2010年10月31日日曜日

2010年10月30日土曜日

米長邦雄 宮本武蔵の次の一手

2002 株式会社説話社

1943年生まれ

宮本武蔵は江戸初期の剣客である。
昔は、彼を知らない日本人はいなかったが今はどうであろうか。
著者は、将棋の永世棋聖という肩書きをもっている。
剣と将棋には、共通するものがあるのかどうかわからないが、どちらも一対一で戦うとういう点では同じである。
宮本武蔵の名前は有名だが、吉川英治の小説「宮本武蔵」は、あくまでフィクションである。間違いなく武蔵のものであるという遺品は、きわめて少ない。
「五輪書」は、武蔵が晩年に書いたものであるが、翻訳されて海外でも読まれている。
武蔵は、剣の道に志し、数々の試合に一度も負けたことがないと言われている。
武蔵の戦いは、厳流島での佐々木小次郎との決闘をもって終わった。その厳流島も、今では埋め立てられて跡形もない。

武蔵は、剣を握る時にはかたく握ってはいけないと言っている。
自然体に構えて、心にゆとりを持ち、手にもゆとりをもって、力をいれるなと言っている。そうすることで、相手の動きに、いかようにも対応できる。
武蔵は、やわらかく握った剣を、相手が打ちかかってきた瞬間にギュッと強く握り、相手を倒すのである。ゆとりがあれば、真剣になったときには、実力以上の力を出せる。
だから、ゆとりは非常に大事なのである。絵に描かれた武蔵は、二本の太刀を持った両手がだらんと垂れ下がっていて、いかにも頼りなさそうに見えるが、それこそが、ゆとりの姿なのである。

著者によれば、人生腹八分目が大切である。
著者は、人生のピークを70歳に置いていて、70歳までは全力投球しないことにしている。
著者は、いまだかって一度も全力疾走したことがない。
いいかげんな人生を送ってきたのではなく、余力を持って次の行動を起こすためである。

2010年10月20日水曜日

長谷川耕造 タフ&クール

Tokyo midnightレストランを創った男

2010 株式会社小学館

1950年生まれ

横浜の漁師町に生まれ、浅野中学から湘南高校に進む。猛勉強して、東京大学も受験するが、早稲田大学商学部に入学する。
ここまでは、普通とあまり変わらないように見えるが、それからが違う。
大学を2年で中退、ヨーロッパに渡り、皿洗いをして金を稼ぎながら、各国を放浪する。
1972年帰国、翌年に23歳で「長谷川実業」を設立、高田馬場に喫茶店「北欧館」をオープンし、大繁盛させる。
1980年以降、三宿や代官山、西麻布などにカジュアルレストランを次々とオープンする。
1997年、「グローバルダイニング」に社名を変更。1999年、東証2部上場。
西麻布の「権八」は、ブッシュ大統領と小泉首相が一緒に来店したことで知られる。
ほかに、イタリアンレストラン、「ラ・ボエム」、米国南部料理、「ゼスト」、アジア料理、「モンスーンカフェ」など、東京都内を中心に約60店のレストランを展開している。

大成功した著者であるが、2008年の「リーマン・ショック」以降の景気低迷で消費者の節約志向が高まり、外食産業の経営には逆風が吹いている。
こうしたなかで、これからどのように経営の舵をとっていくのか、著者の腕の見せどころである。
著者は、経営者としても個人としても、人生を思いきり楽しんで死んでいきたいと思っている。
そのためには、「タフでしかもクールでいこうじゃないか。」と言う。
起業家とか経営者には、つねに明るく前向きな姿勢を保っていくメンタリティーの人が多いようだ。

2010年10月15日金曜日

東急代官山

目切坂

2010年10月13日水曜日

中島義道 人生、しょっせん気晴らし

2009 株式会社文芸春秋

1946年生まれ

著者は、哲学者である。
カントとかショーペンハウアーだとか、今さら読む気もしないし、読んでもわからないだろう。
どうせ、われわれはもうすぐ死んでいくのだから、人生、なにをやっても気晴らしにすぎないらしい。
哲学者というと、一般の人と違うようであるが、酒が好で、「久保田」とか「八海山」とか酒の話題が出てくると、この点では、ふつうの人と変わりはない。

だいたい、若いころは、いっしょうけんめい考えれば、すばらしいアイデアが出てくるのではないかと思うものであるが、いくら考えても、なにも出てこないで、そのうち死んでしまうのがふつうの人ではなかろうか。

著者は、哲学者であるから、人生の知恵を身につけていると思う人がいるせいか、人生相談をしている。
「定年後、何をしたらよいのか分かりません。私はまず、何を考え、何をすべきなのでしょう。」という質問に、著者は、「滑稽です。もっともっと徹底的に悩みなさい。」と答えている。
私も、これでは、質問する人は、悩みを相談しているのか、それともこれまで無難にやってきたことを自慢しているのか理解に苦しむ。
自分の人生を、自分より不幸な他人に相談するとしたら、その他人にとっては自慢話を聞かされていると思うだろう。
占い師というのは、それほど幸福な人には見えないが、そういう人に、相談するというのは、自慢話を聞かせているようなものである。
話を聞かされる代償に占い師は金を得ているのではないだろうか。

2010年10月12日火曜日

小室直樹 日本の敗因

歴史は勝つために学ぶ

2000 株式会社講談社

1932~2010

最近、新聞で著者の訃報をみかけた。

著者は「大東亜戦争」をすべきでなかったと言うが、その理由は、日本が負けたからである。戦争は勝たねばならない、だから、敗れた戦争を肯定するということはありえない。こう聞くと、著者が軍国少年のようであるが、そういうわけではないらしい。
著者によれば、自由もデモクラシーも自らの手で獲得するものである。他人から与えられるものではない。これは、歴史が示すところである。日本がアメリカに占領されて、自由やデモクラシーがもたらされたと言う人は、わかっていない。マッカーサーによって与えられた「戦後デモクラシー」は、弱かった。「大正デモクラシー」が軍部につぶされたように、「戦後デモクラシー」は、ほどなく官僚によってつぶされ、日本は役人独裁の国家となった。だから日本人が本当のデモクラシーを手にするためには、まず「大東亜戦争」に勝っていなければならかったという回りくどい理屈になっている。

官僚組織というのは、しばしば、国家のためという大きな目的を忘れ、自分たちの組織を維持することにしか頭が回らなくなる。これは、戦前の軍事官僚も、戦後の官僚も同じことである。その結果、肝心なときに間違った判断をしてしまう。

「大東亜戦争」は、日本に石油を売らないという「石油禁輸」が開戦の原因になった。アメリカ、イギリス、中国、オランダが「ABCD包囲陣」をつくって日本を包囲した。日本は追い込まれて、開戦した。ここで、著者は、日本はオランダとだけ戦争をするべきであったと言う。オランダ領インドネシアを植民地から解放し、石油を獲得すればよかったのである。このとき、アメリカの世論は、圧倒的に戦争反対であったから、ルーズベルト大統領は戦争することはできなかったであろう。その当時、アメリカ国内の世論や、大統領の戦争をしないという選挙公約に気がつく指導者は、日本にはいなかった。それを、アメリカに攻撃をしかけたものだから「真珠湾を忘れるな」と言われて、アメリカを戦争に巻き込んでしまった。
著者の主張の当否はともかく、アメリカとの戦争を回避できる指導者がいなかったのは残念なことである。

日本の敗因になった「腐朽した官僚システム」は、戦後も脈々と受け継がれている。これを変えるには、著者によれば、教育制度を変えて、日本の将来を支える人を育てることである。しかし、考えてみれば、有能な人を育てる教育制度といっても、これもまた、「官僚システム」である。大学の受験制度は、典型的な「官僚システム」の産物であり、受験生は役所が作った仕組みのために苦しんでいる。
けっきょく、「官僚システム」を改革し、うまく使うしかなさそうである。

2010年10月9日土曜日

早坂茂三 怨念の系譜

2001 東洋経済新報社

1930年生まれ

越後地方は、「裏日本」と言われ、一年の半分を雪で閉ざされて、昔から中央から辺境と位置づけられてきた。
この越後地方から、三人の人物が出ている。幕末の長岡藩の家老、河井継之助、海軍の名将、山本五十六、そして田中角栄である。著者は、長く田中角栄の秘書を勤めていた。
いずれも志半ばで死んだ三人の見果てぬ夢を「怨念の系譜」としてとらえ、名誉を回復し、正当な評価を与えようとするのが本書の目的である。

そのうち、田中角栄は、政権の支持率が圧倒的に高かったころ、庶民宰相、今太閤、コンピューター付きブルドーザーとマスコミにもてはやされた。
そのマスコミは、田中角栄がロッキード事件で逮捕されると、いっせいに手の裏をかえして、金権腐敗政治の元凶ときめつけ、有罪の先入観にたった報道を全国に流し続けた。
東京地方裁判所の一審で実刑判決が言い渡されたとき、逮捕されてから7年近く経過していた。さらに10年後、田中角栄が亡くなって、最高裁判所は、被疑者死亡による公訴棄却を決定した。
有罪無罪をうやむやにされたまま事件は終結した。
いまでは、ロッキード事件のことを知る人も少なくなってしまったが、この事件は不可解な点が多く、「怨念が残った」と言われてもしかたがない。

田中角栄の政策としては、日中国交正常化を実現したことと、「日本列島改造論」が有名である。
「日本列島改造論」は狂乱物価を招いたと批判されたが、「表日本」と「裏日本」の格差をなくそうとした積極的な政策という評価もできる。
田中角栄の政治手腕は卓越しており、官僚を使うのがうまかったと言われている。
大金を動かしたのは事実であるが、金だけが目当てであったわけではなく、今でも国民的人気の高い政治家の一人である。

2010年10月7日木曜日

根岸森林公園



旧根岸競馬場観覧席


2010年10月6日水曜日

半藤一利 山県有朋

1990 PHP研究所

1930年生まれ

山県有朋は、萩の貧しい下級武士の家に生まれた。松下村塾に学び、奇兵隊で活躍した。戊辰戦争や西南戦争を戦った。その後、政府内実力者の相次ぐ死や失脚も手伝って、伊藤博文とともに最高権力者にまで上り詰めた。
日露戦争後は、軍、官界に巨大な派閥を作り、元老として政界を操った。

「大日本帝国」は、山県が伊藤とともにつくったものである。
山県が理想としたのは、天皇の権威を極限にまで高めて、神格化し、天皇が親政する天皇主義国家であった。「軍人勅諭」と「教育勅語」は、その象徴であり、山県はみごとにそれを完成させた。

山県が残したものは、その後も進化発展して近代日本を動かした。
明治から昭和にかけて、これほど影響力の大きな人物は、他にはいない。
しかし、いっぽうでは、権力欲が強く、冷酷であると言われ、国民的な人気があったわけではない。

山県は、民・軍にわたる官僚制度、統帥権の独立、治安維持法、現人神思想などの仕組みをつくった。また、昭和の日本を敗戦に導いた指導者の多くは山県の影響をうけたものたちである。

山県の明治国家の発展興隆への貢献は、非常に大きなものがあった。ただ、幕末の「尊皇攘夷」思想からは、誰が指導者になろうと、このような展開になることは予想されることである。
最後まで生き残った山県有朋も、大正十一年、八十五歳で世を去った。

2010年10月1日金曜日

半藤一利 それからの海舟

2003 筑摩書房

1930年生まれ

勝海舟は、徳川慶喜が「鳥羽伏見の戦い」から逃げ帰ってから、西郷隆盛と交渉して、江戸城の無血開城と慶喜の助命という大仕事を成し遂げた。
その後、慶喜は水戸に移され、さらに静岡に移された。慶喜の静岡移住についても、海舟が尽力し、海舟も静岡に移った。ところが、自尊心の高い慶喜は、困ったときには海舟を頼りにしたのに、逆に危機が去るとともに、弱みを握られている海舟を遠ざけ疎んじるようになった。それでも、海舟の仕事は、移ってきたおおぜいの徳川家の家臣たちにどう職をみつけるか算段することであった。このとき新たに開墾した原野に茶を栽培したのが成功して静岡茶は全国的なブランドになったらしい。
いっぽう、新政府の方でも、しきりに、海舟を政府の要人として迎えいれようとした。
海舟は、受け入れはしたものの、それほど熱心に仕事をしたわけではないらしい。
明治時代の海舟の主な仕事は、旧幕臣の生活の世話と、慶喜の名誉回復に尽力することであった。

西郷隆盛にたいする海舟の友情は、生涯変わることがなく、西南戦争直後の明治12年、ひそかに西郷隆盛を追悼する石碑を建てた。
この石碑は、海舟の死後、荒川放水路の掘削工事のさい、洗足池のほとりの海舟の墓の隣に移された。