとも、姉歯耐震強度偽装事件をきっかけとした建築基準法改正によって住宅着工件数が大幅に落ち込んだことも景気の悪化に影響した。

人口が減少している日本では、外国人観光客の誘致と移民の解禁が課題である。2008年10月、政府は観光立国推進のために、観光庁を創設した。日本は移民を早く解禁しないと、世界的な人材獲得競争にも負けてしまう。いまでも優秀な中国人や韓国人は、皆欧米に留学している。

経済や金融のグローバル化の流れは変わらない。逆に言えば、いまこそ世界に飛躍するチャンスであると著者は書いている。

2009年8月4日火曜日

大森町

大森ふるさとの浜辺公園
昭和37年まで海苔漁業がおこなわれていました

2009年8月3日月曜日

岩田規久男 金融危機の経済学

2009.2 東洋経済新報社

著者は1942年生まれ 現在学習院大学教授

サブプライム・ローン問題の本質および、なぜそれが世界金融危機を引き起こしたのか。世界的な金融危機になったのはアメリカの政策のどこが問題があったのか、そして、この経験を生かして、今後どのような金融危機防止政策をとるべきか検討している。

今回の危機は投資銀行や保険会社のようなFRBの監督下にない大型金融機関の破綻がきっかけとなっている点に特徴がある。投資銀行やヘッジファンドなどの預金を取り扱わない金融機関が急成長していたが、これらは信用不安が起きるとたちまち資金調達難に陥ってしまう。また債権を証券化した金融商品を大量に取り扱っていた。
これまでのような銀行中心の金融安定化・危機対策には大きな限界があった。
金融システム全体のリスクを軽減するため、金融システム全体を統合的に監視できる機関が必要であるという。

「第6章 2008年世界金融危機の教訓は何か」のうち、銀行の自己資本比率規制と有価証券の時価評価の問題についてとりあげたい。

現在の金融安定化の主要な手段である銀行だけを対象とする自己資本比率規制にも問題がある。銀行には自己資本規制が課せられているのに投資銀行やヘッジファンドのような非銀行金融機関には課せられていない。自己資本規制が課せられていないと、目一杯借り入れて、投資収益率を高めようとする。つまり、できるだけレバレッジ比率を高めようとする。レバレッジ比率の高い投資銀行やヘッジファンドは金融危機に対して、きわめて脆弱になっている。

バブルが崩壊すると、銀行が保有している株式などの有価証券の価格が低下し、評価損の一部は自己資本を減らす。銀行は自己資本比率を維持するため、貸出や証券投資を抑制しなければならなくなる。その結果、金融危機はさらに深まり、景気が悪化する。投資銀行も借金を大幅に減らしてレバレッジ比率を低下させなければならず資産価格の暴落と景気の縮小をますます促進する。

金融危機においては、以上のような有価証券の時価会計について問題点があり、金融機関等から「投げ売り価格で時価評価するのはおかしい」という時価会計の一時凍結が要望された。日本においても、金融庁が2008年11月、銀行の時価評価の一時緩和の特例措置を発表した。(金融庁「銀行等の自己資本比率規制の一部弾力化について」)これにより、国内基準の銀行については2012年3月決算までの間、株式・社債等の評価損を自己資本に反映しなくてよいことになった。言いかえれば、自己資本を減らさずにすむことになった。

時価評価の問題は、現在検討中であり、結論は出ていない。