2011年12月29日木曜日

竹内一郎 ツキの波

2010 株式会社新潮社

1956年生まれ

麻雀小説で一時代を画したのが、阿佐田哲也という作家である。
阿佐田哲也という名前は、「朝だ、徹夜」をモジったものだと言われている。
それほどマージャンやギャンブルに熱中しながら、色川武大というペンネームで小説を書き、しかも数々の賞を受賞したのだから大したものだが、60歳で亡くなった。
阿佐田哲也は、ツキについて深く考えたが、彼によると人間の運の総量は一定である。
だから、良いことばかりが続くと次に悪いことがかならず起こるから注意したほうがいい。
理論的な裏付けがある話ではないが、勝ちに乗じて奢り高ぶっていると、油断して失敗すると考えれば、道理がある。
阿佐田哲也は、ギャンブルを人生感にまで高めていったということができる。
ツキやギャンブルについては、「徒然草」にも記述があり、兼好法師も、あんがい博打に興味があったらしい。
山本五十六も賭ごと、勝負ごとが好きで、しかも、強かったという。
政治とか経営にかかわっていると、しばしば重大な決断をしなければならない。
このときの心理は、賭ごとをするときの心理と似ているので、普段から賭ごとで勘を養っておくのかもしれない。
現代の経営者のなかでも、ユニクロの柳井社長などは、どことなく勝負師の風貌がある。
売れるか売れないかやってみなければわからないという綱渡りを繰り返してきたためだろうか。
もっとも、徒然草には、「『ばくちの、負極まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり』と或者申しき。」(第126段)とある。
阿佐田哲也流に言えば、そう長くはツキは続かず、ツかないときの方がずっと多い。
「ギャンブル依存症」という言葉があり、大王製紙の御曹司が子会社から150億円を賭博のために引き出したり、パチンコに夢中になって幼児を車のなかに放置したりする事件があるたびに話題になっている。
徒然草でも、「『囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ』と或ひじりの申しし事、耳に止まりて、いみじく覚え侍り。」(第111段)という。

2011年12月13日火曜日

日高義樹 アメリカの日本潰しが始まった

2010 株式会社徳間書店

1935年生まれ

アメリカは強大な軍事力と巨大な経済力を使って世界中を突っ走っている。日本に与える影響力も絶大である。
しかし、今のところ運転手は乗っていない。ただ、運転手の制服を着ているのが、オバマ大統領である。
オバマ大統領は、なぜ、当選したのか。
それは、民主党を動かしている大企業や巨大労働組合が、なんとしても政権を取ろうとして、共和党のブッシュ大統領にあきあきした国民にたいし毛色の変わった政治家をおしだして利用しようとしたからである。
オバマ大統領は、「チェンジ」という言葉を叫ぶだけで、何をどう変えようなどという思想も構想もない。
大統領の周りも、政策とは関わりのない、ただ政治的な野心にあふれている人物ばかりで、世界やアメリカのことを考えるより、自分たちの利害だけを考えている。
こういう人たちによって動かされているオバマ大統領は、景気を回復させることも、雇用をつくりだすこともできない。
大企業や大銀行につぎこんだ莫大な資金は、大企業の利益にはなったが、景気を良くしたり、雇用を作ったりするのではなく、中国の景気を良くしただけであった。
そもそも、アメリカはヨーロッパから逃げてきたり追い出された人々が作った国で、世界のリーダーになろうというつもりもなかった。
それが、メキシコから領土を奪い取り、その後、太平洋に進出して、ついには日本を押しつぶした。
ライバルのソビエトが崩壊すると、アメリカは世界の指導者となった。
アメリカは世界のリーダーとなったが、そのアメリカには、アメリカを動かす指導者は存在していない。
日本について言えば、日本人は日米安全保障条約があるから、アメリカは日本を守ってくれると思っているが、日米安全保障条約が締結された当時とは、状況が変わっている。
今や、日本は経済大国となり、アメリカを脅かすまでになっている。
アメリカが日本にたいする友好的な態度をかなぐり捨て、日本を敵とみなす政策を実行しないとは言い切れなくなっている。

2011年12月11日日曜日

白井さゆり ユーロ・リスク

2011 日本経済新聞出版社

1963年生まれ

2010年末現在、ヨーロッパにはおよそ50の国があり、そのうちの27の国が欧州連合(EU)に加盟しており、さらにそのうちの17の国が域内共通通貨「ユーロ」を採用している。
「ユーロ・リスク」とは、「ユーロ」を採用している国々の経済安定にかかわるリスクという意味と、共通通貨「ユーロ」それ自体の信認についてのリスクという二つの意味がある。
最近世界を騒がせている「欧州財政危機」とは、おもに前者のような域内経済問題を指しているが、「ユーロ」それ自体の為替相場も2002年以来おおきく変動している。

ユーロ圏に参加する諸国を三つのグループに分けると理解しやすい。
ドイツやフランスなどの低リスクのグループ、イタリアやベルギーのような中リスクのグループ、ギリシアやポルトガルのような高リスクのグループである。
ギリシアが債務不履行に陥るのではないかという懸念が最近の欧州財政危機の発端である。
仮にギリシアが債務不履行になると、ギリシア国債を保有している銀行は損失をこうむり、金融危機を引き起こすおそれがある。
そうならないためには、ドイツなどの経済的に強い国が弱い国を財政で支援するか、弱い国に財政規律の強化をもとめなけらばならない。
ここで、ドイツがギリシアを助けようとすれば、ドイツ国民が反発し、ギリシアに財政規律の強化をもとめようとすれば、ギリシア国民に大きな負担がかかる。
国民の声を無視するわけにはいかないので、話し合いは容易ではない。
そうしているうちにも国債の格付けは下げられ、市場は混乱する。
最悪のケースでは、「ユーロ」が分裂するのではないかという不安も消えていない。

ところで、ドイツは日本以上の輸出大国である。ドイツが輸出大国でいられるのも、「ユーロ」あってのことである。
もし、ドイツが以前のようにマルクを使っていたとすれば、輸出が増えるとマルク高になり、日本が円高に苦しむように、ドイツもそうは輸出をのばすことはできないはずである。
「ユーロ」を使っているので、域内はもとより、域外においても有利な条件で輸出ができるのである。
いっぽう、ギリシアのような国が「ユーロ」から離脱すれば、ギリシアの通貨価値は暴落して、債務が返済できないだけでなく、国民は急激なインフレに苦しまなければならない。
したがって、ドイツにとってもギリシアにとっても「ユーロ」を維持することには利益がある。
ただ、話し合いによる合意には、関係する国が多いので、時間がかかる。
「ユーロ」がドルに匹敵するような国際通貨となるには、ユーロ圏の諸国が克服しなければならない課題はきわめて多い。

2011年12月5日月曜日

ドナルド・キーン 日本人の戦争

作家の日記を読む

2009 株式会社文芸春秋  角地幸男 訳

1922年生まれ

戦争中は、警察や憲兵の目が怖かったこともあるが、ほどんどの作家は、むしろ自分から進んで戦争に協力した。作家の多くは、戦争初期の勝利に熱狂し、戦争末期の日本の窮状に絶望した。
敗戦後、アメリカ軍に占領されてからの日本人の変わり身の早さは、作家といえども同じであったらしい。
昭和21年に専売局が新しい煙草の図案と名称を募集し、一等に当選したのが、「ピース」であった。
これについて、高見順(1907~1965)は、つぎのように書いた。

「戦争中英語全廃で、私たちに馴染の深かった『バット』や『チェリー』が姿を消しましたが、今度はまた英語国に負けたので英語の名が復活。日本名だってよさそうなものに、極端から極端へ。日本の浅薄さがこんなところにも窺えるというものです。『コロナ』はまあいいとして、『ピース』(平和)なんて、ちょっと浅間しいじゃありませんか。滑稽小説ものですね。好戦国が戦争に負けるとたちまち、平和、平和!」(「高見順日記」)

敗戦後の日本人の豹変ぶりに、日本人自身があきれているのである。
なぜ、こういうことになるのか考えてみると、日本人に限らないのかもしれないが、人は、へたに自分の頭で考えたりせず、流れに乗って、あるいは、空気に動かされて行動しているからである。
たとえ風にそよぐ葦のようだとけなされても、それがもっとも安全なやり方だと思っている。
流れや空気を、いち早く察して、それに自分を合わせようとする。
だから、皆が同じような行動をとることになる。それが、良いとか悪いとかというより、ともかく、人の動きというのはそういうものらしい。
ちいさな魚や弱い動物が群れをつくってあっちへ行ったり、こっちへ行ったりするようなものなのだろう。

2011年12月2日金曜日

外山滋比古 自分の頭で考える

2009 中央公論新社

1923年生まれ

謙虚さということ

「病人を見舞う人間は、どこかで優越感をいだいているようです。自分はありがたいことに健康であるのを、病人の存在によって実感させられるのです。そう考えるだけでも不遜で、病人に対して申し訳ないようなものです。まして、のこのこ出かけていって、優越感を満喫するのは、人の道から外れているといってもよろしい。
その後ろめたさを糊塗するために、品ものを持参するのかもしれません。
優越感を抑えることは困難です。優越感を病人にぶつけるのは、いかにも心ないことのように思われる、という理由で病気見舞をしません。それを慎みの心だと勝手に考えます。」(p150)

病気で入院している人は、孤独で心細いはずである。そのとき人が来て、「早く良くなって」と励ましてくれれば、どんなにか元気がでることであろう。そのいっぽう、空々しい言葉で優越感をむきだしにされたのでは、見舞い客が来たためにかえって疲れがどっとくることだろう。
病気の種類や程度、病人との日ごろからの関係によるのだろうが、私のようにぶっきらぼうな人間にとっては、著者のように見舞いに行かないで、陰ながら快癒を祈るほうが無難かもしれない。
ようするに、時と場合によるのであろう。