2011年9月15日木曜日

司馬遼太郎 街道をゆく42 三浦半島記

1996 朝日新聞社

三浦半島は、中世以来、日本史上の重要な出来事が起きた場所である。
この地の豪族であった三浦氏は、鎌倉幕府の成立に功があった。
江戸の幕末期には、幕府によって横須賀に軍港設備がつくられ、それをひきついだ明治政府によって海軍の本拠地となった。

その昔、平安時代は、文字通り平和な時代で、死刑が行われなかったという。
そのころ、関東地方は、碓井と足柄の坂より東なので、坂東と呼ばれていた。
都の貴族にとっては、ともかく遠いところであった。中央からの支配が弱かったので、農民は独力で自分たちを守るしかなく、勇猛果敢な坂東武者が歴史に登場するようになった。
1180年、伊豆に流されていた源頼朝は石橋山で平家追討の兵をあげたが、敗れて相模湾に逃れた。そのとき、海上で三浦氏の軍勢と合流して、房総半島に上陸し、東京湾を一周して鎌倉に入ったときには、坂東各地から集まった多数の武士で、強力な軍団ができていた。それからわずか五年で、平氏は滅亡した。しかし、源氏の運命は、平氏以上に血なまぐさく、頼朝とその子の代しか続かなかった。
鎌倉幕府が安定したのは、北条執権政治の時代になってからである。鎌倉幕府によって始められた武家の政権は、それから数百年続いた。

明治時代には、横須賀に海軍鎮守府がおかれ、横須賀は海軍の町になった。海軍がもっともはなばなしい活躍をしたのは、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破ったときである。
海軍は陸軍と違って合理的に考える伝統があり、アメリカと戦争しても勝つみこみのないのは十分わかっていた。それでも、山本五十六は、一年か二年だったら暴れて見せますと言った。軍人だから、負けますとは言わなかったが、負けると言ったのも同然である。負けるとわかっている戦で、勇猛果敢に戦って、みごとに散ってみせるという精神は、ことによると、坂東武者のものかもしれない。千年近くの時間を経て、坂東武者のDNAが、日本人のなかに残っていたとしても不思議ではない。

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