2013年3月30日土曜日

春の公園

立町みはらし公園

2013年3月28日木曜日

松本大 「お金の流れ」はこう変わった!


2012 ダイヤモンド社

投資にかぎらず、仕事でも、人づき合いでも「運」は重要である。
どんなに情報を取ったり、理論を身につけても、「運」がないと儲からないし、成功することもできない。
運は寂しがり屋である。運は他の運と寄り添って、密かに暮らしている。
運のない者どうして、または運のある者どうしで寄り添う性質がある。
したがって、幸運を手にするために一番大事なことは「運のいい人のそばにいる」あるいは「運の悪い人とつきあわない」ことである。
人とつきあう場合も、金持ちとつきあえばお金をくれるが、金のない人とつきあうと、金を貸してくれと言われる。
女にもてる男とつきあうと、女友達を紹介してくれるが、もてない男とつきあうと、美人をわざとブスだと言われたりして、足を引っ張られる。
著者が思うには、「運というのは、実は、リスク管理のことではないか」ということである。
運がいい人というのは「リスク管理がうまい人」のことで、運が悪い人とは「リスク管理が下手な人」のことである。
人間は、たくさんの情報を取り入れて、加工や解釈をほどこして行動している。
運を引いてくるかどうかは、けっきょくは情報と、いかにこれを解釈するかにかかっている。
人は株価が上がると買いたくなり、下がると売りたくなる。
相場全体でもそうであるが、個別の銘柄についても同じである。
だから、人気のある銘柄は割高に見えるのに、ますます買われ、人気のない銘柄は割安に見えるのに、ますます売られる。
株価というのは、理屈どおりには動かないところがある。
歳を取ると、経験も知識も積みあがってくるので、分かったつもりになりがちである。
しかし、マーケットでは必ず儲かる理論などはない。
自分だけは正しい判断を下すことができるなどとうぬぼれてはならない。

2013年3月18日月曜日

中島義道 人生を<半分>降りる


1997 株式会社ナカニシヤ出版

人生についての考え方には二つあって、ひとつは自分中心の考え方で、この場合、自分が死んだらすべては終わりである。
もうひとつは、言わば社会を中心とする考え方で、社会というものは、親から子、子から孫へと引き継いでいくもので、個人の死などは、必ず来る節目ではあるが、たいした問題ではないことになる。
60も過ぎると、自分中心の人は、どうせ残りの人生は、たかだか20年くらいでしかない、だから、これからは人生を半分降りて、世の中の雑事に煩わされず自分の好きなように生きようと思う。
社会中心の人は、80を過ぎても、あたかも自分が死ぬことなどないかのようにふるまい、この国の将来を心配したり、自分が生きているうちに実現できるかどうかもわからないオリンピックの東京招致に熱中したりする。
世の中全体としてみれば、社会中心の考え方の人のほうが多く、台風が来ても大地震があっても、何がなんでも出勤しようとするサラリーマンや公務員は、その典型である。
60を過ぎていても、政治家や経営者になれば、重い責任がのしかかり、かえって寿命を縮めてしまうこともある。
そうでない普通の人にとっては、60過ぎでは、自分中心の考え方の方に惹かれる人が多いのではないだろうか。
時間を過去、現在、未来と分けて考えると、過去はすでに変更することができず、現在は短く、未来は不確かである。そうすると、自分とは、もはや変えることができない過去の積み重ねということになる。
だから、60も過ぎれば、人生にとっては、既に確定した長い過去のほうが、未来よりも重みがあるわけである。
人生をを半分降りて、自分中心の生き方をするとは、自分の時間を大事にしようとする生き方でもある。
過去においても、もっと若いころから、半隠遁の生活に入った人たちがいた。
彼らの意思とは違って、のちの世の人に大きな影響を与えたこともあった。
今でも読み続けられている小説の作家なども、たいていは、半分人生を降りた人たちである。
彼らは、世間の目からは不幸な人生に見えても、自分では納得できる生き方を選んだのであろう。

2013年3月12日火曜日

2013年3月11日月曜日

古賀茂明 官僚の責任


2011 株式会社PHP研究所

個々の官僚に絶対的な権力があるわけではないが、官僚全体としては、日本の支配階級である。
典型的な官僚は、東京大学法学部をトップクラスの成績で卒業する。当然、小学校、中学校、高等学校でもトップの成績であったはずである。
このような人たちは、プライドが高く、つねに評価され、認められ、一目置かれることを望んでいる。
ところが、民主党が政権を取ると、管直人のように、「あいつらバカだ」と言う政治家が彼らの上にすわってしまった。
民主党の政治家にしても、霞が関のトップになったのはいいが、まるで敵の陣地に入り込んだようなものである。
民主党と官僚との協力関係は薄れ、民主党の言う「政治主導」というスローガンは、政治家が官僚を排除して、自分たちで何もかもやることに置き換えられたが、知識の乏しい政治家にそんなことができるわけもなかった。
政治家と官僚の非協力的な関係は、東日本大震災と原発事故のときにも見ることができた。
このとき、いらだつ管首相は、官僚を排して、自ら原子力発電所を視察したり、混乱する東京電力の現場に乗り込み、「おまえら、ちゃんとやらなかったらしょちしないからな。」と高圧的な態度で脅かした。
管首相は、官僚にたいする不信感を強め、自分自身で専門家のアドバイスを受けようとした。
官僚は首相にたいする的確なアドバイスをすることもできず、首相官邸と東京電力のあいだのメッセンジャーとなって、責任を逃れようとした。
このとき、著者が言うように、管首相が、「俺にできることは、何でもするから知恵を出せ。」とか「俺が責任を取る。」とか言って度量のある態度を示せば、原子力事故に対する対応も、あるいは違っていたのかもしれない。
素人には、原子力発電の仕組みはわからないと思いこんでいたが、あとから見れば、ようするに一刻も早く原子炉に水を注入すればよかったのである。もっと早く、アメリカの協力を求めていたり、海水を注入する決断をしていればと悔やまれるのである。

2013年3月5日火曜日

ビートたけし 下世話の作法


平成21年 祥伝社

近頃では、親会社の下にいくつかの会社がぶらさがっている持ち株会社がはやっている。
ビートたけしというキャラクターを、持ち株会社にたとえてみたらどうなるだろうか。
ビートたけしは、下町の貧乏人の家に生まれ、浅草で漫才師になったが、いつのまにか、飛ぶ鳥を落とす勢いになっている。
これを持ち株会社にあてはめるとこういうことになる。
まず、持ち株会社としては、冷静な批判精神を持った北野ホールディングズがある。
その下に、「お笑い芸人ビートたけし」「映画監督北野武」、それに資産管理会社である「かみさん」がいる。
お笑い芸人ビートたけしは、浅草のストリップ劇場で漫才から出発し、どこかで引け目を感じている自分を意識している。
映画監督北野武も、何かの縁で映画などつくりはじめてしまったのだが、これがほんとうにやりたいことかどうかはわからない。
それらを客観的に見てコントロールしているのが北野ホールディングズである。
ビートたけしの稼いだお金は、すべて資産管理会社のかみさんが管理している。
ビートたけしは、かみさんから小遣いをもらったり、モノを買ってもらったりしているので、目の玉の飛び出るような値段のエルメスのTシャツを着たり、マンションを所有して不動産経営をしていても、心は浅草の貧乏芸人の頃と変わらないのである。
ビートたけしは、冷静だから、今のテレビのくだらなさも、十分わかっている。
テレビ番組でやっていることは、エロ、飯を食うこと、お笑いの三つだけだという。
はじめからお笑い芸人を目指すような今の若者とは違い、芸人をやっていることが恥ずかしいという感覚も持っている。
テレビでさんざん他人の悪口を言っているが、悪口にも作法があり、妬んだり、恨んだりだけの悪口は言わないようにしている。
悪口を言うときは、よく聞くと、相手を立てて自分を被害者に聞こえるように気をつかっている。
今は、自分の金を払ってお笑い芸人養成スクールへいく若者がけっこう多いそうだから、時代も変わったものである。テレビで言っていいことと、言ってはいけないことのルールでも教わっているのだろうか。
スターが誕生するのは、その時代の人達がスターを作り出してきたからだと言える。
美空ひばりや力道山はスターであるが、もしも彼らが今の時代に現れてもスターにはなれない。
ビートたけしは、現代の人気者だから、なんでも思い通りになることだろう。
政治家にも、かんたんになることができるにちがいない。
もっとも、政治家になったりすれば、ビートたけしのキャラクターに傷が付くだけで終わるのではないだろうか。
その点は、芸人に「なりたくてなったわけじゃない」と客観的に判断できるうちはだいじょうぶである。
自分にはできない「夢」を持つより、自分の生き方そのものを「芸」にできるのが「粋な人」だという。