2011年7月11日月曜日

川端康成 三島由紀夫 往復書簡

1997 株式会社新潮社

川端康成    1899~1972

三島由紀夫 1925~1970

川端康成と三島由紀夫の師弟関係は、生涯変わることはなく、川端康成がノーベル文学賞を受けるときには、三島由紀夫が推薦し、三島由紀夫の葬儀では、川端康成が葬儀委員長をつとめた。

二人の交流は、昭和20年に20歳の三島が、人を介して自作を川端に贈ったときから始まる。
当時、川端は、すでに著名な作家であったから、若い三島が自分の著書を贈るというのは、相当な自負心があってのことであろう。
二人は、互いの作品を誉めあい、贈り物を交換したり、家族ぐるみのつきあいをしていたことが手紙のやりとりから、かいま見ることができる。
三島の才能がなければ、川端もここまでつきあわなかったのであろうが、三島も川端の文壇での力を利用したのかもしれない。

三島は、晩年、「楯の会」を作ったり、身体を鍛えたりして強そうに振る舞っていたが、川端と同じように、繊細で豊かな感受性の持ち主であり、この社会は、彼らにとっては、生きづらいところであったのだろう。
三島は、昭和45年11月、45歳で、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決したが、これも、あらかじめ計画された演出らしいことが、手紙からも窺うことができる。
昭和44年の手紙では、自分が恐れるのは死ではなく、死後、家族が世間に笑い物にされることで、護ってくれるのは川端さんだけだと書いている。昭和45年の手紙では、「時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、一家揃つて下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます。」と書いている。

昭和47年4月、川端も、逗子マリーナ・マンションの仕事場で、ガス自殺しているのが発見された。

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