2009年10月6日火曜日

神仏習合の本 本地垂迹の謎と中世の秘教世界

2008 株式会社学習研究社

「たしかに日本人は、神社と寺院の違いによって神と仏を区別している。けれども、その区別が明確になるのは明治以降であった。明治政府による『神仏分離』『廃仏毀釈』という政策にもとづいて、神々と仏とは切り離され、峻別されていったのだ。それに対して、近代がはじまる以前の長い歴史のなかでは、多くの寺院と神社は共存し、神々は同時に仏・菩薩でもあった。『神仏習合』の時代である。
平安時代末期から中世にかけて、神々は仏・菩薩が人々を救うために仮に現世に姿を顕したものという考え方(本地垂迹説)が広がる。たとえばアマテラスは観音菩薩あるいは大日如来の垂迹であり、春日大明神は釈迦の化身であった。さらに寺院や神社の奥殿には、荼枳尼天、玉女神、蔵王権現、牛頭天王、魔多羅神、宇賀神、新羅明神といった謎めいたものたちが鎮座していた。」
(「失われたカミたちを求めて」より)

よく知られているように、江戸幕府は大名支配のために参勤交代という制度を用いるとともに、すべての人を「檀家制度」を通じて管理した。これによって日本人は、どこかの寺の信者として登録させられるようになり、寺が幕府の下請けの役所となった。
この結果、江戸時代を通して、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という言葉にあらわされるように寺や坊主嫌いの日本人が増えてしまった。
そのため、明治維新の時、「神仏分離令」が発せられると、各地で民衆の寺に対する反感が爆発して仏像が毀されたりした。
日本人は明治維新によって寺からの支配から解放されたが、400年前からの「檀家制度」は現在にいたるまで仏教寺院の主な収入源になっている。
いっぽうでは、失われたとはいえ長い伝統のある神仏習合の世界への関心も一部で高まっている。

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