2010年9月12日日曜日

半藤一利 幕末史

2008 株式会社新潮社

1930年生まれ

1853年、アメリカからペリーの艦隊が来航し、日本は開国した。
それにもかかわらず、「尊皇攘夷」の世論は、ますます強くなっていた。開国を強行した井伊大老は、水戸の浪士によって暗殺された。攘夷派が圧倒的多数を占めるなかで、もう時代は開国だと思っている人も、攘夷派のふりをした。そうしないと、暗殺されかねないからである。攘夷派と開国派にはっきりと分かれていたのではなく、入り乱れて、わかりにくくなっていた。
水戸の攘夷派が立ち上げた「天狗党」は、慶喜を応援しようと決起し京都をめざしたが、見殺しにされ、行き場を失って、3百人以上が敦賀で斬られた。

1866年、和宮の夫である将軍家茂が死去し、慶喜が将軍になった。続いて、和宮の兄である孝明天皇が突然死去した。孝明天皇の死は、暗殺されたのではないかという疑惑がつきまとっている。孝明天皇は、外国人が大嫌いで、かつ幕府を倒そうなどという考えは少しも持っていなかった。

1867年、岩倉具視らの公家と薩摩・長州連合の陰謀によって「討幕の密勅」が発せられた。おなじ頃、慶喜は、山内容堂の勧めにより、大政奉還の建白書を朝廷に提出した。

1868年、官軍(薩摩・長州)と旧幕府軍とが、鳥羽伏見で衝突した。
この戦いで、大阪城にいた徳川慶喜は、薩長軍が「錦の御旗」を掲げ、旧幕府軍が「賊軍」とされたのを知ると、戦う意欲を失い、江戸に逃げ帰ってしまった。
慶喜は、勝海舟に後のことはまかせ、上野寛永寺の大慈院に蟄居して恭順の意を表した。
いっぽう、官軍は、江戸に向かって進軍していた。
その間、西郷隆盛と勝海舟の会談によって、江戸城は無血開城された。
戊辰戦争を戦った会津藩、長岡藩などは、「賊軍」にされるとも思わず、徳川に対する忠誠心から薩長と戦っていると思っていた。

以上のように、幕末と明治初期は、大混乱の時代で、殺し合いが普通の時代であった。いわゆる「勤皇の志士」も、志は高かったにしても、報われた者は、ほどんどいない。
「明治の元勲」と呼ばれる人たちも、暗殺されたり、戦死したりして、最後に残ったのは伊藤博文と山県有朋だけである。

東京の旧市民は、薩長嫌いで、東京生まれの夏目漱石や永井荷風は、その作品のなかで、「維新」という言葉は使わず、徳川家の「瓦解」と表現している。
著者も、そういう心情に共感する一人である。

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