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1933年生まれ
本居宣長は、江戸中期の国学者で、三十年以上かけて大著「古事記伝」を完成させた。
戦前の小学校では、国語読本に宣長とその師賀茂真淵の出会いの物語「松坂の一夜」という文章がのせられていた。
このこともあって、戦前・戦中の日本人には、「敷島のやまと心を人問はば朝日ににほふ山ざくら花」という歌とともに、本居宣長は、広く知られ記憶されていった。
賀茂真淵は、万葉集を研究していたが、漢字を仮名として表記している言葉こそが、日本の古語やまとことばであり、漢字はあくまで借り字であると主張した。
真淵は、「古事記」などを正しく解釈するためには、古の心を理解しなければならない、そのためには漢ごころを除き去らねばならないとした。
宣長の古事記からの「やまとことば」の訓み出しも同じ考え方ですすめられた。
宣長にとって、「古事記」の漢文をよむとは、その漢文を通して、古代に話されていた古言やまと言葉を訓みだすことであった。
漢字とは、日本がやむなく受容した外国の文字であり、漢字には漢の国の異質な他者性が刻印されている、そのため漢字で書かれている「古事記」は、「古語のまま」に訓まれ、解されなければならないとした。
本居宣長のような国学者は、漢字で書かれた儒教や仏教のような外国の文化が日本にもたらされる前に、「ほんとうの日本」の文化があったはずだという考え方を持っていた。
宣長の神についての考え方は、多神教的でもあるが、天照大御神の生まれた皇国日本の絶対化という点では、一神教的でもある。いずれにしても、宣長は、「かみ」は人間の理解を超えているとしている。
宣長は、仏教を排したので、死後の世界に極楽とか地獄とかの区別があるとは考えなかった。死ねば、善人だろうが悪人だろうが、皆よみの国へ行くだけであるという。
宣長には有名な「遺言書」というものがあり、その中で、葬儀や墓について詳細に指示している。山室山に墓地を定め、別にある本居家の菩提寺には空の棺を送るように指示している。
実際には、いったん菩提寺で仏教による葬式が行われた後に、山室山に葬られている。遺言通りにはいかなかったのは、奉行所の指示によるものと思われる。
山室山の墓所は、まるい土の塚に山桜が植えられたものである。
墓所を定めたときに、宣長はつぎの歌を詠んだ。
「山室に千年の春のやどしめて風にしられぬ花をこそ見め」
「今よりははかなき身とはなげかじよ千代のすみかをもとめえつれば」
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