昭和59年 三天書房
1899~1983
東條英機は明治17年(1884)に、軍人の子供として生まれた。
少年時代は、喧嘩っ早く、負けず嫌いで、自信が強く、「喧嘩屋東條」とあだ名をつけられた。長ずるに従って、「カミソリ東條」と言われるように、頭の回転は早く、人に対する愛憎好悪が激しく、冗談を理解せず、人から畏れられる人物となった。
東條には、派閥といったものはなく、政治家というより、官僚将校というのがふさわしい。ただ、苛烈酷博な憲兵活動などの例があり、首相時代は、彼に逆らうのは容易ではなかった。
昭和16年、近衛文麿が、日米交渉に行き詰まり内閣を投げ出した後、重臣たちは、後継首相に東條を推した。強硬な陸軍を押さえられるのは、東條しかなく、「日米不戦」の原点に戻って対米交渉を行うことが期待された。
ところが、アメリカ側は、東條内閣の成立を、日本がいよいよ対米戦争をするつもりだと見なした。
このころ、アメリカとの戦争は切迫しており、「交渉」といっても、互いにだましあいながら、準備の時間を稼ぐという感があった。
日本では、軍部が主導権を握ったままで、政治家と官僚のアドバイスを利用していたにすぎなかった。
対米交渉についても譲歩する柔軟性がなく、むしろ一貫して硬直した姿勢で押し通したので、妥協に至ることができなかた。
真珠湾攻撃がアメリカによって仕掛けられた罠であったという説がある。
日本と違ってアメリカでは、軍人ではなく政治家が主導権を握っており、戦争をするためには正当な理由がなければならない。
ルーズベルトやハルは、まず、何とかして、日本に先に発砲させようとして、あの手この手を使っていたという見方がある。
政治力においては、ルーズベルトは近衛や東條より、はるかに上であった。真珠湾攻撃によってアメリカ人の愛国心は沸き立った。
昭和19年、サイパン島が陥落すると、重臣たちは東條内閣打倒に動き東條内閣は退陣した。
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