2010年12月28日火曜日

御立尚資 戦略「脳」を鍛える

BCG流 戦略発想の技術

2003 東洋経済新報社

企業にとって、戦略とは競争相手に対する優位性をつくりあげることである。
ここで、誰かが成功パターンを見つけると、他の多くの企業がまねをするので、そのやり方では差別化できなくなる。すると別の誰かがユニークな戦い方を考案し、勝ちを収める。
このように、経営戦略は発見・模倣・陳腐化・イノベーションを繰り返すのが特徴であり、「定石を超えた戦い方のイノベーション」が、戦略の本質である。
経営のプロ同士が競争する自由市場においては、戦略論の定石を知ってたうえで、新たな戦い方をつくることのできる「プラスアルファの能力」を身につけた者が優位に立つことができる。
この「プラスアルファの能力」を、著者が所属するボストン・コンサルティング・グループでは、「インサイト(Insight)」と呼んでいる。インサイトは、日本語にすると「直観」とか「洞察力」という意味になるが、やや異なったニュアンスて使われている。
「インサイト」を理解し、体験することによって、戦略構築能力を鍛えていくことが「戦略脳を鍛える」ことである。
「インサイト」の構成要素は、パターン認識、グラフ発想、シャドウボクシングという「スピードの三要素」、拡散、フォーカス、ひねりという「レンズの三要素」、以上の六つである。
戦略をたてるには、これらの要素を個々に使うのではなく、いくつかの要素を組み合わせたり同時に使ったりする。
本書によると、「インサイト」は学ぶだけでなく、自分で使う体験を積み重ねていくことが決め手となる。
自分自身で戦略について悩み抜き、そのなかで自然に使う感覚を感じる体験を蓄積することが重要である。
自動車の運転にしてもゴルフにしても、本を読むだけでは身に付かず、実際にやってみなければならない。
経営戦略の能力を高めるのも同じことで、実際の体験を積み重ねることがきわめて重要なのだという。
わかりにくい「インサイト」であるが、経営者の戦略構築力の巧拙が経営成績の差につながるのは理解できる。

2010年12月27日月曜日

2010年12月26日日曜日

吉村昭 史実を歩く

平成10年 株式会社文芸春秋

昭和2年生まれ

生麦事件の調査

1862年、島津久光の行列が東海道生麦村にさしかかったとき、イギリス人4人が馬に乗って行列のまえに立ちはだかったため、従士が怒り、殺傷したのが生麦事件である。著者は、歴史小説を書くため取材をして、いくつかの事実を知ることができた。
イギリス人は、横浜村在住の商人マーシャル、クラーク、リチャードソンと女性のマーガレットで、川崎大師を見物しようとしていた。
4人は、日本の風俗習慣に通じておらず、大名行列に敬意を払わねばならないことを知らなかった。日本人の外国人にたいする敵意についても十分に理解していなかった。
行列は、4百人あまりの従士によって組まれ、先導組、久光の乗り物を警護する本隊、後続組が一定の間隔を置いて進んでいた。
一行が出会った生麦村は、江戸湾の魚介類が豊富に揚げられる土地で、商店や茶屋、質屋、医者の家などが街道の両側に建ち並んでいた。
マーシャルたちは、先導組の険しい視線をやりすごすことはできたが、つづいてやって来た本隊は、左右に大きくひろがった規模の大きな集団であった。
マーシャルたちは道の左側に馬を寄せて通り過ぎようとしたが、興奮した馬が行列の中に踏み込んでしまった。
激昂した藩士たちは抜刀し、警護を指揮していた奈良原喜左衛門が、リチャードソンに走りより、左脇腹を斬り上げ、さらに左肩から切り下げた。マーシャル、クラークも他の藩士たちに斬られ、二人は無傷のマーガレットとともに馬で逃げた。
4人が斬られたのは、地元の郷土史家の資料によると、質屋兼豆腐商を営んでいた勘左衛門の家の前であった。
著者は、さらに事件後に生じたすさまじい余波について書きすすめたとき、殺傷についてのある疑念が浮かんできた。
奈良原は、リチャードソンの左脇腹を深く斬り上げ、返す刀で肩から斬り下げているという。
当時のイギリス人記者が書いた記事によると、リチャードソンの乗っていた馬は、アラブ系の馬である。
大型の馬に乗ってたリチャードソンの体は、奈良原よりかなり高い位置にあり、はたして肩から斬り下げることができたのであろうか。
そこで、薩摩の剣術について取材したところ、奈良原の剣は、野太刀自顕流という流派で、長大な大太刀を使うものであった。
著者は、鹿児島に行き、実物の太刀と「抜」という自顕流の技を目にして、はじめて実感することができた。
この事件ののち、イギリスと薩摩の間で、薩英戦争がくりひろげられ、両者が互いの実力を認めあって親交をむすぶようになった。
イギリスから最新の兵器を手に入れた薩摩は、戊辰戦争で旧式の武器しか持たない旧幕府側の大兵力を蹴ちらした。
もし、この事件がなければ、日本の近代史も、また違ったものになっていたことであろう。

2010年12月20日月曜日

副島隆彦・佐藤優 暴走する国家 恐慌化する世界

平成20年 株式会社日本文芸社

副島隆彦 1953年生まれ

佐藤優  1960年生まれ

言論界で注目されている二人による対談である。
佐藤優は独特の個性があるが、一方の副島隆彦も自らを預言者あるいは霊能者と称している。
佐藤優によると、ロシア語で「イエズス会士」というと、「偽善者、策略家」という意味がある。それは、イエズス会という組織は現地の習慣にできるだけ順応し、相手の社会に入り込もうとするからである。
16世紀ごろ、イエズス会は、見た目にはロシア正教とまったく同じ形のカトリック教会を作ってロシアに入っていった。カトリックとロシア正教とが、どう違うのか知らないが、ロシア正教徒からはイエズス会は嫌われているのであろう。
日本でも、織田信長に近づいたのは、イエズス会の修道士であった。

陰謀とか秘密結社といった話題になると、アメリカ大統領が、裏で誰かに操られているとか、世界を動かしているのがユダヤ人であるとかいうが、まともに信じる人はいないだろう。
そう言えば、ベストセラーにもなった「ダヴィンチ・コード」もその類の本であった。
ニュートンも、「フリーメイソン」であったかどうかはともかく、何十年も錬金術の研究を続けていた。
探しものは見つからなくても、そのかわり、他の価値あるものが見つかるということはある。

副島隆彦の預言によると、国家は今、めちゃめちゃなことをやりだして暴走を始めている。
日本も「新統制経済国家」への道を歩んでいるということである。

2010年12月19日日曜日

2010年12月16日木曜日

山内昌之・中村彰彦 名将と参謀

時代を作った男たち

2010 中央公論新社

山内昌之 1947年生まれ

中村彰彦 1949年生まれ

歴史ブームのおり、碩学二人の対談集である。
本書を読んでいると、あたかも居酒屋でのサラリーマンの会話のようである。
居酒屋でのサラリーマン同士の話題といえば、その場にいない会社の人間の悪口や噂話である。他人の悪口は、酒の最高の肴だという。
歴史家が、歴史上の人物について語るとき、どんな大人物であっても、こき下ろしたり、笑いの対象になる。相手は、死んでしまった人たちだから、何を言おうとかまわないわけである。
一人で書くときは、おのずから節度がでるが、二人で対談すると、知識をひけらかすこともあって、過去の人物の悪口に近いことが、言いたい放題になるのかもしれない。
たしかに、歴史上の人物が悪いことをしてきたことを書いたらきりがない。
織田信長の残忍さをみると、つくづくあんな時代に生きていなくてよかったと思う。
徳川家康が、豊臣家を滅ぼしたときのきたないやり方は、後々まで記憶されることだろう。
幕末には、陰謀や謀略が渦巻いていたが、坂本龍馬が誰によって暗殺されたかは、いまだに謎である。龍馬の大政奉還論は、徳川を残すものであったのに対して、西郷隆盛などは、あくまで武力による倒幕にこだわっていた。そこで、龍馬が邪魔になってきたのが、龍馬が殺された理由であるという説がある。
その説によると、龍馬暗殺の黒幕は、西郷隆盛であったことになる。
このころの薩摩武士のエネルギーは、すさまじく、平気で人を殺している。
薩摩の黒豚や黒牛は、島津家が琉球から移入したものだという。当時から肉食をしていたのである。
生麦事件で斬られたイギリス人も、島津久光の行列に出会ったのは不運であった。
ともあれ、昔も今も、世の中、きれいごとばかりではない。

2010年12月13日月曜日

関志雄 チャイナ・アズ・ナンバーワン

2009 東洋経済新報社

1957年香港生まれ

1978年、鄧小平によって、それまでの毛沢東路線は否定され、「改革開放」を軸とする政策が始まった。
このとき、中国のGDP規模は日本の2割程度であった。だが、30年間にわったって年率10%近い成長を続けてきた結果、2010年には日中逆転が起こりそうである。それでも、一人当たりのGDPではまだ途上国の域を出ていない。
したがって、今後も高い成長を維持していくことが見込まれている。
2030年までには、中国のGDPがアメリカを抜いて世界のナンバーワンになることも十分ありうることである。

中国は経済大国として台頭してきたが、乗り越えなければならない課題も多い。
人口の高齢化、格差の拡大、環境の悪化、通商摩擦の激化、政治改革の遅れなどである。

著者によると、1990年以降、中国経済が躍進を遂げたのに対し、日本経済が低迷しているのは、日本では「改革開放」が進展していないためである。日本では、政府が既得権益を尊重するあまり、景気対策という名の下に、次から次へと公的資金を衰退産業につぎ込んできた。このため、国全体の投資効率は悪化し、産業の高度化も進展していない。中国から学ぶべきことは、新しい成長分野の育成を推進しなければならないということである。

日本は中国の経験から学ぶとともに、中国経済の活力を活かすべきである。
中国の台頭は脅威となるばかりでなく、日本経済活性化の契機となりうる。中国は生産基地としてだけではなく、製品の市場としても注目されている。日本が優れている分野においては、日本にとっても多くのビジネスチャンスがあり、日中が補完関係に立つことが望ましい。

日中両国の歴史認識の問題や、両国民の相互不信は、経済協力の妨げになっている。
しかし、ヨーロッパでは、二度に渡って世界大戦を戦ったフランスとドイツが経済統合をはたしている。
日中間の過去の歴史も乗り越えられないということはない。

2010年12月12日日曜日

2010年12月11日土曜日

原田武夫 計画破産国家アメリカの罠

―そして世界の救世主となる日本

2009 株式会社講談社

1971年生まれ

著者は、2005年外務省を退職した。「なぜそこまで?」と思わざるを得ないほどバッシングされる官僚制、ますます劇場化し、茶番と化していく政治とマスメディアにたいする違和感もその原因である。
アメリカ発の金融危機が発生すると、世間ではアメリカ流の金融資本主義が終焉したとか、アメリカの覇権が崩壊したとか言われていたが、著者は、そうは思ってはいなかった。
著者によれば、アメリカは「計画破産」を謀っている。
膨大な債務を抱えているアメリカは、そのうち、カナダやメキシコと経済統合して、北米共通通貨「アメロ」を創設するであろう。
そのとき、新通貨の価値は、今のドルに比べて大幅に低下している。
いっぽう、ヨーロッパ諸国も危機的な財政破綻に瀕している。
そのため、世界の投資資金は、最後に選ばれた国・日本に殺到し、一時的に、日本に金融バブルが訪れるはずである。
今のところ、著者の言うようにはなっていない。
しかし、日本は、アメリカの強い影響を受けてきたにもかかわらず、一般の人は、アメリカの政治や経済のことを、ほとんど知らない。
外貨建ての金融商品が溢れていて、それらに投資しないと乗り遅れるのではないかという不安をかき立てられている。
投資によって大きな損をこうむっても、「自己責任」と言われてしまう。
自分ではわからないから、専門家が運用しているという投資信託を薦められる。
それでも、全員が損をすれば、ほとんど逃れることはできない。
先行きどうなるのかわからないという時代であるから、著者のような外務省出身の国際戦略情報の専門家が活躍する余地もあるのだろう。

2010年12月9日木曜日

小島祥一 なぜ日本の政治経済は混迷するのか

2007 株式会社岩波書店

1944年生まれ

日本の政治経済では、政治家、政府、日銀、財界という指導者が自分たちの利益を中心に考え、国全体の利益を考えることができない。

「日本で一番大事なのは自分の属している『集団』を守ることであり、その外側の『国』というものがどうなるかは、つきつめて考える習慣がないと言ってよい。」

「日本は民主主義が身につかず、集団主義で行動しており、積極的自由よりも消極的自由を求めており、『公益』を無視して集団の『私益』を追求している。」

「日本は個人が自立し、自由、平等、民主主義を実行する国として、まだ未成熟だと言わざるをえないのである。」

戦後の日本は、集団主義によってひたすら経済成長を追求し、1980年代の初めには、先進国の経済規模にまで到達した。日本は、それでも飽きたらず、集団主義を強化して、ひた走るだけだった。
その結果は、貿易黒字拡大、日米経済摩擦、プラザ合意、円高、内需拡大、バブルの拡大と崩壊、その後の長期低迷であった。

日本では、「上からの指示」にしても「赤信号、みんなで渡ればこわくない」にしても、他人の行動を基準にして自分も行動するのが無難であるという考え方が強い。
その結果、失敗しても、「みんなで決めたのだ」と言って、誰も責任をとらない。
本書で言う「集団主義」とは、そのような意味も含まれるのであろう。

「日本が政治経済の混迷から脱出するには、個人が自立して、自由、平等、民主主義の国として成熟した国になり、『公益』をもっと強く意識して主張し、場合によっては『私益』を犠牲にする決意が必要である。」

著者は、混迷から脱出するには、他に依存するのではなく、個人の自立が大前提であると言う。

2010年12月7日火曜日

半籐一利 昭和史 戦後編 1945-1989

2006 株式会社平凡社

1930年生まれ

1945年8月15日の天皇による放送によって、国民は日本が降伏したことを知らされた。
鈴木内閣は総辞職し、東久邇宮内閣があとを受けた。マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのは、8月28日である。
その日、東久邇宮は記者会見して、有名な「一億総懺悔」という言葉を使った。
敗戦の原因は、政府だけでなく、国民の道義がすたれたのも原因のひとつであると言い、国民全体が徹底的に反省し、懺悔しなければならないと言った。
そして、この言葉に皆がなんとなしに「そういうもんか」と、納得し責任を追求しなくなったようだという。
戦争中は、新聞やラジオはもちろん、町会、隣組といった身近な組織が、お互いに監視しあい、「国賊」だとか「非国民」だとか言いあって、自分たちの立場の強化につとめていたことも事実である。
戦争責任を追求する「東京裁判」は、アメリカをはじめとする連合国によって行われ、日本人自身による戦争責任の追及はなされなかった。
戦後の改革は、ほどんどすべて占領軍が日本政府に指令を出し、日本がこれらを唯々諾々と受け入れることによって行われた。
つまり、戦後日本の骨組みをつくったのは、マッカーサーと吉田茂であった。
このように、戦後の主な改革は、アメリカによって行われ、日本は、それに従っていただけで、政府の中身は変わらなかった。
鳩山一郎とか岸信介などの戦前からの政治家が活躍し、それだけみると、あたかも戦争などなかったかのようである。
重要な決定は外国頼みで、責任を取る人がいないというスタイルは、その後も続いているようである。

2010年12月6日月曜日

2010年12月3日金曜日

中村隆英 昭和史 Ⅱ (その2)

「昭和の時代は、巨大なドラマのように、波瀾と起伏に満ちていた」、そのなかで、変わらないものがあった。変わらなかったものといえば、官僚機構がある。
むしろ、敗戦によって軍部がなくなった分だけ、官僚機構は強化された。
大学も、戦後、新制大学が多数できたが、東京大学などは、戦前のままであった。

1960年代の終わりになって、大学紛争がおこり、新左翼の活動が活発化した。
新左翼は、それ以前の学生運動とは異なり、多数の学生を引きつけて、一種のブームになった。
彼らの考え方の裏には、日本の社会は安定しており、東大卒の官僚によって支配されているという前提があった。彼らは、それを「国家権力」とか「体制」と呼んだ。
「国家権力」や「体制」にたいする反抗が、大学紛争の根にはあった。
とは言っても、その反抗は、むしろ「体制」に属するはずのエリート学生によるものであった。彼らの多くは、「体制」に組み込まれ、管理されることへの不満から、大学紛争を起こしたが、しょせん、つかのまの学生時代だけ、暴れて反抗してみせたにすぎなかった。
言いかえれば、「体制」や「国家権力」のなかに入って順応すれば、窮屈ではあるが、あとは安泰だと虫のいい考え方をしていたのである。
学生は、就職の心配などしなくてよい時代であった。

新左翼による運動は、最後は、連合赤軍による浅間山荘事件や、反動としての三島由紀夫の割腹自殺などで終わりをとげた。

あとから見れば、これらの事件は「革命」などと言うにはほど遠く、経済成長下の安定した社会での「あだ花」にすぎなかったのであろう。

2010年12月1日水曜日

中村隆英 昭和史Ⅱ 1945ー89

1993 東洋経済新報社

1925~

1945年8月15日の敗戦は、国民にとって、晴天のへきれきであった。
それでも天皇によるラジオ放送の効果は絶大で、軍隊は平穏に武装解除し、アメリカ軍による占領はスムーズに行われた。
国民は、虚脱感におそわれたが、ほどなく解放感にひたった。
アメリカ軍による統治は、直接にではなく、まだ残っていた日本の官僚機構を通じた間接統治であった。
占領軍の政策は、日本の民主化と軍事的無力化であり、誰もが昨日までの態度を一変させて「民主主義」を叫んだ。
政治では、鳩山一郎がGHQによって公職追放され、追放を解除されたら政権をかえすという条件で、吉田茂が首相になった。
吉田内閣のもとで、アメリカの原案をほぼ受け入れ、象徴天皇制と戦争放棄、国民主権を特色とする新憲法が施行された。

やがて、アメリカとソ連の冷戦が深刻化すると、アメリカの日本に対する態度も、日本を弱体化しようとするものから、対共産主義の同盟国としてのものに変わっていった。このようななかで、吉田茂は、アメリカとの間で、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結した。
日本の独立を回復し、同時に日本の防衛をアメリカに肩代わりさせることによって、できるかぎり軍事費を削減して、経済的復興に注力しようとした。

経済復興が一段落してからは、いわゆる55年体制のもとで、議会の三分の二を占める自民党の安定した政権によって、政治は経済の成長と発展を支援した。
自民党支配が安定した結果、党内の派閥抗争が激しくなったが、基本的政策を変えるものではなかった。
しっかりとした官僚制度にも支えられて、1970年代になると、日本は世界第二位の経済大国にまで成長した。

昭和の時代は、ソ連の誕生とその崩壊とに時間的に、ほぼ一致する。
戦前、日本は、国内においては共産主義に神経をとがらせ、満州でソ連と長大な国境を接することになり、ソ連軍は日本軍の最大の敵であった。それに備えて、日独伊防共協定や三国同盟がむすばれた。
戦後も、マルクス主義やマルクス経済学は、学問の世界で主流になったことがある。
ソ連の崩壊後、マルクス主義は相手にされなくなり、社会党も衰退していった。
東西の冷戦構造が解消し、世界が新しい段階に進んで行くことにより、冷戦構造によって政治的、経済的に恩恵を受けていた日本の立場も変化することになった。

昭和の時代は、まさに激動の時代であったが、そのなかでも、変わったものと、変わらないものとがあった。
とくに都市の外観や人々の暮らしは大きく変化した。
いっぽう、人々の考え方や行動は、あまり変わらなかったようである。