2003 株式会社晶文社
1929~
著者が幼い頃育った蒲田という町は、当時は、場末の新開地で下町でもなかった。
もともと下町とは、城の下の町という意味で、神田、日本橋、京橋などを言うそうである。
いまでは、「下町」の範囲は、ずっと広くなっている。
蒲田が東京市に編入されて蒲田区になったのは、昭和7年で、戦後、大森区と合併して大田区となった。
そんな蒲田であるが、映画の撮影所があって、新興地の活気があり、自然も残っているというけっこう面白いところであった。
蒲田には、著者が幼いころ、父親が女塚神社のそばで写真屋を開いていた。
伝えられるところによると、新田義貞の子、義興が、足利勢に謀殺されたとき、その寵愛していた侍女も殺された。
そのとき村人があわれんでその女を葬ったのが女塚神社の由来だという。
江戸時代には、蒲田は文字通り田んぼであった。羽田は漁師町だったが、干潟が埋め立てられて、鈴木新田と呼ばれていた。
その堤防が暴風雨のため決壊して大穴があき、海水が侵入するという被害があったので、堤防に稲荷を祀って祈願したところ、五穀豊穣が続いた。そこで、その稲荷は、穴の害から田畑を守ったので、穴守稲荷と呼ばれるようになったという。
穴守稲荷は明治になってから一躍観光地として脚光をあび、京浜電鉄が伸びてきて東京名所の一つになった。
もとは、羽田空港のある場所に位置していたが、戦後強制退去させられ、現在の場所に移った。
そのさい、大鳥居だけは、工事関係者が祟りを怖れて、ながいあいだ移転できなかったことは有名である。
著者は、軍国主義のただなかで育ち、子供のころは、軍国少年であった。
麻布中学から海軍兵学校の予科へとすすみ、戦争が終わったとき、16歳であった。
戦争中は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とか「君がため何か惜しまん若桜、散って甲斐ある命なりせば」とかたたきこまれていた。
ようするに、桜のようにいさぎよくはやく死ねと言われていたのである。
戦争が終わると、それまでの憑き物が落ちたように、人々は命の大切さを強調するようになった。
著者にとっても、その時、生き延びることができたことが、その後の人生の原点になっている。
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