2011年10月28日金曜日
加藤秀俊 隠居学
2005 株式会社講談社
1930年生まれ
落語に登場する「ご隠居さん」は、ちょっと物知りだが、熊さんと珍問愚答をくりかえす滑稽な存在である。
いろいろなことを知っているけれども、別に体系だっているわけでもない。
しかし、そういう知識でもじょうずにつなげていくとひとつの話になる。
知的作業と呼ばれているものもだいたいそんなものである。
年寄り同士が集まると、話題は、病気や健康状態のことになる。
それも、考えてみれば、長生きするようになったからで、昔は、そんな長生きする人ばかりではなかった。
とにかく、からだの不調はかならずどこかにあるというのが人間である。
そこで頼るのが、医者とクスリであるが「薬九層倍」というように、昔から薬の値段は原価にくらべて非常に高い。
クスリで思い出すのが富山の置き薬売りである。規制が厳しくなり高齢化も進んでいるが、今でも一部は健在である。
縁日や祭礼など人が集まるところで露天の店をだしてモノを売るのが香具師と書いて、「ヤシ」と読む。
今では禁止されているが、昔は、筑波山麓ガマの膏(あぶら)売りのようにクスリも売っていたのである。
クスリで儲けた話は多く、資生堂とかダイエーが大きくなったのも、クスリを売ったからだという。
最近の高額所得者も、クスリや健康関連業種が上位を占めているそうである。
1930年生まれ
落語に登場する「ご隠居さん」は、ちょっと物知りだが、熊さんと珍問愚答をくりかえす滑稽な存在である。
いろいろなことを知っているけれども、別に体系だっているわけでもない。
しかし、そういう知識でもじょうずにつなげていくとひとつの話になる。
知的作業と呼ばれているものもだいたいそんなものである。
年寄り同士が集まると、話題は、病気や健康状態のことになる。
それも、考えてみれば、長生きするようになったからで、昔は、そんな長生きする人ばかりではなかった。
とにかく、からだの不調はかならずどこかにあるというのが人間である。
そこで頼るのが、医者とクスリであるが「薬九層倍」というように、昔から薬の値段は原価にくらべて非常に高い。
クスリで思い出すのが富山の置き薬売りである。規制が厳しくなり高齢化も進んでいるが、今でも一部は健在である。
縁日や祭礼など人が集まるところで露天の店をだしてモノを売るのが香具師と書いて、「ヤシ」と読む。
今では禁止されているが、昔は、筑波山麓ガマの膏(あぶら)売りのようにクスリも売っていたのである。
クスリで儲けた話は多く、資生堂とかダイエーが大きくなったのも、クスリを売ったからだという。
最近の高額所得者も、クスリや健康関連業種が上位を占めているそうである。
2011年10月26日水曜日
安田登 異界を旅する能
2011 株式会社筑摩書房
1956年生まれ
著者は能楽師である。
能という芸能は、今からおよそ650年ほど前に観阿弥、世阿弥父子によって大成され、今に受け継がれている。
能の舞台は、主人公であるシテ、脇役のワキ、楽器を演奏する囃子方、謡を受け持つ地謡などで構成されている。
このうち、もっとっも目立って活躍するのは、シテである。ワキは、「諸国一見の僧」や「一所不住の僧」であることが多く、初めのころシテの演技を引き出したら、あとは、舞台の隅で、ただ座っていることが多い。
一般に、能や歌舞伎のような伝統芸能では、このような役割が、代々引き継がれてきたらしい。
著者は、文字通り、ワキ役に徹していて、けっして主役にはならない。
しかし、「ワキ」という役は、単なる脇役とは違い、重要な役割を持っているという。
そもそも、ワキがいなければ、シテが現れてくることができない。
ワキは目立たないが無視できない力を持っている。
ふつうの人には見えない異界の存在であるシテを呼び出し、出会うことができるのはワキだけである。
このように、能という芸能は、いろいろな役割をもった人がそれぞれの役割を演じることによって成り立っている。
話は変わるが、会社などの組織も同じことで、各自がそれぞれの役割をしっかり果たすことで会社という組織がうまく機能する。
会社は、皆を出世させることはできない。そこで、地位の上下は、単なる役割の違いにすぎず、立場はみな同じであるという考え方がでてくる。
長年勤務した人は、表彰し、定年まで勤めた人には、長いあいだ会社の為に働いていただきありがとうございましたとねぎらいの言葉をかける。このようにして、たとえ出世しなくても、自分が働いた会社を愛し、自慢する人ができるのである。
かっては、こうしたことが、日本の企業の慣行だったこともあるが、いまは、どうなのであろうか。
1956年生まれ
著者は能楽師である。
能という芸能は、今からおよそ650年ほど前に観阿弥、世阿弥父子によって大成され、今に受け継がれている。
能の舞台は、主人公であるシテ、脇役のワキ、楽器を演奏する囃子方、謡を受け持つ地謡などで構成されている。
このうち、もっとっも目立って活躍するのは、シテである。ワキは、「諸国一見の僧」や「一所不住の僧」であることが多く、初めのころシテの演技を引き出したら、あとは、舞台の隅で、ただ座っていることが多い。
一般に、能や歌舞伎のような伝統芸能では、このような役割が、代々引き継がれてきたらしい。
著者は、文字通り、ワキ役に徹していて、けっして主役にはならない。
しかし、「ワキ」という役は、単なる脇役とは違い、重要な役割を持っているという。
そもそも、ワキがいなければ、シテが現れてくることができない。
ワキは目立たないが無視できない力を持っている。
ふつうの人には見えない異界の存在であるシテを呼び出し、出会うことができるのはワキだけである。
このように、能という芸能は、いろいろな役割をもった人がそれぞれの役割を演じることによって成り立っている。
話は変わるが、会社などの組織も同じことで、各自がそれぞれの役割をしっかり果たすことで会社という組織がうまく機能する。
会社は、皆を出世させることはできない。そこで、地位の上下は、単なる役割の違いにすぎず、立場はみな同じであるという考え方がでてくる。
長年勤務した人は、表彰し、定年まで勤めた人には、長いあいだ会社の為に働いていただきありがとうございましたとねぎらいの言葉をかける。このようにして、たとえ出世しなくても、自分が働いた会社を愛し、自慢する人ができるのである。
かっては、こうしたことが、日本の企業の慣行だったこともあるが、いまは、どうなのであろうか。
2011年10月11日火曜日
小沢昭一 せまい路地裏も淡き夢の町
2003 株式会社晶文社
1929~
著者が幼い頃育った蒲田という町は、当時は、場末の新開地で下町でもなかった。
もともと下町とは、城の下の町という意味で、神田、日本橋、京橋などを言うそうである。
いまでは、「下町」の範囲は、ずっと広くなっている。
蒲田が東京市に編入されて蒲田区になったのは、昭和7年で、戦後、大森区と合併して大田区となった。
そんな蒲田であるが、映画の撮影所があって、新興地の活気があり、自然も残っているというけっこう面白いところであった。
蒲田には、著者が幼いころ、父親が女塚神社のそばで写真屋を開いていた。
伝えられるところによると、新田義貞の子、義興が、足利勢に謀殺されたとき、その寵愛していた侍女も殺された。
そのとき村人があわれんでその女を葬ったのが女塚神社の由来だという。
江戸時代には、蒲田は文字通り田んぼであった。羽田は漁師町だったが、干潟が埋め立てられて、鈴木新田と呼ばれていた。
その堤防が暴風雨のため決壊して大穴があき、海水が侵入するという被害があったので、堤防に稲荷を祀って祈願したところ、五穀豊穣が続いた。そこで、その稲荷は、穴の害から田畑を守ったので、穴守稲荷と呼ばれるようになったという。
穴守稲荷は明治になってから一躍観光地として脚光をあび、京浜電鉄が伸びてきて東京名所の一つになった。
もとは、羽田空港のある場所に位置していたが、戦後強制退去させられ、現在の場所に移った。
そのさい、大鳥居だけは、工事関係者が祟りを怖れて、ながいあいだ移転できなかったことは有名である。
著者は、軍国主義のただなかで育ち、子供のころは、軍国少年であった。
麻布中学から海軍兵学校の予科へとすすみ、戦争が終わったとき、16歳であった。
戦争中は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とか「君がため何か惜しまん若桜、散って甲斐ある命なりせば」とかたたきこまれていた。
ようするに、桜のようにいさぎよくはやく死ねと言われていたのである。
戦争が終わると、それまでの憑き物が落ちたように、人々は命の大切さを強調するようになった。
著者にとっても、その時、生き延びることができたことが、その後の人生の原点になっている。
1929~
著者が幼い頃育った蒲田という町は、当時は、場末の新開地で下町でもなかった。
もともと下町とは、城の下の町という意味で、神田、日本橋、京橋などを言うそうである。
いまでは、「下町」の範囲は、ずっと広くなっている。
蒲田が東京市に編入されて蒲田区になったのは、昭和7年で、戦後、大森区と合併して大田区となった。
そんな蒲田であるが、映画の撮影所があって、新興地の活気があり、自然も残っているというけっこう面白いところであった。
蒲田には、著者が幼いころ、父親が女塚神社のそばで写真屋を開いていた。
伝えられるところによると、新田義貞の子、義興が、足利勢に謀殺されたとき、その寵愛していた侍女も殺された。
そのとき村人があわれんでその女を葬ったのが女塚神社の由来だという。
江戸時代には、蒲田は文字通り田んぼであった。羽田は漁師町だったが、干潟が埋め立てられて、鈴木新田と呼ばれていた。
その堤防が暴風雨のため決壊して大穴があき、海水が侵入するという被害があったので、堤防に稲荷を祀って祈願したところ、五穀豊穣が続いた。そこで、その稲荷は、穴の害から田畑を守ったので、穴守稲荷と呼ばれるようになったという。
穴守稲荷は明治になってから一躍観光地として脚光をあび、京浜電鉄が伸びてきて東京名所の一つになった。
もとは、羽田空港のある場所に位置していたが、戦後強制退去させられ、現在の場所に移った。
そのさい、大鳥居だけは、工事関係者が祟りを怖れて、ながいあいだ移転できなかったことは有名である。
著者は、軍国主義のただなかで育ち、子供のころは、軍国少年であった。
麻布中学から海軍兵学校の予科へとすすみ、戦争が終わったとき、16歳であった。
戦争中は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とか「君がため何か惜しまん若桜、散って甲斐ある命なりせば」とかたたきこまれていた。
ようするに、桜のようにいさぎよくはやく死ねと言われていたのである。
戦争が終わると、それまでの憑き物が落ちたように、人々は命の大切さを強調するようになった。
著者にとっても、その時、生き延びることができたことが、その後の人生の原点になっている。
2011年10月8日土曜日
永井荷風 断腸亭日乗(摘碌)
1987 岩波文庫
永井荷風が好きだと言う人と嫌いだと言う人は、どちらも多いのではないだろうか。
永井荷風は、山の手の裕福な家庭に生まれ、若い頃に結婚したことはあるが、すぐに離婚した。
親に財産があったので、芸者や娼婦と遊んで暮らし、生涯独身で世の中に背を向けて過ごした。
そういうイメージがあるためか、荷風が嫌いな人は、不道徳だと言って批判する。
逆に、荷風を好きな人は、自由で都会的な生き方に共感をおぼえる。
荷風が不道徳だったと言われれば、そういう面もあるのではないだろうか。
荷風は、「断腸亭日乗」という膨大な日記を残したが、一部を読むと、そんな気がする箇所もある。
1923年(大正12年)9月1日
正午になろうとするとき、関東大震災が東京を襲った。
荷風は本を読んでいたが、書架の本が落ちてくるのに驚き、庭に出た。
何度も大地が震動し、まるで船の上に立っているかのようであった。
門につかまって我が家を見ると、幸いにも屋根の瓦が少し滑った程度であった。
昼食をとろうと近所の山形ホテルに行くと、食堂の壁が落ちたので食卓を道路の上に移していた。
食後家に戻ろうとしたが、震動が止まないので家に入ることができなかった。
夕食は、ふたたびホテルでとって愛宕山に登り、市中の火事を観望した。
火は夜になって荷風の家の近くまで迫ったが、荷風の家は延焼を免れた。
1923年10月3日
愛宕山の坂上から東京市街を見渡すと、一面の焦土で遮るものが無く、房総の山々が手に取るように近くに見えた。
帝都荒廃の光景は、哀れと言うのも愚かである。
けれども、明治以来大正までの帝都を顧みれば、いわゆる山師の玄関と変わりなく、愚民を欺くいかさまに過ぎない。こんなものが灰になったところで、さして惜しむには及ばない。
近頃、世間一般の奢侈嬌慢、貪欲飽くことを知らない有様を顧みれば、この度の災禍は実に天罰と言うべきである。何で深く悲しむことがあろう。
外観のみ飾り立てて百年の計を持たないい国家の末路などこんなもので、自業自得天罰覿面とはこのことである。
関東大震災では、何万人もの人が死んだが、荷風は山の手の麻布に住んでいて、自らは、たいした被害も被らなかったので、日記には被災した人にたいする同情の気持ちを覗うことはできない。
荷風のこうした自分のことしか考えないという態度は、不道徳と言えば不道徳である。
もっとも、そこがまた荷風文学の面白さで、生きていたときは他人のことなど考えなかった小説家の文学が、死んでから他人に愛されているというわけである。
震災といえば、今年の3月に起きた東日本大震災であるが、こちらのほうも津波に襲われて多数の死者がでた。
上空からみると、田んぼの上を水が移動しているようにしか見えない光景も、その下は地獄であったのだろう。
地震が発生してから津波が襲ってくるまでにはかなりの時間があり、逃げようと思えば逃げられたのに、逃げずに命を落とした人も多かったらしい。
人は、自分が次の瞬間に死ぬこともわからないのだから、まして、他人のことなどわからないのも無理はない。
それでいいというのではなく、他人に同情するには、学習と想像力が必要なのではないかと思う。
永井荷風が好きだと言う人と嫌いだと言う人は、どちらも多いのではないだろうか。
永井荷風は、山の手の裕福な家庭に生まれ、若い頃に結婚したことはあるが、すぐに離婚した。
親に財産があったので、芸者や娼婦と遊んで暮らし、生涯独身で世の中に背を向けて過ごした。
そういうイメージがあるためか、荷風が嫌いな人は、不道徳だと言って批判する。
逆に、荷風を好きな人は、自由で都会的な生き方に共感をおぼえる。
荷風が不道徳だったと言われれば、そういう面もあるのではないだろうか。
荷風は、「断腸亭日乗」という膨大な日記を残したが、一部を読むと、そんな気がする箇所もある。
1923年(大正12年)9月1日
正午になろうとするとき、関東大震災が東京を襲った。
荷風は本を読んでいたが、書架の本が落ちてくるのに驚き、庭に出た。
何度も大地が震動し、まるで船の上に立っているかのようであった。
門につかまって我が家を見ると、幸いにも屋根の瓦が少し滑った程度であった。
昼食をとろうと近所の山形ホテルに行くと、食堂の壁が落ちたので食卓を道路の上に移していた。
食後家に戻ろうとしたが、震動が止まないので家に入ることができなかった。
夕食は、ふたたびホテルでとって愛宕山に登り、市中の火事を観望した。
火は夜になって荷風の家の近くまで迫ったが、荷風の家は延焼を免れた。
1923年10月3日
愛宕山の坂上から東京市街を見渡すと、一面の焦土で遮るものが無く、房総の山々が手に取るように近くに見えた。
帝都荒廃の光景は、哀れと言うのも愚かである。
けれども、明治以来大正までの帝都を顧みれば、いわゆる山師の玄関と変わりなく、愚民を欺くいかさまに過ぎない。こんなものが灰になったところで、さして惜しむには及ばない。
近頃、世間一般の奢侈嬌慢、貪欲飽くことを知らない有様を顧みれば、この度の災禍は実に天罰と言うべきである。何で深く悲しむことがあろう。
外観のみ飾り立てて百年の計を持たないい国家の末路などこんなもので、自業自得天罰覿面とはこのことである。
関東大震災では、何万人もの人が死んだが、荷風は山の手の麻布に住んでいて、自らは、たいした被害も被らなかったので、日記には被災した人にたいする同情の気持ちを覗うことはできない。
荷風のこうした自分のことしか考えないという態度は、不道徳と言えば不道徳である。
もっとも、そこがまた荷風文学の面白さで、生きていたときは他人のことなど考えなかった小説家の文学が、死んでから他人に愛されているというわけである。
震災といえば、今年の3月に起きた東日本大震災であるが、こちらのほうも津波に襲われて多数の死者がでた。
上空からみると、田んぼの上を水が移動しているようにしか見えない光景も、その下は地獄であったのだろう。
地震が発生してから津波が襲ってくるまでにはかなりの時間があり、逃げようと思えば逃げられたのに、逃げずに命を落とした人も多かったらしい。
人は、自分が次の瞬間に死ぬこともわからないのだから、まして、他人のことなどわからないのも無理はない。
それでいいというのではなく、他人に同情するには、学習と想像力が必要なのではないかと思う。
2011年10月5日水曜日
池波正太郎 一升枡の度量
2011 有限会社幻戯書房
1923~1990
「一升枡の度量」とは、文字通り、一升の枡には、一升の米しか入らないという意味である。
例えば、日本の国土は狭く、その中に入るモノは、限られている。
それを、戦後の日本は、あたかもいくらでも入る枡であるかのように経済成長を追求したものだから、無理が来たのである。
狭い国土で、いつまでも「世界第二位の経済大国」が維持できるわけがない。
それなりの規模にまで国も縮小せざるを得ないのだろうが、できるだけ緩やかであってもらいたいと願うばかりである。
個人の度量にも、おのすから限度がある。いくらがんばっても、何でもできるというわけにはいかない。
まして、歳を取れば、能力も衰えてくるから、なおさらである。
いまさら、若い時に聞いた「少年老い易く学成り難し」などと思いだしてみたところで始まらない。
度量の大きな人物といえば、西郷隆盛の名が思い浮かぶ。彼が、最も盛んだった時には、文字通り向かうところ敵なしであった。
それが、鹿児島に帰ってから、西南戦争で敗れ、哀れな最後を遂げたのも、彼の「度量」の限界だったのであろう。
もっとも、西郷隆盛については、歴史家の評価は、高くなったり低くなったりと、大きく変わっているという。それだけ、「度量」の広い人物であったことは確かである。
池波正太郎は、たくさんの時代小説を書いたが、作中の人物に成り切ってしまうという特殊な才能があったらしい。
もちろん、完全に成り切ったわけではないのだろうが、一種の「神がかり」の状態に自分をもっていける才能があったのかもしれない。
もしそうしたことができるのなら、自分でも楽しみ、他人にもおもしろい小説が書けそうである。
若い頃、株式仲買店に勤めたことがあり、いろいろな人に接した経験から人の気持ちがわかるようになったのがプラスになっているというが、同じような経験があっても、普通の人は小説など書けるものではない。
日本には、「分相応」という言葉があり、自分の能力や身分にふさわしいことで満足するというのも生活の知恵である。
1923~1990
「一升枡の度量」とは、文字通り、一升の枡には、一升の米しか入らないという意味である。
例えば、日本の国土は狭く、その中に入るモノは、限られている。
それを、戦後の日本は、あたかもいくらでも入る枡であるかのように経済成長を追求したものだから、無理が来たのである。
狭い国土で、いつまでも「世界第二位の経済大国」が維持できるわけがない。
それなりの規模にまで国も縮小せざるを得ないのだろうが、できるだけ緩やかであってもらいたいと願うばかりである。
個人の度量にも、おのすから限度がある。いくらがんばっても、何でもできるというわけにはいかない。
まして、歳を取れば、能力も衰えてくるから、なおさらである。
いまさら、若い時に聞いた「少年老い易く学成り難し」などと思いだしてみたところで始まらない。
度量の大きな人物といえば、西郷隆盛の名が思い浮かぶ。彼が、最も盛んだった時には、文字通り向かうところ敵なしであった。
それが、鹿児島に帰ってから、西南戦争で敗れ、哀れな最後を遂げたのも、彼の「度量」の限界だったのであろう。
もっとも、西郷隆盛については、歴史家の評価は、高くなったり低くなったりと、大きく変わっているという。それだけ、「度量」の広い人物であったことは確かである。
池波正太郎は、たくさんの時代小説を書いたが、作中の人物に成り切ってしまうという特殊な才能があったらしい。
もちろん、完全に成り切ったわけではないのだろうが、一種の「神がかり」の状態に自分をもっていける才能があったのかもしれない。
もしそうしたことができるのなら、自分でも楽しみ、他人にもおもしろい小説が書けそうである。
若い頃、株式仲買店に勤めたことがあり、いろいろな人に接した経験から人の気持ちがわかるようになったのがプラスになっているというが、同じような経験があっても、普通の人は小説など書けるものではない。
日本には、「分相応」という言葉があり、自分の能力や身分にふさわしいことで満足するというのも生活の知恵である。
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